秋の風 [読書]
今年の夏は天候が不順です。やっと青空がのぞくようになったと思えば、庭に萩が咲き、もう秋の気配です。
陽暦8月28日、『奥の細道』の旅で松尾芭蕉は富山県高岡に着いています。「翁、気色不勝。暑極テ甚。」と同行の曾良は旅日記に書いています。芭蕉は熱中症気味だったのかも知れません。しかし翌日には金沢へ出発し、金沢には9月6日まで滞在しています。その間に、芭蕉は回復したようですが、曾良は宿で寝込んでしまいます。*
あかあかと日はつれなくも秋の風 (芭蕉)
残暑の陽光をあびて歩いている感じが出ています。
丸谷才一は『古今集』の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(藤原敏行)」を取りあげ <歌人たちはこのせいで、夏から秋への変化を風に見出だし、それもできるだけ微妙なところ、意外なところに違ひを求める腕くらべをはじめたのである。> と記しています(『新々百人一首』新潮社)。
後の世の俳句の世界でもそんな腕くらべが楽しめます。
秋風や眼を張って啼(な)く油蝉 (渡辺水巴)
蜻蛉(とんぼう)の四枚の薄羽(うすば)秋の風 (阿部みどり女)
でで虫が桑で吹かるる秋の風 (細見綾子)
ことばの工芸のようなものです。しかし、だからどうした、瑣末なことではないか? という問いが、感心しながらも頭をよぎります。
9月7日、金沢を出た芭蕉たちは、4ヶ月にわたる長旅に疲れたのでしょう、山中温泉に8泊しています。
石山の石より白し秋の風 (芭蕉)
芭蕉には「秋の風」をどう詠むか、瑣末さを突き抜けようとする意志が感じられます。5年前の『野ざらし紀行』では巻頭に、
野ざらしを心に風のしむ身かな
を置き、<富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の哀れげに泣く有り。(中略)袂(たもと)より喰物投げて通るに、>
猿を聞く人捨子に秋の風いかに**
と詠み、、<ただこれ天にして、汝が性(さが)の拙(つたな)きを泣け。> と記しています。芭蕉にとって「秋の風」は単なる風ではなかったように思われます。
*金森敦子『芭蕉はどんな旅をしたのか 「奥の細道」の経済・関所・景観』(晶文社)
**(富山奏校注 『新潮日本古典集成 芭蕉文集』頭注)<哀猿(あいえん)の声にすら断腸の思いを懐(いだ)く詩人らよ。あなたがたは、秋風の中に命絶えんとして泣いているこの捨子の声を、何と聞くか>古来、漢詩に、猿の声は断腸の思いをさせるものとする。当時は貧困や飢餓などによる捨子が珍しくなかった。
チェロの音色 [音楽]
宮沢賢治の童話『セロ弾きのゴーシュ』の影響だったのか、大学生の頃、チェロの曲のレコードを何枚か買った記憶があります。ハイドンやドヴォルザークのチェロ協奏曲とかベートーヴェンのチェロ・ソナタでした。大人になってからも、オーフラ・ハーノイとかミッシャ・マイスキーといったチェリストによる小品集の CDを聴きました。フォーレ「夢のあとに」とかエルガー「愛のあいさつ」、カザルス「鳥の歌」などが入っていました。
チェロは音域が低いので、ヴァイオリンが頭に響くとすれば、チェロは胸で聴くように感じられます。バッハには無伴奏チェロ組曲というチェロ独奏の曲集がありますが、胸にだけ響くので、聴く時を選びます。日常的にはピアノとチェロで演奏するチェロ・ソナタとか、ピアノとヴァイオリンとチェロのピアノ三重奏曲などが音色に変化があり、演奏者どうしのかけ合いが楽しめ、聴きやすいです。
ブラームスのチェロ・ソナタはしみじみとした味わいがあり、いいものです。ピアノ三重奏曲ではチャイコフスキーに「偉大な芸術家の思い出に」という曲があります。ピアノ、ヴァイオリン、チェロの名手たちの熱っぽい、火花の散るような演奏が聴かれます。音楽を聴く楽しみのひとつです。独奏チェロとオーケストラによるチェロ協奏曲にはドヴォルザークの奇跡のような一曲がありますが、シューマンやエルガーの曲にも心が惹かれます。
『セロ弾きのゴーシュ』では野ねずみの母親がチェロを練習しているゴーシュに言います。
「はい、ここらのものは病気になるとみんな先生のおうちの床下にはいって療(なお)すのでございます。」
「すると療るのか。」
「はい。からだ中とても血のまわりがよくなって大変いい気持ちですぐ療る方もあればうちへ帰ってから療る方もあります。」
宮沢賢治はチェロの音に音楽療法の可能性を感じていたのかも知れませんね。バッハの「無伴奏チェロ組曲」などを聴いていると、30分もすると、知らぬ間に眠っています。
海人の足跡 [読書]
瀬戸内海の島で育った子供の頃、村の祭りといえば地域ごとに「だんじり」を引き出して八幡神社に集まりました。他の地域はみんな「ふとんだんじり」で、屋根の上に赤い布団のようなものを数段乗せた形でしたが、わたし達の地域のは「船だんじり」で船の形をしていました。神輿を担いで海に入り、祭りの終盤には御旅所という村はずれの場所に集まり、選ばれた子供が「船だんじり」の舞台で三番叟を舞いました。今ではもう廃れてしまったようです。
「だんじり」と言うのは関西以西だそうで、関東では「だし・山車」とよび、京都の祇園祭では「やまぼこ・山鉾」で、地域によって形も異なっています。
中沢新一『アースダイバー 神社編』(講談社)を読んでいると、長野県安曇野の穂高神社では夏の大祭礼で、<各地区で大きな船の飾り物をつくり、氏子がそれを引っ張って町の中を練り歩き、最後に穂高神社の本社にいっせいに集合してくる> と記していました。なぜ、あんな山深いところで「船」なのかと思います。
そもそも安曇野の人たちは、北九州にやって来た海人的倭人、アヅミ族の末裔なのだそうです。「海(アマ)に住む」ひとびとです。紀元前数世紀以前から、半農半漁の技術を携え、沿岸伝いに日本列島に拡がったそうです。アヅミ族の足跡は、安曇、安積、渥美、場合によっては泉、出水、伊豆見といった地名から窺い知れるとのことです。
博多湾にある志賀島(しかのしま)はアヅミ族の聖地です。そこにある志賀海神社の宮司は古来、安曇家によって世襲されているそうです。
村の祭礼の中にも人々の辿ってきた歴史が潜んでいると考えれば、何百年と続いてきた祭りがわたし達の世代で途絶えてしまうのは残念なことです。
魚の泪 [読書]
松尾芭蕉が『奥の細道』の旅に出立したのは、元禄2年(1689)3月のことですが、<千住といふところにて舟をあがれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。>
行く春や鳥啼き魚の目は泪
と旅は始まってゆくのですが、以前から「魚の目は泪」というのは何か変だなと、こころに引っ掛かっていました。魚は泪を流すのか? たとえとしても少し突飛ではないか・・・。
先日来、丸谷才一『新々百人一首』(新潮社)という本を取り出して眺めていると、
雪のうちに春はきにけりうぐひすの
氷れる泪いまやとくらむ (二条后)
という古今集の歌をとりあげ、類歌を挙げて詳述していました。<鶯の泪が氷りかつ溶けるといふ詩的虚構がある。この優美な嘘、典雅な法螺話(ほらばなし)こそは一首の眼目であつた。> と書かれており、また、和歌の世界では泪を流すのはウグイスのみではないようで、
かへる雁の夜半の泪や置きつらん
桜つゆけき春のあけぼの (後鳥羽院)
昔おもふ草の庵のよるの雨に
泪なそへそ山ほととぎす (藤原俊成)
そして獣も・・・
秋萩にみだるるつゆはなく鹿の
声よりおつる泪なりけり (紀貫之)
さらには虫までも・・・
秋の野の草むらごとにおく露は
よるなく虫のなみだなるべし (曾禰好忠)
秋ちかきけしきの森になく蟬の
泪のつゆや下葉そむらん (藤原良経)
という風に、いろんなものが泪を流しているそうです。そこで『奥の細道』です。行く春を惜しみ、また前途三千里、見送る人との別れの時、鳥は啼き、そして魚が泪を流す。芭蕉は王朝和歌の伝統を踏まえ、かつ「魚の泪」とすることで俳諧的にひねっている、という主旨のことを丸谷才一は書いています。なるほどと膝を打つ思いです。
この句で他に、少し気になるのは、芭蕉の支援者で、深川の芭蕉庵の持ち主でもあった杉風という人が魚問屋の主人であることです。「魚の目は泪」には杉風への挨拶という側面もあるのかなと感じられます。
詩歌はことばの遊びでもあり、こころの表現でもあり、他人への挨拶でもあり、重層的な構造を持っています。すぐれた評釈は詩歌の豊かな世界を照らし出してくれます。
陽暦でいえば5月16日に江戸を出立した芭蕉は、今頃、8月上旬は秋田県にいます。<快晴。早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル。飯終テ立。アイ風吹テ山海快。暮ニ及テ、酒田ニ着。> と同行した曾良は旅日記に記しています(8月3日)。この日の旅程は46Kmでした。よく熱中症にならないものです。*
*金森敦子『芭蕉はどんな旅をしたのか「奥の細道」の経済・関所・景観』(晶文社)