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新聞書評の楽しみ [読書]

 いつも何かおもしろい本はないか? と思っている人間にとって、週末に新聞の書評欄を眺めるのは楽しみのひとつです。最近は書店へ出かけて、棚を見て回るのが億劫になって、読む本がきれると、自宅の本棚から、未読本を探していましたが、それも種切れぎみです。



 新聞で紹介される本も、最近は歳のせいか、興味がそそられるのが少なくなって、困ったものだと思っています。



 先週の毎日新聞の書評欄「今週の本棚」では、星野太『食客論』(講談社)にちょっとこころが動きました。紹介者の永江朗は < 古今東西、傍らで食べる寄生者 > についての話と要約していました。わたしも日頃、食客のような存在と自覚していたので、興味をもよおしたのかも知れません。



 今週は、『つげ義春 流れ雲旅』(朝日新聞出版)というのが紹介されていました。1969-70年に漫画家のつげ義春が編集者と写真家とともに出かけた旅の記録に、その後の旅を加えて復刊したのだそうです。東北、四国、九州などを巡っているようです。どうと言うこともない本なのでしょうが、つげ義春の絵や言葉が楽しめそうです。



 あの時代、わたしも東北や九州へ流れ雲のような旅をしました。振り返れば、こどもから大人への脱皮の時期だったのでしょう。



 また、村上春樹の新作『街とその不確かな壁』(新潮社)について、二人の評者が論評していました。わたしは 1980年代以後、彼の新刊が出るたびに読んでいましたが、ここ十年程は遠ざかってしまいました。自分にとって彼の小説が身に沁むものでは無くなった気がします。また読むことがあるのか不明です。



 人によって本への興味はさまざまなので、新聞で紹介する本を選ぶのも大変でしょう。読者としては、好みの近い書評者が何人かいるもので、今週はどんな本を紹介してくれるのかと楽しみに待つことになります。



#「今年の「この3冊」」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2022-12-17


つげ義春 流れ雲旅

つげ義春 流れ雲旅

  • 出版社: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2023/01/20
  • メディア: 単行本

 


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時代の条件 [読書]

 新聞の書評欄を見ていると、梶井基次郎『城のある町にて』のことが取り上げられていたのですが、そういえば『檸檬』とか『櫻の樹の下には』は記憶にあるのですが、これは読んだ覚えがないので・・・本箱のどこかに文庫本か何かが有るかもしれないとしても、目の具合もあり、Kindleで「青空文庫」のを読んでみました。



 小説は寝転がって読むことが多いのですが、ノートPCではそうもいかず、首や肩が凝ってきます。短篇なのでなんとか読了できましたが、長篇はとても無理です。タブレットなら少しはましかもしれませんが、画面が小さく目が疲れそうです。



 『城のある町にて』は三重県の松阪が舞台になっています。わたしは松阪へは一度行ったことがあるのですが、夜だったので、城跡も町のたたずまいも記憶にありません。梶井基次郎は明治 34年(1901)に大阪市で生まれていますが、松阪は姉の嫁ぎ先でした。1924年、可愛がっていた異母妹が結核で急逝し、自らも結核に罹り、姉の勧めで養生がてら松阪に行ったようです。



< 今、空は悲しいまで晴れていた。そしてその下に町は甍(いらか)を並べていた。>



 少し硬質な文章で、姉夫婦一家との日々がスケッチされます。穏やかな暮らしのなかで喪失感が薄らいでいくようです。



 戦前の青年たちには結核という病気が身近でした。時代を象徴する病気とも言えます。わたしは戦後生まれですが、小学校の帰り道で、近所の人から「おまえの家は結核筋や」と言われたのを憶えています。



 抗生物質の発見やワクチンの開発によって、感染症が表舞台から去り、寿命が伸び、表面に出てきたのがガンで、そんな時代をわたしたちは生きてきました。



 今回の新型コロナのパンデミックは、克服されたと思っていた感染症の逆襲でした。感染症はコントロールされているわけではなく、最近でもサル痘とか小児肝炎などが次々に出現しています。新しい時代にさしかかっているのかも知れません。



 話がそれましたが、20世紀初頭を生きた梶井基次郎は、昭和 17年( 1932)に結核で他界しました。31歳でした。時代の条件のなかで、生きた青年の感慨が綴られていました。



< 今日も入江はいつものように謎をかくして静まっていた。/ 見ていると、獣のようにこの城のはなから悲しい唸(うなり)声を出してみたいような気になるのも同じであった。息苦しいほど妙なものに思えた。(後略)/ 「ああかかる日のかかるひととき」(後略)>




 それにしても、昭和生まれの人間としては、小説は紙媒体で、寝転がって読みたいものですが、もうそんな時は来ないのかと思うと、呆然とします。





城のある町にて

城のある町にて

  • 作者: 梶井 基次郎
  • メディア: Kindle版

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「からだ」はどう扱われたか [読書]


 世の中は、ますますヴァーチャル・リアリティが幅を利かせ、AIがいろんな分野に浸透しています。人間の脳が作り出した産物が人間を支配しつつあるようです。身体もデータに置き換えられ、画像化されます。思い通りにはならない自然の身体は見えにくくなっているようです。



 『身体の文学史』(新潮社)は、解剖学者の養老孟司が明治以降の小説において、身体がどう扱われてきたかを考察した本です。わたしなりに要約すれば、江戸時代以来の日本社会は隅々まで制度で管理され、本来、肉体的な兵士である武士も、行政職となり、身体は流派の型や所作として管理された。著者はそれを「脳化社会」と呼んでいます。



 明治になっても、森鷗外や夏目漱石には自然としての身体は意識されることなく、テーマは”こころ”であった。



 < 意識的なものとして、身体の役割が最初に文学に登場するのは、芥川[龍之介]であろう。(中略)/ 芥川に登場する身体は、ある特徴を持っている。それは主人公を引きまわすのである。『鼻』および『好色』は、その好例であろう。(中略)身体という主題に関して、芥川自身の態度を示すのは、『羅生門』である。ここに登場する下人は、死人の髪を抜いてかつらを作る老婆をけ倒して、いずこともなく去る。この下人の気持ちは、芥川の気持ちであろう。この芥川の感情は一般的な日本人の感情であり、脳死臓器移植問題の議論に、そのままの形で、いまだに表現され続けている。>





 昭和になると戦争が始まる。「腹が減っては戦はできぬ」というのが人間の自然ですが、「軍隊はシャバとは違う」として身体は規則に縛られる。戦場の身体として、ここでは大岡昇平の『野火』、『俘虜記』が取り上げられています。



< 比島のジャングルで死にそうな目にあっても、俘虜になっても、大岡昇平は折り目正しい。その規矩は無意識的に世間によって涵養された。(中略)『野火』の主題は人肉食であり、主人公は自分個人の決断で人肉を食べない。その背後にあるのは大岡昇平の規矩なのだが、私にはそんなものはないというしかない。(後略)>



 そして、深沢七郎と三島由紀夫が取り上げられます。深沢七郎は『楢山節考』について、「残酷だと言われたのも意外だが、異色だと言われたのも意外だ。もっと意外なことは、何か、人生観というようなことまで聞かされたのは意外だった。あんなふうな年寄りの気持ちが好きで書いただけなのに、(変だな?)と思った。」と書いているそうです。この小説が中央公論新人賞に選ばれた時の審査員であった三島由紀夫は『楢山節考』について、「ゆうべは怖い小説を読まされて、眠れなかった」と言い、選評でも、耐えがたく怖いと述べる。



 養老孟司は、< そこに歴然と表れるのは、深沢七郎の世界ではなく、むしろ三島が住む世界である。(中略)/ 三島はきわめて論理的な作家のはずだが、その論理は人工の世界を前提に構築されている。要するに「つくりもの」なのである。われわれ自身が抱えており、それで当然であるはずの生老病死が、『楢山節考』という形をとったときに、饒舌なはずの三島が言を喪う。(中略)三島は典型的な脳化社会の人である。(後略)>と分析しています。



 ここまでくると、三島由紀夫が自分の内の自然である身体を、ボディービルで管理しようとし、私設軍隊の規律を課し、結局、身体を滅ぼしてしまうことになった意味が透けて見える気になります。



 三島由紀夫事件からは半世紀以上が経っていますが、この間、脳化社会の様相はますます進展しています。身体という自然を生々と動かし、全人的に生きたいものです。


#「会話を聞く楽しみ」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2023-03-06


身体の文学史

身体の文学史

  • 作者: 養老孟司
  • 出版社: 新潮社
  • メディア: 単行本

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個人的な感想 [読書]

 去年の秋、学生時代に買ったまま未読だった大江健三郎『洪水はわが魂に及び』を取り出して読み始めたのですが、四分の一ほど読んで止めました。物語の世界に入り込めなくて、読むのが苦痛になりました。もしかしたら買った時も、途中まで読んで止めたのかもしれません。もう 50年も前のことです。



 大江健三郎の小説は『奇妙な仕事』、『飼育』、『個人的な体験』などを読み、『万延元年のフットボール』(1967年)の世界に魅惑され、短篇集『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(1969年)では話の作り方が上手だなと感心した憶えがあります。その流れで『洪水は・・・』(1973年)が出版された時に読もうとしたのでしょう。本箱には、その後に出た『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)も未読のまま立っています。大江健三郎とは 1970年代以降、気になりながらも疎遠になったようです。



 1960年代末ごろ、評論家の江藤淳が「大江の小説はもう読まない」と言った記憶があります。当時、わたしは江藤淳の『成熟と喪失 ”母”の崩壊』(1967年)という評論に感服していたこともあり、大江の新作への違和感から、江藤淳に同感する気分だったように思います。その後、その江藤淳も鼻につくようになり、読まなくなりました。



 では、1970年代は何を読んでいたのか・・・思い返せば、開高健とか司馬遼太郎の随筆なんかが思い当たります。そういえば数年前、書店で目にした対談集*で、大江健三郎は開高健について、「話をするとあれだけ面白いのに、物語が作れなかった」というふうなことをしゃべっていました。なるほど、大江と開高との違いとも言えるなと納得した憶えがあります。



 先日、大江健三郎が 88歳で老衰で亡くなったという記事をみて、思い出したことを書いてみました。わたしにとって、大江健三郎は、やはり『万延元年のフットボール』が一番かなと思案します。



*大江健三郎・古井由吉『文学の淵を渡る』(新潮社)






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会話を聞く楽しみ [読書]

 電車に乗って退屈していると、隣の乗客たちの会話が耳に入ってきます。聞くともなく目をつむっていても、つい聞き入ってしまうことがあります。「対談集」を読むのは、そんな場面と似た感じがします。ちょっとした退屈な時間を、会話を聞いて過ごす。面白くてもこちらからは合いの手は入れられない。



 『おとこ友達との会話』(新潮社)白洲正子の対談集です。1990年代に雑誌などに載せたものを 11篇集めています。相手は赤瀬川原平、前登志夫、仲畑貴志、尾辻克彦、青柳惠介、ライアル・ワトソン、高橋延清、河合隼雄、養老孟司、多田富雄です。



 たとえば、吉野に住む歌人の前登志夫の篇では、わたしが日頃親しんでいる『句歌歳時記』の編者・山本健吉が話題になっています。



 繊細で非常に真面目で、むちゃくちゃなさらないから。吉野に来たら、無頼派なんですが。

白洲 あっははは。

 僕が酔っぱらって、ヤマケンさん一緒に飲みに行こうとかいって、夜遅う、僕の家へ来たの、夜中の一時なんですよ。家内、怒ってね、「あんた、毎日、毎日、何うろうろしてるの!」言うたらね、後ろにヤマケン先生が衣紋竹みたいに立っていらっしゃる(笑)。家内が慌てて、「泊まっていってゆっくりしてください」言うたら、いきなり「奥さん、カセットを出してください」って。私、吉野伝授しとこうと思います、言うてね。それで、深沈たる山中の静寂の中で「上野発の夜行列車降りた時から ・・・」言うて歌い出したんです。続いて、僕は肺が片方だから、もうちょっと落とします言うてね。結局、「おんな港町」と二曲歌われた(笑)。その時の雑談も入ったカセットがありますよ。

白洲 変な吉野伝授ね(笑)。演歌がお好きだったでしょう。



 たわいない雑談ですが『句歌歳時記』の編者に親しみがわきます。一日一篇、会話を聞いていると、以前に読んで面白かった本のことが話題になっていました。



白洲 先生の『身体の文学史』を拝見していて、身体と脳は、三島由紀夫の場合なんかはっきり分かれているでしょうーーーお気の毒とも言えるけども。私、ひどく、同情しますよ、あの方には。だけども、普通はもう少しくっついてるんでしょう。

養老 はい

白洲 でもそれがどういう具合にくっついてるんだかがわかんないの。

養老 ですね(笑)。だから、それが切れちゃったのが三島だったんです。それを石原慎太郎に言わせると、空っぽだって言うんですね。空っぽに決まってるんで、言葉じゃない方に移ったわけですから、それを言葉でどうこう言おうとしても、それは無理だというのが、正当の解釈じゃないかと思うんですけどね。けれども三島もやっぱり言葉で言おうとするんですね。

白洲 なんか七つぐらいの時から恋愛小説を書いてたって言うでしょう。これはもう嘘にきまってる。言葉だけでしょ。だから、小林秀雄さんは、肉体のない文章っていうのは認めなかったんですよ。(後略)



 こんな会話が聞こえてきます。『身体の文学史』、面白かったという記憶はあるのですが、もう25年も前なので、具体的な内容は忘れています。再読してみようかと思います。



 若い頃から対談集というのも時々、読みました。三島由紀夫と中村光夫とか、小林秀雄と岡潔とか、開高健、安岡章太郎、井伏鱒二などを思い出しますが、内容はみごとに記憶にありません。対談というのはやっぱり、隣の乗客の会話を聞いているようなものなのでしょう。






おとこ友達との会話 (新潮文庫)

おとこ友達との会話 (新潮文庫)

  • 作者: 白洲正子
  • 出版社: 新潮社
  • メディア: 文庫

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また 家族のかたち [読書]

 昨年末から読み始めたエマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』(文藝春秋)は、やっと下巻の100頁ほどまで読み進みました。翻訳本は忠実に訳そうとすると、もって回った文章になり、まどろっこしくなります。そんななかで所々、フランス人である著者のおもしろい考察に出会います。



 < アメリカなるものは事あるたびに、われわれヨーロッパ人にそれ自体として矛盾した二重の印象をもたらす。最も先進的だという意味で「モダン」を体現しているように見えるアメリカが、それでいて同時に「未開」だとも感じられるのは一体なぜなのか。われわれは前々から訝(いぶか)しく思ってきた。いつも心の中で、「彼ら(米国人)は明らかに先を行っている。そのくせ、およそまったくと言ってよいほど洗練されていない」と呟いている。>



 ヨーロッパ人から見たアメリカ人の不可解さを率直に述べています。そして意外な結論を引き出します。



 <彼らは、ほとんどまったく洗練されていないからこそ、先を行っているのである。ほかでもない原初のホモ・サピエンスが、あちこち動き回り、いろいろ経験し、男女間の緊張関係と補完性を生きて、動物種として成功したのだ。 >



 つまり、アメリカ人は、狩猟採集時代のホモ・サピエンスがそうであったように、「核家族」で、自由主義で、武器で自衛する社会に生きていると言います。



 < 他方、中東、中国、インドの父系制社会は、女性のステータスを低下させ、個人の創造的自由を破壊する洗練された諸文化の発明によって麻痺し、その結果、停止してしまった。>



 ユーラシア大陸の長い歴史を持つ文明発祥地と、英米のような辺縁地との家族システムの違いによる現れを戯画的に解説しています。文明発祥地では「進化」した家族システムを作り上げたのに対し、辺縁地では原初の核家族が残存した。



 また、家族システムがイデオロギーに及ぼす影響の一例としてーーードイツ、日本などの後継ぎを一人に絞る直系家族では、子供たちは不平等であり、結果、人間は不平等が当たり前という意識が形成されると指摘しています。そのような社会では、「兄貴分」と「弟分」の序列の中で生きていくとしています。



 そういえば日本の組織におけるタテ構造や、日韓米の外交関係など思い当たる面があります。また、英語を習い始めた頃、英語には兄弟はあっても、兄や弟という単語がないのを不思議に思ったのを思い出しました。「家族のかたち」の違いの現れなのかも知れません。まだまだ E.トッドの論考は続きます。目の付け所がおもしろい、楽しい読書です。



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春日というところ [読書]

 このあいだテレビのニュースを見ていると、奈良の興福寺のお坊さんたちが、隣の春日大社に詣でて、柏手をうち、読経していました。長年の行事とのことで、まさしく神仏習合です。その時ふと思ったのですが、「春日」と書いてなぜ「かすが」と読むのでしょうか? 



 調べてみると、「はるひ(春日)の」は「かすが」という土地の枕詞なのだそうです。「飛ぶ鳥の」が「あすか」の枕詞なのと同じで、枕詞が地名表記になったということです。



 春日大社は 768年、藤原不比等によって建立され、藤原氏の氏神も祀っています。藤原氏はもとは中臣氏で、その前は卜部(うらべ)氏だったそうで、祭祀にかかわる一族だったとのことですが、中臣鎌足より前は謎に包まれています。また鎌足は『大鏡』では、< その鎌足のおとど生まれたまへるは、常陸国なれば・・・ > と書かれているそうです。*



 それと関係があるのか、春日大社は四座の神を祀っていますが、第1が鹿島から、第2が香取から勧請しており、次に祖先の天児屋根命(あめのこやねのみこと)と比売神(ひめのかみ)という順になっています。**



 三笠山の東方、7Kmほどに大柳生という町があります。柳生の南西7Kmほどのところです。白洲正子によれば、この高原盆地一帯を古く「春日」といい、豪族・春日氏の所領であったそうです。大柳生の人々は、春日大社とのつながりが深く、古来、若宮の「おんまつり」には氏子として奉仕するならわしがあるそうです。**

 


 奈良公園には鹿がたくさん群れていますが、鹿は春日大社の神の使いだそうです。これから春にむかって、若草山の山焼きや二月堂のお水取りなどの行事が続きます。


  石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさわらびの

     萌えいづる春になりにけるかも (万葉集 志貴皇子)



* 朧谷寿『藤原氏千年』(講談社現代新書)

**白洲正子『道』(新潮社)


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家族のかたち [読書]

 年が変わり、昨年末の新聞の書評欄で興味を惹かれた、エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』(文藝春秋)を読み始めました。E.トッドは 1951年生まれのフランスの人口・家族人類学者です。上下2巻で 700頁の本なので、まだ4分の1程しか読めていませんが、翻訳調の文章で、考察の対象が多岐に渡り、理解するのに悪戦苦闘しています。



 まず序論として、家族のかたちの持つ意味に気づいたきっかけを、< 一九七〇年代末に確定していた共産主義体制の分布図が、ロシア、中国、ベトナム、ユーゴスラヴィア、アルバニアなどに存在する特定の農村家族システムの分布図に合致することを確認したのだった。その家族システムは、一人の父親と既婚の複数の息子を結びつけるシステムで、親子関係においては権威主義的、兄弟同士の関係においては平等主義的である。権威と平等性はまさに共産主義イデオロギーの核なので、家族とイデオロギーの合致を説明するのは難しくなかった。> と語っています。



 そして、家族システムは世界各地で多様ですが、今まで社会科学の標準モデルとされていた < 複合的な家族から一組の夫婦への推移ーーーが事実としてばかげていることに気づいた。実は、原初の家族が核家族だったのである。(中略)ホモ・サピエンスの原始状態における人類学的形態だったのである。これに対して、夫婦を父系の親子関係の中に閉じ込める形態、すなわちユーラシア大陸の大部分を占有した共同体家族の形態は、歴史の産物にほかならない。> と考えの道筋を示しています。



 つまり、古い形態が中央から離れた辺縁に残るように、ユーラシアの外れのイギリスなどに核家族という古い形態が残存した。< ホモ・サピエンスの出現以来、家族は単純型から複合型へ推移したのであって、> その逆ではない。



 イギリスやパリ盆地では狩猟採集民に近い核家族が見られるのに対し、文明の発生地である中東では最も複合的な、最も「進化した」内婚制共同体家族が見られ、< 父親と既婚の息子たちを結びつけ、次にその息子たちの子供たちが結婚するするのを推奨するわけだが、このシステムは五〇〇〇年もの推移の帰結なのである。> と書かれています。



 歴史の中で、イギリスでは核家族であったことによって、農民層から根なし草的労働者が得られ、産業革命につながった。ドイツと日本ではかって長子相続であったため、次男、三男が社会に放り出され、社会を活性化させる面があった。



 家族形態の現代的な現れとして、核家族の自由主義によって、イギリスはEUを離脱し、米国はトランプを選んだ。直系家族であったドイツ、日本、韓国では出生率が危機的に低下している。



 序論のまとめとして、< 基本的な歴史のシークエンスは、核家族(父系制レベル0)から出発して直系家族(父系制レベル1)へ移り、次に直系家族から外婚制共同体家族(父系制レベル2)へ移り、そしてついには内婚制共同体家族(父系制レベル3)に至る > と記しています。



 次からは各論になります。気長に少しずつ読み進めようと思います。経済のグローバリゼーションは 50年の歴史ですが、家族の歴史は 5000年の積み重ねがあり、人々の無意識に影響を及ぼしているという気の長い話ですから。


#「また 家族のかたち」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2023-01-31

#「日本人の来た道」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2020-11-07



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初詣はどこへ [読書]

 正月になると、初詣に行こうかという気持ちになります。家の近くには紀三井寺とか、玉津島神社などがありますが、ドライブがてら南紀の熊野本宮大社へ詣でようかとも思います。また気分を変えて、東へ行けば、吉野山・蔵王堂というのもあります。



 そういえば、「蔵王」って何のことなんだろう? 白洲正子の本*を見ると、こんなことが書かれていました。 < 蔵王権現は、役行者が、吉野の金峰山で感得した神とも仏ともつかなぬ独特の存在で、早くいえば不動明王と山の神が合体したような感じをうけるが、その時、外来の仏教は、はじめて日本の地に根をおろしたといえるであろう。役行者は一介(いっかい)の呪術者にすぎず、蔵王権現も正統派の仏ではないが、その功績は大きいと私などは思っている。 >





 これを読むと、蔵王権現というのは、役小角が個人的に感得したものなのだそうです。ちなみに「権現」というのは、「権」は「仮」という意味で、「仮の姿で現れた」ということで、仏や菩薩が日本の神の姿で現れたということなのだそうです。本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)という考え方です。

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(吉野山・蔵王堂)

 役小角(えんのおづぬ)は7世紀、飛鳥時代の伝説的な行者で、修験道を開いた人です。山折哲雄『仏教民俗学』(講談社学術文庫)では、< 修験道というのは、一口にいって古くからの山岳信仰が陰陽道(おんみようどう)や密教や神道と結びつき、その影響下に形成された日本独自の山の宗教である。> と説明していました。




 明治政府の廃仏毀釈まで、日本では神仏習合で、神も仏も大きな違いは無かったのかも知れません。東北地方の蔵王も山岳信仰の山なのでしょう。いずれにしろ人混みが減ってから、どこかへ出かけてみようと思います。


   みちのくの蔵王山なみにゐる雲の

        ひねもす動き春たつらしも (斎藤茂吉)



*白洲正子『行雲抄』(世界文化社)


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今年の「この3冊」 [読書]

 年末になると、新聞の書評欄が楽しみです。この一年に出版された本から、書評担当者が "これは” と思った本を選んで発表しています。毎日新聞では、2週間にわたって 35人の評者が3冊ずつ採り上げ、百語ほどの解説を付けています。選ばれている本は重複がありますので、100冊程になります。



 毎年、この欄を見ながら、来年はどの本を読もうかと参考にします。また、川本三郎、三浦雅士、荒川洋治、養老孟司といったお気に入りの評者が、どんな本を挙げるのかも楽しみです。また、自分が今年読んで面白かった本を、誰かが推薦していないかという興味もあります。



 今年、最も多くの評者に選ばれていた本は、鷲見洋一『編集者ディドロ 仲間と歩く『百科全書』の森』(平凡社)で、4人が採り挙げていました。同書を選んだ評者の一人、文芸評論家の湯川豊は「(前略)『百科全書』とは何か。膨大な資料を駆使してそれを成立させた背景までを書ききっている。(後略)」と述べています。それだけの人に選ばれるからには、文句なしの好著なのでしょうが、約 900頁の大著なので、実物を見ないで取り寄せるのはためらわれます。書店でどんな本か見てみたいものです。



 フランス文学者の鹿島茂と元外交官の佐藤優が、エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか? 上・下』(堀茂樹訳 文藝春秋)を選んでいました。鹿島は「(前略)家族人類学理論の集大成。(中略)人類の歴史が新しい角度から解釈され、未来への展望が披露される。」と書いています。



 また、日本史家の磯田道史は石崎晴己『エマニュエル・トッドの冒険』(藤原書店)という本を採り挙げています。E.トッドが多くの人に関心を持たれていることが分かります。彼は 1976年に、人口統計学的に、10~30年後にソ連邦が崩壊(1991年)すると予想したことで知られており、その後もイギリスの EU離脱やトランプ政権の誕生を言い当てているそうです。



 E.トッドが人類の未来にどんな展望を示しているのか? この本は読んでみたい気がします。2023年がどんな年になるのか、ウクライナ、ロシア、コロナ、北朝鮮、中国、エネルギー、温暖化、円安など不確定な要因が山積しています。



 わたしの蟄居生活も4年目になろうとしています。どんな展望があるのか? トッド先生のご高説を拝聴したいものです。


#「「顔」のでき方」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2022-03-02



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