真夏は過ぎて [雑感]
関西ではお盆が過ぎれば、夏も終わりが近づいた気分になります。子供の頃、お盆の後は、初盆の精霊流しがあったり、クラゲが増えたりするので、もう泳ぎませんでした。泳いでいるのは何も知らない都会の人だけと言われていました。
残った夏休みの宿題をどうするか、子供なりに気が重くなります。過ぎた日の日記を書こうにも、その日の天気が分からない。母親に聞いてみると、毎日書かないからだと叱られる。工作はどういう訳か父親が熱心にやってくれ、とても子供が作ったとは思えない物ができる。
昭和30年代、海辺の小学校にはプールはなく、歩いて 10分ほどの海で泳ぎます。前もって当番の児童が海水温を計りにいき、25度以上あれば泳ぎます。海と砂浜は子供達の毎日の遊び場でしたが、水泳大会になると内陸部の小学校が優勝しました。「あいつらいつもプールで泳いでるからな」と悔しがりました。海辺の子供達はプールで泳いだことが無かったのです。
わたしには2歳年上の兄がいましたが、5歳のとき、海で亡くなりました。兄弟のなかで最もきかん気で、父親は将来を楽しみにしていたそうです。わたしは1枚だけ残っている写真で顔を知っているだけです。年がいってから、腰の曲がった母親は孫たちが海へ泳ぎに行くと、日傘をさし、浜辺で見守っていました。
甲子園の高校野球も大詰めとなり、暑かった今年の夏も過ぎようとしています。日没が少し早くなり、季節の移り変わりが実感され、また1年経ったと夏休みの終わりを感じる子供と同じような気持ちになります。
夕焼けも海の匂も消えしとき (久保田万太郎)
ある朝の浮べる秋の雲なりけり (安住 敦)
敦賀のあたり [雑感]
今年3月から北陸新幹線が敦賀まで延伸されたのですが、関西から北陸へは、今までは特急「サンダーバード」で直行できたのが、これからは敦賀で新幹線に乗り換えなければならなくなりました。不便になりました。お客さま本位というなら、直行便を復活して欲しいものです。
敦賀はほとんど通り過ぎるばかりで、車で出かけた時に一度立ち寄ったことがあるだけです。駅前の店でアマエビを食べたのですが、後で下痢になり困った思い出があります。また北陸からの帰りに高速を敦賀で降りて、若狭の小浜を通り、鯖街道で京都へ出たのは楽しい記憶になっています。
敦賀といえばレッドソックスへ行った吉田正尚選手やバファローズに来た西川龍馬選手の出身校の敦賀気比高校が思い浮かびます。良い指導者がいるのでしょう。敦賀には気比神宮というのがあって、「奥の細道」の帰路、松尾芭蕉も参拝しています。<【旧暦八月】十四日の夕暮、敦賀の津に宿を求む。/その夜、月殊に晴れたり。「明日の夜もかくあるべきにや」と言へば「越路の習ひ、なほ明夜の陰晴はかりがたし」と、あるじに酒すすめられて、気比の明神に夜参す。*>とあります。翌日はやっぱり雨だったそうです。
以前読んだ泉鏡花『高野聖』という小説には敦賀が出てきました。汽車の中で<・・・聞けばこれから越前へ行って、派は違うが永平寺に訪ねるものがある、但し敦賀に一泊とのこと。/若狭に帰省する私もおなじ処(ところ)で泊まらねばならないのであるから、そこで同行の約束が出来た。**>という訳で、二人は敦賀の宿に同宿する。眠るまでの時間を、高野聖に諸国行脚でのおもしろい話をしてくれるよう頼むと、僧が語り始めたのが、飛騨から信州へ越える道で遭遇した奇々怪々な出来事で、読者を別世界へ誘い出して行きます。
敦賀のあたりは魚の美味しい所で、20年ほど前に三国で、ノドグロという焼魚を食べ、こんなにうまい魚があるのかと驚いたことがあります。アカムツとも称ばれるそうですが、白身なのに全身に油が多く、しかもあっさりしています。そのとき連れていた息子は、味が忘れられないのか、数年前に三国へ行ったけれど、あの店が無くなっていたと残念がっていました。北陸から若狭にかけて、また出かけたいなと心が弾みます。
*冨山奏校注『新潮日本古典集成 芭蕉文集』(新潮社)
**泉鏡花『高野聖』(青空文庫)
舌の痛み あれこれ [雑感]
5月5日頃から、舌が荒れ、舌尖と右舌縁にアフタができ、味のついた食物はシミて痛く、食べられず、喋っても痛むようになりました。3日ほど様子をみましたが、改善しないので薬局で口腔用ステロイド軟膏を買い、数回塗布するとアフタは消え、痛みもなくなりました。ヤレヤレです。
ちょうどその少し前、家内が「ポテト・サラダがピリピリする、おかしくないか?」と、わたしに味見してくれと言ったことがありました。その時はわたしは「普通の味だよ」と応えたのですが、数日後、味を付けずに煮たジャガイモを食べようとしたのですが、舌にシミて食べられませんでした。そして、その時には家内のピリピリは治っていました。
家内は何かのアレルギーだと思うとのことでした。家内は以前から、ナスビやトマトがダメなのだそうです。
しかし、今まで何とも無かったわたしがトマトを食べて、舌にアフタができるかな?と、不思議に思います。わたしの舌は右前部分が痛み、左右差がありました。帯状疱疹のように神経分布に関係しているようにも思えましたが、アフタに触れなければ痛まないので、神経の痛みではないようでした。
新型コロナウイルス感染で味覚異常が報道されていますが、わたしも家内も発熱も咽頭痛も咳もありませんでした。家内とわたしの舌の症状が同じ原因によるとすれば、それは食物などの経口物なのか? または、ウイルスなどの感染なのか? それでも、舌炎が伝染することなどあるでしょうか?
また、わたしがジャガイモが痛くて食べられなかったとき、焼き芋(サツマイモ)は全く刺激がなく食べられました。不思議です。ジャガイモは芽や緑の部分には毒素があることが知られていますが、舌のピリピリと関係あるのでしょうか? 今は二人とも治っていますので、どうでもいいように思いますが、、原因には少し興味が残ります。
連休中の思い [雑感]
連休で愛知に住む次男一家が帰省しました。長男一家も予定していましたが、子供達の発熱で急遽取り止めになりました。次男達も時々 FaceTmeで話していますが、会うのは1年ぶりでした。
9歳と4歳の女児は想像以上に成長し、特に4歳の児はめっきり語彙が増え、文章を話すようになり、平がなが読めるようになっていました。こども達は休みなく動き、裏山に登ったり、海辺で砂遊びをし、帰ってくればカード・ゲームに興じています。
好きな物を食べ、飲み、くたびれると突然、電池が切れたように眠り、朝まで起きません。明日は USJへ行くとのことで午後には帰ってゆきました。豆台風が通り過ぎたようでした。
5月1日は八十八夜です。夏も近づく 八十八夜 野にも山にも 若葉が茂る と歌われるように新緑の鮮やかな時節です。ただ今年も既に、夏日や猛暑日が記録されており、季節感は唱歌の作られた明治時代とは異なっています。千葉県に住む今回来られなかった児は5月に運動会があると言っていました。風薫る5月に熱中症の心配とは近年は常識を変える必要があります。子供達が大人になる頃にはどんな気候になっているのか、わたしには予測がつきません。
食事と雑談の楽しみ [雑感]
3年半ぶりに、かって一緒に働いた人たちとの食事会に、南紀へ出かけてきました。天気も絶好のドライブ日和で、道も良くなり、かけていたCDが終わらないうちに宿泊所に着きました。16年住んだ土地なので、なにか帰って来たような気がしました。
家内は、この町は、買い物も郵便局も銀行も食べ物屋も駅も歩いて行ける範囲にあり、魚が美味しく、海も山も近く、住みやすい町だったといつも懐かしがっています。
食事会はわたしたち夫婦を含めて8人というこじんまりした集まりですが、互いの近況を話したり、職場の最近のようすが話題になったり、高齢者は持病や睡眠具合を持論を交えて語ったり、魚料理を食べながらの和やかな時間となりました。高齢者にとっては一期一会という言葉が想い出されます。
その夜は、同い年の元同僚ご夫妻と同じ宿に泊まり、翌日は熊野古道沿いの村に行き、小麦が食べられないわたしに付き合ってもらい、予約しておいたグルテン・フリーの店でハンバーグを昼食にしました。小さな村ですが、次々に客が来るのには驚きました。
元同僚ご夫妻はともに話題が豊富で、道の駅のオープン・カフェのテーブルで、ウグイスの鳴き声を聴きながら、泉のように溢れてくる話しを楽しませてもらいました。最近読んだ高橋敬一さんの本のこと、映画「ゴジラ」のこと、ドングリで森を再生する活動、リビング・ウイルの手続き、ジェフ・ベックのギター、都はるみがアカペラで唄った、カレーの作り方・・・何事も成り行き任せのわたしたち夫婦とはまた違った生き方だと刺激を受けました。
ここ数年、コロナ禍と持病のために、ほとんど人ごみに出ず、家内以外と話す機会の無かったわたしには、なんとも楽しい2日間でした。社会へ戻るリハビリとなったようです。そろそろ外食や旅行にも出かけてみようかとこころが弾んできました。
桜の句歌など [雑感]
今年は桜のもとでの入学式になったようです。近年、桜の開花が早くなって、人々は季節感のずれにとまどっていたようですが、今年はなんとなく安心したような雰囲気が感じられます。
離れては見るべき物と見つつおもふ
桜の花よ雲のごとく咲け (窪田空穂)
咲きいづるや桜さくらと咲きつらなり (荻原井泉水)
桜の花に対する、特別な感情が滲み出ています。季節が過ぎれば目立たない木に戻るのに、雲が湧くように一斉に開花する力に感歎しているようです。
清水(きよみづ)へ祇園(ぎをん)をよぎる桜月夜(さくらづきよ)
こよひ逢ふ人みなうつくしき (与謝野晶子)
桜には「みなうつくしき」と思わせる霊力があるようです。梶井基次郎は、< ・・・桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この一、二日不安だった。しかしいまやっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。> と桜の美しさの秘密を開示しています。
春風の花を散らすと見る夢は
覚めても胸のさわぐなりけり (西行)
西行は「吉野山梢の花を見し日より 心は身にもそはずなりにき」とも詠んでいます。桜に取り憑かれた思いを、ストレートに歌にしてしまうのは、天性の資質なのでしょう。そして「花の下にて春死なん」と願い、その通りになったのには驚かされます。
四方(しはう)より花吹入れて鳰(にほ)の海 (松尾芭蕉)
近江の膳所にての詠。「鳰の海」は琵琶湖の古称で鳰はカイツブリ。琵琶湖の春の風景を大きく詠って愛でています。芭蕉には「行春(ゆくはる)を近江の人とおしみける」という句もあり、近江は愛着のある土地だったのでしょう。
さまざまの事思ひ出す桜かな (芭蕉)
球春となって [雑感]
3月になって外光がすっかり明るくなりました。プロ野球もオープン戦の時期となりました。昨年の10月に始まった持病の治療も、予定の6サイクルが先週に完了しました。昨年のクライマックス・シリーズから日本シリーズは病室のテレビで観戦したので、今年のオープン戦は新しいシーズンの始まりという感がひとしおです。
4年前にも半年ほど同様の治療を受けていますが、今回とは薬の組み合わせが異なっています。薬によって副反応の様相が違いました。前回は投与後4、5日間の食欲不振、シャックリなどでしたが、今回はそのような症状はなく、まず指先がシビレ、腸の動きが低下し、目がかすんだようになります。4、5日経った後に倦怠感が出現しました。音楽でも聴きながら午睡しているほかありません。
7日経つと腸が動き出し、倦怠感もなくなります。白血球数は10日目に1/10程に低下しますが、数日で元にもどり、目のかすみも晴れ、散歩にも出かけられるようになります。もちろん吐き気止めや白血球を増やす薬などの効果のおかげで症状が軽減されてているのだと思います。
前回はなかったのですが、今回は脱毛が著明でした。1サイクル後にシャワーを浴び、洗髪すると、指に多量の頭髪が絡みつき、びっくりしました。見ると排水口は毛髪で詰まっていました。防寒対策に毛糸の帽子が必需品になりました。おかげで130日ほど朝のヒゲ剃りが不要だったのですが、いつから生えてくるのか楽しみにしています。
持病との付き合いはもう9年目になるのですが、これでまた何年かは維持できるでしょう。医学は日進月歩とまでは言えませんが、数年ごとに新しい治療薬が開発されているようです。待つといえば・・・今年の春の甲子園には和歌山県から田辺高校と耐久高校の2校が選ばれています。またプロ野球ではタイガースのアレンパは可能なのか? 山本由伸のいないバファローズはどうなるのか? いろいろ興味深い球春がやって来ました。
記憶のミルフィーユ [雑感]
このあいだから読んでいた『映画の木洩れ日』*の「あとがき」で、著者・川本三郎はこんなことを書いていました。< ミルフィーユというお菓子がある。「千枚の葉」の意で、薄いパイを何層にも重ねた菓子。私の文章は、このミルフィーユに似ている。/ 二〇二二年に七十八歳になった。この年齢になると、映画体験がいくつも層になって作られている。一九五〇年代から六〇年代の、十代の頃に見た映画。二十代に見たアメリカン・ニューシネマの時代の映画。評論家として、批評を書くようになった七、八〇年代の映画。そして現代の映画。/ さまざまな時代の映画が、まさにミルフィーユのように重なり合っている。現代の映画を語っているうちに次第に下の層の十代の頃に見た映画にたどり着く。>
なるほどと思います。わたしのように長いあいだ映画を見ていない人間にも、彼の映画の本がおもしろいのは、近い世代として、1950-60年代という共通の基盤の上で生きて来たからなのでしょう。
こんなことは映画に限ったことではなく、流行歌やファッション、事件、災害の記憶でもそうでしょう。今回の能登半島地震の映像は、熊本城の崩れた石垣の映像に重なり、東北の津波に重なり、阪神・淡路の横倒しになった高速道路の映像に重なり、地震の記憶を重層化させます。そして、社会人になった年に能登半島に旅行し、土産に輪島塗の茶匙を母親に渡した時、母は嬉しそうでしたが、「私の流儀とは違うのよ」と笑っていた記憶も蘇ります。
人が生活している限り記憶は増え続けます。そして記憶を共有する度合いによって、親しみが深まります。「同じ釜のメシを食う」といった言葉で、人はその辺の事情を表現してきたのでしょう。
新しい映画を観れば、昔の映画を思い出すように、何につけても過去と比較できるのは長く生きて来た者の特権です。記憶はミルフィーユのように何層にもなり、味わい深いものになっています。
*川本三郎『映画の木洩れ日』(キネマ旬報社)2023年刊
春を待つ熊野 [雑感]
2月になると節分、立春となり、やっと冬至から春分までの中間点を過ぎたと、何か一山越えた気分になります。紀南では梅林の開花も報じられています。この時節になると、いつも2月6日に行われる新宮市・神倉神社の「お燈まつり 」が気になります。昨夜、4年ぶりに無事、挙行されたようです。
わたしは行事には参加したことはありませんが、二度見学に行ったことがあります。山の上の巨石のある神倉神社から、夜闇のなかを、松明を掲げた白装束の男たちが二千人も駆け下ってくるのは勇壮かつ異様な光景で圧倒されます。熊野という土地の神話的な姿があらわになる一日です。
新宮を舞台にした小説はいろいろあるのでしょうが、辻原登『許されざる者』、中上健次『千年の愉楽』、野口富士男『なぎの葉考』などはそれぞれ新宮の一面を捉えた読み応えのあるお話しです。どういうせいか新宮の人は他の和歌山県人とは違い、いわゆる標準語的なアクセントで話す気がします。陸の孤島といわれる僻地ですが、海路で他郷に開けていたのでしょうか?
以前は、あのあたりへ行くと「鈴焼」という菓子を買って帰るのが常でしたが、最近は小麦粉(グルテン)が食べられなくなって残念です。3月には串本からロケット(人工衛星)が射ち挙げられる予定です。もう少し暖かくなれば久しぶりに熊野へも出かけたいものです。
わたしの昭和30年代 [雑感]
年をとると子どもの頃のことが思い出されます。わたしは昭和30年(1955)に小学校に入っていますので、昭和30年代はちょうど成長期です。わたしは左利きですので、入学後、担任の女性教諭に右手に鉛筆を紐で括り付けられました。木造校舎で、窓の外に橙色のカンナの花が咲いていました。4年生のとき、鉄筋コンクリートの校舎に移転しました。初めて水洗トイレを見、レバーに触れ、急に大量の水が流れ出し、どうしたら止められるのかと焦った記憶があります。
4年生から野球部に入りました。長嶋茂雄が巨人に入団した年です。最初は投手で、藤田元司のまねをしたオーバースローでした。その後は一塁手になりました。映画「瀬戸内少年野球団」のように淡路島では野球が盛んでした。ちなみに原作者の阿久悠は近隣の村の駐在さんの息子さんでした。大相撲では千代の山、栃錦、若乃花の時代で、子どもたちもよく相撲を取っていました。プロレスも大流行りで力道山の空手チョップは無敵でした。
その頃はよく頭痛をおこし、「スピード」という置き薬を飲んで寝ていました。熱が出れば氷枕と氷嚢で頭部を冷やすのが普通でした。氷は魚屋で買いました。6年生で近視になりました。かまどで薪で炊いていたご飯が電気炊飯器に変わり、洗濯機、冷蔵庫、テレビが我が家にもやって来ました。
小学校では講堂や運動場で映画が上映されることがありました。嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」などの時代劇でした。母や兄に連れられて隣町の映画館で観たのは梅若正二の「赤胴鈴之助」、「にあんちゃん」、加藤大介の「大番」、「「お茶漬の味」などでした。わたしが一人で映画館に行ったのは中学1年になってからで、特撮の「モスラ」でした。幕間に美空ひばりの「港町十三番地」が流れていました。
村には一軒、貸本屋があって、よく漫画本を借りていました。「少年サンデー」、「少年マガジン」が発刊されたのは5年生の時だったようですが、近くに本屋がなく、見るようになったのは中学生になってからだった気がします。小遣いは1日10円でした。
道に舗装はなく、算盤のようにガタガタで、バスは常に揺れていました。家にはハエが多く、ハエ取り紙が食卓の上に吊り下げられていました。夏は蚊を避け蚊帳の中で寝ました。冬の暖房は炬燵と火鉢くらいで、そのうちに石油ストーブが普及しました。子どもたちは霜焼けとアカギレに悩まされました。鼻汁を垂らした子、目やに、ハタケなど、いろいろでした。小学校の修学旅行まで、島から出たことのない子が何人かいました。
中学校へ行くのにバスで1時間余の町に下宿しました。週末には洗濯物をカバンに詰めて自宅に帰ります。親元を離れた暮らしの始まりでした。早くから他人の中で過ごし、下宿のおばさんに世話になったので、今だに下宿人のように暮らしているのかも知れません。
中学1年の夏休み、海水浴に行った夜、右耳が痛みだし、中耳炎になりました。その後、扁桃腺を摘出しました。初めての入院でした。
「高校三年生」という唄が流行ったのは、わたしの中学3年の時でした。その頃は勉強しながらラジオを聞いていました。リクエスト番組に人気がありました。最近、家内はまた寝ながらラジオを聞いているようです。そういえば子どもの頃はラジオで落語、浪曲、講談などがよく放送されていました。小学生でも広沢虎造のまねとかで浪曲の一節を唸る子がいたものです。
そして、昭和39年(1964)、名神高速道路ができ、東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されました。わたしは高校1年生になっていました。将来、何になるかを考え始めたころです。それから 60年が経っています。思い返せば、両親や祖父母が健在で、きょうだい、叔父、叔母やいとこたちに囲まれたあの時代は、わたしが育った苗床だったと感じます。そして、次の 10年はわたしの青年時代でした。やれやれ、いろんなことがあったなぁと過ぎ去った時間の回想を一時停止させます。年頭の雑感です。
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