掘ったイモ? [音楽]
ふるい話ですが、15歳の江利チエミは1952年に「テネシー・ワルツ」を唄ってデビューしましたが、レコードのB面は「Come on-a my house 家へおいでよ」だったそうです。この歌は前年、アメリカでローズマリー・クルーニーが唄って大ヒットした曲です。
この歌の作者をみて驚きました。ウイリアム・サローヤンとあります。調べてみると、やはり『わが名はアラム』を書いた小説家でした。サローヤンは劇作家でもあったのですが、これは彼のミュージカルの中の歌だったのです。彼は俳優で作曲家の従兄弟と作詞・作曲をしたのです。ともにアルメニア移民の子供でした。
子供のころ、江利チエミが、♪ Come on-a my house ♪ と唄っていたのを憶えていますが、今になって、曲名にある「-a」って何んだろう? と不思議に思いました。「a」と「my」と二重なのも変だし、ハイフンも意味不明です。
歌の解説をみると、「come on to my house」の省略形とのことです。「want to」が「wanna」となり「going to」が「gonna」となるのと同じで、発音によるつづりなのだそうです。
英語では単語の頭にある破裂音(p t r b d g)は発音するが、最後のは発音しないか、しても弱くし、単語の中ほどの破裂音も発音しないことがあり、次の単語の母音と結びつくようです。「good night」は「グッナイ」に「cut」は「カッ」、「and I」は「エナイ」となります。そういえば英語の歌を聴いていると、そんなふうに聞こえます。それが喋りやすいのでしょう。
日本語でも「ほんとう」が「ほんと」になり「よろしく」が「よろしゅう」に変化するのと同じようなことなのでしょう。学校で習った英語では、英語の歌は何と唄っているのか聞き取れません。
幕末のジョン万次郎は耳で英語を覚えたので「water」は「ワラ」、「What time is it now?」は「掘った芋いじるな」と発音するよう教えたという嘘か真か分からない話もホントらしく思えます。
唄をめぐる話 [音楽]
秋が過ぎて行こうとしています。秋の唄を見ていると「'Tis Autumn」というのが有りました。「'tis」って何だろうと辞書をひくと「it isの短縮形」とあります。〔tiz〕と発音するそうです。そういえば英語の曲名には「`」が付いたのがいくつかあります。
「'S Wonderful」とか「'Round Midnight」とか・・・「`s」は「it's」の短縮形で「'round」は「around」の省略形のようです。
中学生のころ「`」をアポストロフィ(apostrophe)と習った覚えがあるのですが、難しい名前です。辞書や英文法書をみても、言葉の意味の解説はありません。
「`Round Midnight」はピアニストのセロニアス・モンク等が1944年に器楽演奏のために作曲し「`Round About Midnight」という曲名だったのですが、後に歌詞が付いた時に、about が取れたそうです。
和田誠さんの訳*では< それは真夜中ごろ始まる。日暮れまで私は大丈夫。夕食時に悲しく、最悪なのは真夜中。想い出は真夜中ごろにやってくる。(後略)>といった唄です。
演奏ではマイルス・デイヴィスのものが有名ですが、1954年に T.モンクとM.デイヴィスが共演したとき、この曲ではないですが、マイルスがモンクに、自分のソロのバックにはピアノを弾くな、と言ったそうで、モンクは頭にきて殴り合い寸前になったそうです。* `Round Miles といった逸話です。
1986年、『Round Midnight』という映画が作られた時には、「`」が無くなっています。サックス奏者のデクスター・ゴードンがアカデミー主演男優賞にノミネートされ、ハービー・ハンコックが作曲賞を受賞したそうです。
*和田誠『いつか聴いた歌』(文藝春秋)
#「お変わりないですか?」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2023-07-26
昨日はどんな日 [音楽]
「Yesterday」はビートルズですが、スタンダードには「Yesterdays」という唄が有ります。辞書をみると、「昨日」の複数形なので「過ぎ去った日々/過去」という意味になります。1933年のミュージカル『ロバータ』で歌われたもので、作詞オットー・ハーバック、作曲ジェローム・カーンです。
和田誠さんの本*では歌詞は、<過ぎ去りし日々。幸せで甘く秘密だった日々。古き日々。金色の日々。狂おしい恋の日々。若さも真実も私のものだった。幸せで自由で燃えるような生活も、たしかに私のものだった。悲しいにつけ嬉しいにつけ、今日私は昨日を夢に見ている。>と要約しています。
ビートルズの「Yesterday」では突然起こった困り事を前に、何も無かった昨日が良かったと唄っています。” 彼女は何も言わないで行ってしまった。僕が何かいけないことを言ったせいだろうか "・・・ポール・マッカートニーは14歳で母親を亡くした時、そんなふうに思ったのしょう。1965年のアルバム『HELP!』に入っています。
どちらもよく知られた唄で、どうしても互いに連想されるので歌手のアニタ・オデイには2曲をメドレーで歌ったレコードがあるそうです*。そういえば、その後 1973年には「Yesterday Once More」という唄も流行りました。人によって、昨日にはいろいろな想いがからまっています。
*和田誠『いつか聴いた歌』(文藝春秋)
#「唄をめぐるエッセイ」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2023-07-10
歌謡曲の歴史 [音楽]
中公新書に『昭和歌謡史』というのが出たので読んでみました。著者は刑部芳則という近代史家です。日本でレコードが作られるようになった昭和初期から中森明菜までの流行歌/歌謡曲の歴史を、レコード会社の資料や証言を集めて分析しています。
ちなみに「流行歌」という言葉はレコード会社が作った用語で、一方「歌謡曲」は日本放送協会がラジオで使った言葉で、流行り廃りのない歌という意識だったそうです。
わたしは昭和20年代の生まれなので、戦前に活躍した藤山一郎、東海林太郎や淡谷のり子の歌声も記憶に残っていますが、昭和52年生まれの著者が戦前の唄について、よくこれだけ調べたものだと感心しました。唄の本といえば、たいてい関係者の思い出話なのですが、この本の前半は学者が資料を漁って歴史として記述した趣きです。
大正時代の「カチューシャの唄」の作曲家・中山晋平から古賀政男、古関裕而、服部良一、船村徹などへと続く流行歌/歌謡曲の流れと、それぞれの作曲家の特徴について書き、歌手としては音楽教育を受けていた藤山一郎、芸者の小唄勝太郎、東海林太郎などをエピソードをまじえて紹介しています。
そして昭和12年に日中戦争が始まり、戦時歌謡、軍歌、国民歌謡などが作られた状況を詳述し、一方で、映画『愛染かつら』の主題歌「旅の夜風」(作詞 西條八十 作曲 万城目正)が大ヒットし、289,291枚のレコードが売れた世相を記述しています。昭和18年8月〜19年8月では、最も売れた唄は「若鷲の歌(予科練の歌)」(作詞 西條八十 作曲 古関裕而)で233,000枚だったそうです。
戦後になると、世相を踏まえた「星の流れに(こんな女に誰がした)」や、戦災孤児を扱った「東京キッド」、「ガード下の靴みがき」といった唄も流行りましたが、真珠湾攻撃の記憶もまだ生々しい時に、「憧れのハワイ航路」と歌う感覚とか、戦時中に「別れ船」を唄った田端義夫が復員船を思わせる「かえり船」を唄いヒットさせると、次々「・・船」シリーズを出す商魂など、レコード業界の逞しさも捉えられています。
昭和25年に朝鮮戦争が起こり、日本は軍需景気で経済復興へと歩み出し、地方から大都会への労働力の集中が始まりました。昭和30年代には「リンゴ村から」、「チャンチキおけさ」、「南国土佐を後にして」、「僕は泣いちっち」といった地方から大都会へ行った人たちに関わる唄が多数作られ、ヒットしました。その時代を代表する歌手・三橋美智也はレコード総売上げ一億枚を突破し、これは美空ひばりも成しえなかった記録だそうです。
昭和33年にウエスタンカーニバルが開催され、昭和34年に渡辺プロダクションの企画で『ザ・ヒットパレード』がテレビ放送され、同年から始まったレコード大賞では永六輔作詞、中村八大作曲の水原弘「黒い花びら」が受賞しました。昭和36年にはザ・ピーナッツなどが出演したテレビ・バラエティ『夢であいましょう』や『シャボン玉ホリデー』が始まりました。戦後から高度経済成長の時代へと変わってゆきます。
以後、歌謡曲は多様化し、和製ポップス、青春歌謡、ムード歌謡、フォーク、グループサウンズ、演歌、ニューミュージックなどと分かれてゆきます。子供から老人までが同じ唄を口ずさむような光景は少なくなりました。昭和45年に作詞家・西條八十が他界し、その頃には阿久悠や作曲家・筒美京平などが頭角を現し、百歌繚乱とでもいうような時期を迎えます。
しかし 1989年、昭和の終焉とともに、レコードは CDに変化し、小室哲哉などの J-POP と呼ばれるジャンルが隆盛を極めるようになり、歌謡曲は衰退しはじめました。
日本で最初のレコード歌手となった佐藤千夜子の「波浮の港」から、1980年代までは、ジャンルは分かれても、日本人に好まれる音の並び方の傾向が続いていたようですが、その後は不明瞭になっているようです。
昭和という時代に興亡した歌謡曲の歴史がまとめられていて、読みながらほとんどの唄が耳底に響く気がしました。子供のころ、訳もわからず、♫死んだはずだよお富さん♫、とか口走っていた時から、成長と伴にあった流行歌/歌謡曲が、世相の移り変わりの記憶と共に蘇ります。
音楽のトラウマ [音楽]
昼下がり、午睡の BGMにチャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」をかけてみました。チョン・キョンファのヴァイオリン、シャルル・デュトワ指揮、モントリオール交響楽団による1981年の演奏です。これは何年か前、チャイコフスキーに「ピアノ協奏曲第二番」というのがあり、聴いてみようと買った2枚組 CDに入っていたものです。
普通、チャイコフスキーのピアノ協奏曲といえば、テレビコマーシャルにも使われる「第一番」が知られていますが、小説家の宮城谷昌光さんは『クラシック千夜一曲』(集英社新書)で、中学生の時の、こんなエピソードを書いていました。
< あるとき音楽の授業で先生が/「これからピアノ協奏曲を二つかけます」/と、おっしゃって、レコードを聴かせてくれました。演奏がおわってから、/「どちらの曲がよかったですか。(後略)>
1曲目が良いとクラスの全員が挙手し、2曲目は宮城谷さん一人だけだったというのです。< だれもいいと感じなかった曲にひとり手をあげました。なんともいえない妙な空気がながれたのをいまでもはっきりとおぼえています。>
あとでの先生の説明では、1曲目はグリーグの「ピアノ協奏曲」、2曲目はチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第二番」だったのです。< 先生は、グリーグのピアノ協奏曲がいちおう名曲ということになっっているとおっしゃいました。> 生徒を傷つけまいとする気持ちが感じられたそうです。
しかし、自分は名曲が分からないのではないかとトラウマになったそうです。大学生になった頃、グリーグを聴いて、いい曲だ、なぜ中学生の時には分からなかったのかと、毎日のように聴いたそうです。しかしいつか、やっぱりこの曲はつまらないと思うようになったとのことです。
一方、チャイコフスキーの「第二番」は聴く気になれなかったそうですが、最近になって聴いてみると、<第一番と第二番ではあきらかに第二番のほうが品格が高い >と思ったそうです。
わたしはチャイコフスキーの「第二番」は聴いたことがなく、また高校生の時、ラジオから流れてきたグリーグの「ピアノ協奏曲」に魅せられた思い出があったので、チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第二番」というのに興味が湧き、先ほどの CDを取り寄せたのでした。
何回か聴いたのですが、「第二番」がそんなにいい曲だとは思えず、いつの間にか忘れていました。今回、たまたま同じ CDに入っている「ヴァイオリン協奏曲」を聴いて、演奏のすばらしさに眠気も無くなってしまいました。
そして翌日、何年かぶりに「第二番」を聴いてみたのですが・・・中学生のわたしも、この曲の方には、やはり手を挙げなかっただろうな・・と思いました。
そして、中学生の時の、「名曲が分からないのではないか」というトラウマが、宮城谷さんをクラッシック音楽の世界へ引きずり込んだのではないかと感じました。わたしもまた、いつか「第二番」がいいと思う時が来るのでしょうか?
#「宮城谷昌光の小説でない本」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2015-07-02
(チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第二番)
柳かげで [音楽]
柳は街路樹や川辺の木として人の暮らしになじみ深い樹木です。平安時代末期に西行は奥州へ旅したおりに詠っています・・・
道のべの清水流るゝ柳かげ
しばしとてこそ立ちどまりつれ
室町時代になって、その柳の精が登場する『遊行柳』という能が作られ、舞台は今の栃木県の那須・芦野ということになります。
西行から500年たって、松尾芭蕉は奥の細道の旅で蘆(芦)野に立ち寄り、詠んだ句が・・・
田一枚植ゑて立ち去る柳かな
芭蕉は西行が「しばし」休んだのが、早乙女が田を一枚植える程の間だったかと俳句的にユーモラスに推測しています。
芭蕉の72歳年下の与謝蕪村も若い頃、やはり奥州を巡って詠んだ句が・・・
柳散清水涸石処々
柳散り清水涸れ石ところどこ*・・・と読むようです。中国・宋の蘇東坡(蘇軾)の「後赤壁賦」にある ”水落石出” を掛けて、感慨を表現しているようです。蕪村が訪れたのは神無月で、柳は葉を落とし寂れていたのでしょう。
柳一本で600年近い歳月が繋がっているのに驚きます。歌枕という地霊の持つ引力なのでしょう。
ヤナギといえば枝垂れ柳が思い浮かびますが、種類が多くネコヤナギのように枝が上向きなのは「楊」と書くそうです。辞書をみると、枝垂れ柳は英語では weeping willow と言うようです。すすり泣く柳といえばやはり幽霊の出る場所に相応しい雰囲気です。
アメリカのスタンダードに「 Willow weep for me 柳よ泣いておくれ」という唄があります。ビリー・ホリデイやエラ・フィツジェラルドが唄い、ウイントン・ケリーやトミー・フラナガンなど多くの人が演奏しています。1932年にアン・ロンネルという女性が作詞・作曲してジョージ・ガーシュウインに捧げたそうです。歌いにくそうな曲で、なぜ多くの歌手や演奏者が取り上げるのか不思議です。
柳よ、私のために泣いておくれ。
海にそそぐ川のそばまで枝を曲げて、
私の打ちあけ話を聞いておくれ。
恋の夢は去った。**(後略)
柳の精に語りかけているような失恋の唄です。そういえば西行の出家は叶わぬ恋が原因だったという説もあります。「柳かげ しばしとてこそ」とたたずんだ西行は、遥かな来し方に想いを馳せたのでしょうか。
*清水孝之 校注『新潮日本古典集成 璵謝蕪村集』(新潮社)
**和田誠『いつか聴いた歌』(文藝春秋)
ビートルズをさまざまに [音楽]
ここ数日、ビートルズの曲を他の人が唄ったり、演奏しているのを聴いています。いろんな人がさまざまの曲を取り上げています。ジョーン・バエズが「Eleanor Rigby」、ナナ・ムスクーリが「Yesterday」、ティナ・ターナー「Help!」、ダイアナ・クラール「And I Love Her」、サリナ・ジョーンズ「Let It Be」ブラザーズ・フォア「We Can Work It Out」・・・などと 手持ちのCDを眺めていると次々と見つかります。
ビートルズの曲がラジオから流れるようになった頃、わたしは高校生でした。イギリスのアイドル・グループといった感じでした。当時、洋楽ではピーター・ポール&マリーとかブラザーズ・フォアなどのフォーク・ソングが流行っていました。しかし、修学旅行のバスの中で友達が「Help!」をアカペラで唄ったのが印象的でした。その後「Eleanor Rigby」が心に残りました。
大学生になった頃には、ビートルズは唄だけでなく、青年の生活様式にまで影響を及ぼす存在になっていました。当時、学生にはアルバム( LPレコード)は高額で、『Oldies』というベスト盤ふうのレコードを聴いていました。そして次に『Let It Be』という LPを買った頃に解散しました。
10代の頃からの聴き慣れた唄を、ジャンルの異なる歌手たちの声で聴くと、また違った印象になります。以前はその変化が気になって、「違うよなぁ」と違和感から、ビートルズのカバー曲にはなじめませんでした。いつの頃からか年齢のせいか、いろんな唄い方が楽しめるようになりました。「Yesterday」などは他にサラ・ヴォーン、ヘレン・メリル、ブレンダ・リー、レイ・コニフ・シンガーズなど多くの歌手の CDに入っています。
器楽演奏ではピアノのマッコイ・タイナーが「She's Leaving Home」、チック・コリアが「Eleanor Rigby」、アルト・サックスでバド・シャンクが「Michelle」、またギターのジョン・ウイリアムズが「Fool On The Hill」、ベルリン・フィルの12人のチェリスト達による「Can't Buy Me Love」というのもあります。
演奏を聴いていると、脳裏にビートルズの唄声が聞こえる気がし、複合的な音楽になってきます。CDからそれぞれの曲を PCに取り込み、組み合わせて1枚のカバー曲集を作りました。ドライブのお伴に、しばらく聴いてみようかと思っています。
ふと 聴きいる [音楽]
音楽のなかで弦楽四重奏曲は地味な曲が多いので、BGMにいいと思って、ベートーヴェンの 全16曲を順番にかけていたのですが、ある日、第14番作品131を聴き始めて驚きました。深々とした静謐な音をヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが絡みながら連綿と紡いでゆきます。エッ、ベートーヴェンにこんな静かで豊かな曲想の音楽があったのかと不思議な気がしました。
この曲は今までにも何回かは聴いているはずです。CD棚には演奏団体の異なる4種類のCDがありました。だのに、初めて聴いた印象なのです。40分たらずの曲ですが、7楽章もあり、しかも休みなく続けて演奏されるという変わった構成になっています。これまで、よほど興味が湧かなかったのか初めて知りました。ベートーヴェン最晩年の作曲です。
この曲は一般にどんなふうに理解されているのだろうと、手持ちの本を繰ってみました。宇野功芳・中野雄・福島章恭『クラシックCDの名盤 大作曲家篇』(文春新書)では中野雄はこの曲について、<・・・「ベートーヴェンの全作品から一曲」と言われたら、私はこの音楽を選ぶ。> と書いていてビックリしました。この本は隅々まで読んでいるはずなのに・・・この文章は記憶に残っていません。
次に、吉田秀和『私の好きな曲』(ちくま文庫)を見ると、なんと! 巻頭が「ベートーヴェン『弦楽四重奏曲嬰ハ短調』作品一三一」についてなのでした。著者は <・・・一曲だけを選び出すのは極度にむずかしい。しかし、やっぱり(中略)嬰ハ短調の四重奏曲・・・> と記していました。この本も多分読んだはずですが、憶えていません。かって何回か聴いても、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲のどこがいいのか? という記憶だったので、何とも思わず素通りしたのかもしれません。
CDを買った時に何回か期待して聴いたおりには、何とも思わず、何十年も経って、昼寝のBGMとして耳に入った時に、いい曲だなと目が醒めるとは、音楽との出会いも不思議なものです。
唄、声の強さの魅力 [音楽]
今年も先日、「のど自慢 グランド・チャンピオン大会」をテレビで視聴しましたが、さすがに選ばれた 13人なので、皆さんよい声をされていました。昨年は唄われた 13曲を、わたしは1曲も知らなかったことに愕然としたのですが、今回は3、4曲は聞き覚えのある唄がありました。
唄は何と言っても声の強さが魅力です。何故か小声で唄っているようでも、しっかりと届く声というのがあります。わたしが声の魅力を意識したのは、大学生のころマリアン・アンダーソンという歌手の「黒人霊歌」のレコードを聴いた時だったと思います。多分、叔父の家で聴かせてもらった気がします。当時、大学祭などで音楽サークルが「Deep River」などをよく唄っていたので、そんな話題のなかで、叔父が「こんなのどう」と聴かせてくれたように思います。マリアン・アンダーソンは戦前からの黒人のコンサート歌手でした。
その後に聴いたモーツァルトの『魔笛』のなかの「夜の女王のアリア」には、人間が、こんな声が出せるのかと驚嘆しまいた。30年ほど前には三大テノールが話題になりましたが、なかでもパヴァロッティの声は別格でした。
それから声で思い出すのは、20年以上前、テレビの歌番組で、若い知らない歌手が美空ひばりの「哀愁出船」を唄っているのを聴いて、声の強さに驚きました。島津亜矢でした。その後、彼女は声色のためか、わたしの思った方向へは脱皮しなかったようです。
声は生ものですので、スポーツ選手と同じように、全盛期に出会える人は限られています。後は記録媒体で想像するだけです。今後どんな歌手と出会えるか楽しみです。
午睡のためのピアノ曲 [音楽]
昨日は暖かだったので、午後は紀ノ川沿いを散歩しましたが、寒い日は室内で運動し、昼寝となります。このあいだからBGMにバッハをピアノで演奏したCDをかけています。何か音楽が流れているほうが眠りやすいようです。曲目はパルティータ、ゴルトベルク変奏曲などいろいろです。
18世紀のJ.S.バッハの時代にはピアノは無かったので、チェンバロなどのために作曲された曲ですが、ピアニストたちがピアノの表現力を駆使した演奏はそれぞれ聴きごたえがあります。ただ、BGMですので、曲名も確かめず、ピアノの音が耳を通り過ぎ、目が覚めるとCDが終わっているという繰り返しです。
CDは買った時に何回かは聴いていますが、日毎に違うピアニストで毎日聴いていると、それぞれのピアニストの音色などの差異が思った以上に際立って感じられます。アルゲリッチが弾くとバッハがモーツァルトのように聞こえ、ワイセンベルクではベートーヴェンのように響きます。ポゴレリチは異様に均一な音で、つい耳をそばだてますが、かといって心地よいというのとも違い、眠れませんでした。
そういえば、ポゴレリチが有名になったきっかけは、1980年のショパン・コンクールで、彼は本選に残れなかったのですが、これにアルゲリッチが「彼は天才です」と抗議して審査員を辞退したという事件でした。
表情豊かなリヒテルの「平均律クラヴィーア曲集」、アラウの最後の録音となった「パルティータ集」は時々聴くので耳に馴染んでいます。普段取り出さないCDを、こんな機会にまとめて聴いてみると、いろんな感想が頭に浮かびます。
楽章によっては、”わたしはこんなに速く弾けるのだぞ”とでもいうように、猛烈なスピードになります。もう少しゆっくりでもいいのにと思いますが、あの速度は、メトロノームの無かった時代にアレグロなどの言葉以外に具体的な速度指定があったのでしょうか? 素人には、よくそんなに速く正確に指が動かせるものだと感心するばかりですが、演奏家には、古来、そんな軽業師的な一面があるのかも知れません。映画「アマデウス」にはモーツァルトが曲芸のようにピアノを弾く場面がありました。
いろんなことを思いながら横になっていると、いつのまにか眠っているようです。CD一枚70分ほどの午後のひとときです。
ポゴレリチ イギリス組曲第2番&第3番
アルゲリッチ パルティータ第2番