窓の花火 [雑感]
窓ガラスが振動で断続的にふるえています。今日は隣町の花火大会です。入江の向こうの夜空に花火がみえます。
花火をみに出かけたのは、こどもの頃から数えて四、五回位かと思います。一昨年に義母と並んで海の花火を眺めました。義母にも想い出となったことでしょう。 中学一年のとき、大浜海岸で初めてみたナイアガラという仕掛け花火が印象深く眼に焼きついています。
丸谷才一に『花火屋の大将』(文藝春秋)というエッセイ集がありますが、「タマヤー ! 」ならぬ「マルヤー ! 」ということだそうです。
テレビと伴に [雑感]
テレビで観た番組の最初は「日真名氏飛び出す」とか「名犬リンチンチン」だったか・・・と思います。小学校低学年か。「月光仮面」、「風小僧」、「豹の眼」と楽しみに見ていました。
中学生になると「夢であいましょう」や「シャボン玉ホリデー」が始まりました。 ザ・ピーナッツや永六輔が活躍しだすころです。テレビの黄金時代です。
大学受験のころには「11PM」で大橋巨泉の大きな顔が画面を占領していました。
いやがおうでもテレビと一緒に成長してきたことに間違いはありません。
バカバカしいことをやり続けるエネルギーの場として、テレビはまだ生きているか?
カレーの木 [雑感]
こどもの頃、山国に住む従姉が遊びに来て、ミカンが木に成っているのを初めて見たと感激したようすで言っていたのを憶えています。
十代のころ、ドイツの小説を読んでいると、よくリンゴの木が出てきましたが、わたしが実際に、リンゴが実っている樹を眺めたのは大人になってからです。やはり少し感激しました。
果物がどんな風に実っているのかは実物を見ないと、案外、わかりにくいものです。
学生のとき、奄美大島で泊めてもらった民家の庭にパパイヤが成っていて、食べさせてもらった記憶があります。
はずかしい話しですが、大人になるまで、カレーの木があるもんだと思っていました。実をすりつぶすとカレー粉になる ?
クリムトに「生命の樹」という絵があります。なんか唐草模様のような感じです。実物を観たことがあるのか、画集かポスターで見ただけなのか、判然としません。どんな果実がみのるのでしょう。
時間をつぶす [読書]
世の中はいろいろと騒がしいですが、日々の暮らしの中で、どんなふうに生きてゆけばよいのか、高齢者とよばれるようになった今でも五里霧中です。とりあえず、手元にある本をよんだり、音楽を聴いたりして時間をつぶしています。長年の、経過を観る、待つ、という姿勢が身に付いてしまったようです。 何を待っているのか ?
本箱にあったヘルマン・ヘッセ『ガラス玉遊戯』を読みはじめました。二段組みの本は目につらいですが、少しまとまった時間つぶしをしようと思います。
どちらが方言 [雑感]
七月になりました。以前、ワープロを使っていたころ、「七」を入力するのに苦労したことがあります。わたしの言い方では「ひち」、「はち」、「く」なのに、いくら「ひち」と入れても「七」に変換されません。「やおやおひち」も出てきません。やむをえず「なな」と打って変換しました。
八百屋お七を辞典でみると、不思議なことに「やおやおしち」となっています。「しち」は舌を噛みそうで、とても発音できません。家内に五、六、七を言わせると、ちゃんと「ひち」といいます。辞典を見せると家内も首をかしげます。
息子が二階から降りてきたので、五、六、七を言わせると、さも当然といったふうに「しち」と発音します。「いつからそんなふうになったんや ? 」と問うと、びっくりしたように「最初からそや」といいます。「ひち」というのは私たち夫婦の家郷の方言だったのかと愕然としました。それでも七輪はやっぱり「ひちりん」だし「ひちひち四十九」と憶えたと、なんとなく納得できない気分でした。
先日、井上章一というひとの新書を家内が読んでいるのを、覗いてみると、彼もやはり「七」は「ひち」だと主張していました。ちなみに著者は嵯峨の出身だそうです。ほかにも「ひち」という地方があったのかと安心しました。ひょっとすると「しち」というのは、関東地方の方言なのかもしれません。