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異能な人たち [スポーツ]

 外に出る  と風が爽やかで、秋だなと実感されます。この二年半ほど、ほとんど人混みには出かけず、週に1〜2度、川の堤とか、お城の周囲を散歩するだけで、あとは本を読んだり音楽を聴いたりするだけの、気ままな生活を送っています。 


 テレビも見たいと思う番組が少なく、夜はネットでプロ野球を見たりしています。バファローズは今年はお疲れ休みかと思っていましたが、終盤になって、にわかに浮上し、優勝を争うまでになっています。前半戦調子の良かったチームも、1年を通してみれば、それなりの成績に落ち着くようです。誰だったか解説者が言っていましたが、5勝4負でシーズンを通せば優勝でき、4勝5負なら最下位になるとのことでした。確かに勝率は5割5分6厘と4割4分4厘となるので、その程度の順位差が生まれそうです。


 今年はスワローズの村上宗隆選手とマリーンズの佐々木朗希投手が一番の話題でしょうが、大谷翔平選手や将棋の藤井聡太五冠、9歳の囲碁プロ棋士・藤田怜央さんといい、どこの世界でも天才的な人が現れるものです。


 昨日からメンデルスゾーンの弦楽四重奏曲を聴いていましたが、いい曲だなと思って解説を読んでみると、なんと 18歳時の作曲でした。そういえば彼の「真夏の夜の夢」序曲は 17歳の作でした。モーツァルトをはじめ音楽の世界でも、若くして才能の開花する人たちがいます。


 大相撲では最高齢優勝の玉鷲が話題ですが、音楽ではブルックナーが晩成です。彼の交響曲が一般に評価されたのは 50歳になってからのようです。ブルックナーは長年、教会のオルガニストとして働いてきたせいか、音の響きが深々として、聴いていると音に浸っているような気持ちになります。これは年の功ともいうべきものかも知れません。早熟とはまた違った晩成もまた天賦の才なのでしょう。


「たかが野球、されど5人」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2019-07-22




(第3楽章)

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マンボウになるまで [読書]

 北杜夫といえば「どくとるマンボウ」シリーズがよく知られていますが、大学生のころ父親の看病をしながら、『楡家の人びと』を読んだ憶えがあります。夜中に「背中をさすれ」などと何回も起こされ、看病は一晩で根をあげましたが、小説はおもしろくて読みふけりました。


 その後、5年ほどして『木精』という回想記のようなものを読み、20年ほど経って父親・斎藤茂吉の評伝・四部作を読みました。また、確か大学生のころ、北杜夫が当地へ講演に来たことがありました。楽しみに聞きに出かけましたが、彼は登壇して何かぼそぼそと喋ったかとおもうと、そのまま引っ込んでしまい、それでおしまいで、唖然とした記憶があります。


 わたしは北杜夫(1927-2011)の愛読者というわけではありませんが、若いころ友人が彼の『幽霊』がいいと言っていたのが頭に残っていたので、先日、読んでみました。「ある幼年と青春の物語」という副題がついていました。著者が 23-4歳の頃の最初の長篇小説で、昭和 29年に自費出版しています。昭和 35年になって中央公論社から刊行されました。


 < 人はなぜ追憶を語るのだろうか。/どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うように見える。ーーーーだが、あのおぼろな昔に人の心にしのびこみ、そっと爪跡を残していった事柄を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻しつづけているものらしい。 >


 ういういしく抒情的な書き出しです。現在の自分を育ててきた心に残る事柄を見つめなおしてみようという思いが語られています。作家としての出発点に立っている雰囲気が感じられます。


 < 広い原っぱを、雑草の生い茂ったなかを歩いていた。どの草も異様に背が高く、手足にふれてこぼれおちる露も酸漿(ほおずき)くらいの大きさに感じられた。靄がかかっていて、空の光は夢像のようにぼんやりしていた。(後略) > 幼児期の原っぱの記憶です。夢を思い出そうとしているような筆致です。


 < そのうちに、僕はふと上を見あげた。僕の背後におおきな樹木があり、その枝がちょうど僕の頭上におおいかぶさっていた。枝葉の隙間から斑らにこぼれおちてくる日光に気をとられた僕は、しばらくのあいだそのまま仰向いていたのだ。それはあたかもなにかの啓示のようであった。なぜなら、次の瞬間、くらい枝葉の繁みのあたりから、キラキラする、ちいさなまばゆい物体が僕の目の前にとびおりてきたからだ。(後略)> 少年期の蝶々との出会いの場面です。少年は昆虫採集にのめりこむようになります。


 少年には手品に凝っている叔父さんがいた。< 「ほうれ、見ろ」と彼は言い、ものものしい身ぶりと共にさっと腰をひねると、もう彼は何色もの色つきハンカチを手にして得意げにうちふってみせるのだった。 > 親とは違う大人の存在が少年の視界を拡げます。誰にとっても後から思えば、そんな大人が成長の触媒になっていたことに気づくかも知れません。


 少年は信州の学校に進み、青年となっていきます。 < その当時ーーー破滅にちかい戦局のさなかにひとり信州にきて間もなく、終戦から食糧難の秋冬にかけて、ずっと僕は<病気>であった。(中略)ようやく青年期にはいろうとする僕をおそったこの不安定な症状は、純粋に精神の病いと呼んでよかったろう。 > 彼は虚ろな心で重い足をひこずって、夜の街を歩きさまよう・・・。


 < とある街角で僕は足をとめた。背すじを、ほとんど痛みにちかい慄えが走りすぎたのである。僕は耳を傾けて、ごく微かながらも一軒の家のなかから流れてくる旋律を聴いた。> それは「牧神の午後への前奏曲」との再会いで、それは心の眩暈のように彼を捉え、夢のような光景へと誘う。


 <・・・一匹の綺麗なタテハチョウが、ひとしきり僕の頭上を飛びまわっていたが、やがて苔むした木株のうえに羽を休めた。静かに息づくように翅を開閉させると、濃紺の地に隠されていた瑠璃いろの紋が燐光のように燃えたった。僕は憶いだした。たしかその蝶はずっと以前、はじめて僕が捕虫網を買ってもらった時分、山の道ばたで見つけた魔法の蝶にちがいなかった。 > 精神の回復の過程がつずられています。


 < 太陽はめくるめく輝きを収め、島々谷の左方の稜線にかかっている。立ちならぶアルプスの尾根尾根の立体感はうすらぎ、平面的に夢幻的に、きびしさを消しさった表情にかわりはじめた。(中略)大地の静寂のなかに、僕は自分のたましいに呼びかける山霊のこえを聴いたように思った。そして、稚い肉体にしばしばおとずれる圧倒的な憧憬におののきながら、憑かれたようにこう心に語りかけた。/『僕はこの世の誰よりも<自然>と関係のふかい人間だ。僕は自然からうまれてきた人間だ。僕はけっして自然を忘れてはならない人間なのだ』> こうしてーーある幼年と青春の物語ーーは終焉へと向かいます。


 著者の成長と脱皮の物語です。50年ほどまえ、友人が『幽霊』がいいと言っていた時、彼自身が脱皮の季節にあったのだろうと思い返します。人は青年のある時、みずからの来し方を眺め、何らかの決着をつけて、大人になっていくのでしょう。


「カロッサは振り返る」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2022-01-21


幽霊 ある幼年と青年の物語

幽霊 ある幼年と青春の物語

  • 作者: 北杜夫
  • 出版社: 中央公論社
  • メディア: 単行本



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ことばの由来 [読書]

言葉の由来や成り立ちを知るのはおもしろいものです。意外であったり、ビックリしたりします。「あかんべ」と下まぶたを指先で下方に押さえ、まぶたの裏の赤い部分を出すしぐさは「あかめ(赤目)」が変化した言葉だそうです。


 堀井令以知『語源をつきとめる』(講談社現代新書)は日本語の言葉の由来が俗説やこじつけ、当て字などに埋もれていることを例示し、日本語にはラテン語とフランス語のような同族の言語が不明なため、語源探索が困難であることを述べています。そして、先人の研究の足跡をたどり、時代による言葉の変化や方言の比較などによって言葉の根源を突きとめる過程を記しています。


 当て字や俗説にまみれた言葉の例として「あんばい」を挙げています。漢字で塩梅とか按配と書かれますので、< 塩と梅酢で味を付けるのでアンバイというなどのこじつけ説が流行(はや)った。また、アンバイは塩梅=エンバイの変化した形だなどという説もある。/しかし、実は、アンバイは漢語ではなくて和語のアワイからの語なのである。「間」という意味に近い語であった。> と解説しています。


 物の名前にも由来があります。「じゃがいも」がジャカトラ(ジャカルタ)芋から、「かぼちゃ」がカンボジアからきていることはよく知られていますが、「ほうれん草」がペルシャの漢語訳「頗陸 ポーロン」「菠薐 ポーレン」に由来しているとは驚かされます。

 

 言葉にはそれを使う人びとの歴史や習俗などが積み重なっています。語源をつきとめることによって日本人の暮らしが見えてきます。


「「だらしない」と「ふしだら」」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2019-12-12


語源をつきとめる (講談社現代新書)

語源をつきとめる (講談社現代新書)

  • 作者: 堀井 令以知
  • 出版社: 講談社
  • メディア: 新書

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淀川のほとりで [読書]

 大阪弁というのは肌にまとわりつくような、ぬるま湯につかっているような語感があります。岩阪恵子『淀川にちかい町から』(講談社)は淀川の左岸、大阪市旭区を舞台にした短篇小説集です。戦後から昭和を生きた人々の暮らしがスケッチ風に描写されています。30年近く前に買った本ですが、読んだのかどうか思い出せず本箱から取り出しました。


 < 猫がやっと通れるくらいにあいた襖の隙間から、鶴子は隣の部屋をのぞいた。/「あれ、鶴子ちゃん、いたん。またおなか痛(いた)か、よう痛(いと)なるねんなあ」/松田の細君が呆れたように言った。/「あんたはお嬢さんやさかい、おなかもお上品にでけてはるねんやろ。うちの子ォら、ちょっとくらいおかしいかな思うもん食べたかて、どうもならへんけどなあ」/口に出して言わなくても、松田の細君は腹のなかで鶴子を「あかんたれ」と思っているのは明らかだった。 > 少女時代の洋服店を営む家庭風景です。鶴子のゆかたが職人・松田の娘に譲られ、子どもたちは祭りに出かけます。


 < 彼は、残っていたビールを一口啜る。/珍しく、ひとりで食卓に向かっていた。四歳下の同じく年老いた細君は、裏のおばあさんの通夜に行っていた。おばあさんに先立たれたおじいさんを、"気の毒になァ"とさかんに同情しながら彼女は、"今月はこれでもう三軒目ですわ、この町内だけで"と続けた。> 老夫婦の会話の一コマです。おじいさんは補聴器をつけたりはずしたりし、吉野川で遊んだ子ども時代や、大阪に出てきてからの洋服店での年季奉公の思い出を回想します。


 著者は小説の冒頭で、< 日々の生活のなかで生じる些細なこと、つまらないこと、変哲もないことどもが、時を経て、ふいにまざまざと脳裏に甦ってくることがある。事件などとはほど遠いそれらの過去の断片が、よくも記憶の井戸の底で生きながらえてきたものよ、と思うほどだ。 > と書いています。


 坦々と大したことも起こらない、日常風景が十篇の小説に描きだされています。まるで単調な日々こそ意味があるとでもいった書きっぷりで、大阪弁の会話が心地よく耳に残ります。


 岩阪恵子は 1946年、奈良県に生まれ、大阪市旭区で育っています。関西学院に学び、詩を書き始めます。24歳で詩人・小説家の清岡卓行と結婚し、東京に転居しています。ここにまとめられた短編小説は 1990-93年に雑誌に発表されたものですから、著者は40歳代だったことになります。淀川のそばで暮らした幼少期への愛惜が文章の背後に窺えます。


 < 芝でおおわれた堤のところどころに設けられた階段を登るにつれ、眼下にひろがるのは淀川とその河川敷だ。鶴子を惹きつけているのは堤防というよりは、堤防の彼方にゆったり展開されるこの光景であった。>  手術した父親を見舞いに久しぶりに帰郷した娘は父の散歩につきあう。< 下流から規則的なエンジンの音をたて、艀が上ってくる。切れ目なく五艘連なってきたと思ったら、間隔をおいてまた三艘やってきた。/「そうか、あんたも四十六歳になったか」/出し抜けに父が呟いた。>


 著者は淀川の流れに時の移ろいを重ねているのかも知れません。この本を買った時は、娘の年齢に近かったのですが、今では父親のほうが近くなっています。本を読む視点が変わります。




淀川にちかい町から

淀川にちかい町から

  • 作者: 岩阪 恵子
  • 出版社: 講談社
  • メディア: 単行本


 


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