遊女の歌 [読書]
月の綺麗な季節になってきました。平安時代末期に編纂された『千載和歌集』に月を詠んだ、こんな歌が収められているそうです。
数ならぬ身にも心のあり顔に
独りも月を眺めつるかな (遊女 戸々)
さて、この遊女の名前はなんと読むのでしょう? 「トト」、「ココ」、「ベベ」・・・学者によって意見が異なっているそうです。*
「ベベ」と聞くと頭に浮かぶのは、フランスの映画女優、ブリジット・バルドー(BB)です。「ベベ」は彼女の愛称です。CCはイタリアのクラウディア・カルディナーレ、MMは勿論、マリリン・モンローでした。
平安時代末期の遊女(あそびめ)がどんな人たちであったかは分かりませんが、同時期に後白河院が今様歌謡を纏めた『梁塵秘抄』にも
遊びをせんとや生れけむ
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば
我が身さえこそ動がるれ
という遊女の嘆きの歌が入っています。
また、西行法師が天王寺に詣でようとしたおり、にわかに雨となり、淀川河口の江口(遊里)で一夜の宿を借りようとしましたが断られ、それをなじる歌を詠むと・・・
家を出づる人とし聞けば仮の宿に
心止むなと思ふばかりぞ
と返した「江口の君」が知られています。西行も苦笑したことでしょう。
鎌倉時代の『平家物語』には平清盛に寵愛された祇王、仏御前という白拍子が出て来ます。また源義経の静御前も白拍子でした。遊女と白拍子がどう違うのかは分かりませんが、静が捕らえられ鎌倉の頼朝の前で・・・
しづやしづしづのをだまきくり返し
昔を今になすよしもがな
と謡いながら舞ったとされています。また
吉野山峰の白雪ふみわけて
入りにし人の跡ぞ恋しき
と詠んだことになっています。遊女たちは日常的に和歌に親しんでいたようです。『千載集』にそんな歌が収められたのも不思議ではないのでしょう。
ただ、丸谷才一は『千載和歌集』は今様歌謡好きの後白河院の院宣によって纏められたので、撰者の藤原俊成は後白河院に気を使って遊女や傀儡の和歌を入れたのかも知れないと記していました。*
*丸谷才一『新々百人一首』(新潮社)
失われた世代 [読書]
ヘミングウェイの小説『日はまた昇る』の巻頭には
「あなたたちはみんな、自堕落な世代((ロスト・ジェネレーション)なのよね」
ーーーガートルード・スタインの言葉
という一文が記されています(高見浩訳 新潮文庫)。lost generation って自堕落な世代ということなのかと驚きました。一般には「失われた世代」と言われているように思っていたのですが、つまり、第一次世界大戦後の 1920年代に活躍しだしたヘミングウェイやフィッツジェラルドなどの作家たちを表す言葉として。
しかし、以前から「失われた世代」って何が失われたんだろうと意味がよく分かりませんでした。
調べてみると、ヘミングウェイは lost generation という言葉の由来について、パリでの生活を回想した『移動祝祭日』(高見浩訳 新潮文庫)の中で、こんな風に書いていました。
<ミス・スタインがあの ”ロスト・ジェネレーション” に関する発言をしたのは、(中略)彼女が当時使っていた古い T型フォードのイグニッションが故障したことだった。その修理に出した自動車整備工場の若い整備工は第一次大戦の最後の年に従軍した経歴の主なのだが、ミス・スタインのフォードの修理にあたって何か手際が悪かったのか、もしくは他の車より先まわしにしなかったのだろう。ともかく彼は真剣じゃなかったというので、ミス・スタインの抗議を受けた整備工場の主人からきつく叱られた。「おまえたちはみんな、だめなやつら(ジエネラシオン・ペルデユ)だな」と主人は言ったという。/「あなたたちがそれなのよね。みんなそうなんだわ、あなたたちは」ミス・スタインは言った。「こんどの戦争に従軍したあなたたち若者はね。あなたたちはみんな自堕落な世代(ロスト・ジエネレーシヨン)なのよ」>
訳者によればフランス語の perdueは perdre(失う)の過去分詞なのですが、perdreには「堕落させる」という意味もあるそうです。ミス・スタインは perdueを英語の対応する言葉 lostに翻訳して英語で言ったのです。訳者はそれで「自堕落な世代」と意訳したようです。
自動車整備工場主が口走ったフランス語、それを英語に訳したミス・スタイン、それを翻訳した日本語、伝言ゲームのようにして「失われた世代」は誕生したようです。
ちなみに『新英和中辞典第5版』(研究社)では、lost generation 失われた世代《第一次大戦時代の社会混乱に幻滅し、人生の方向を失った世代》と、もっともらしく説明されていました。
日本ではバブル崩壊後の就職氷河期世代をロスト・ジェネレーションと呼ぶようですが、これもやはり「人生の方向を失った世代」という意味なんでしょう。
翻訳というのは難しく、奥の深い問題を抱えているようです。
小説と映画の微妙な関係 [読書]
「読んでから見るか 見てから読むか」というコピーがありましたが、5月の毎日新聞の書評欄に、菅野昭正『小説と映画の世紀』(未来社)という本が取り上げられていました。評者の川本三郎が<本書は、二十世紀という時代をとらえた壮大な文化誌にもなっている。>と書いていましたので、取り寄せて読んでみました。
20世紀に書かれた小説を原作とする映画 12本について、フランス文学者の著者は原作を時代背景を含めて読み込み、それがどんな風に脚色され映画になっているか、詳細に分析しています。小説にあって映画にない部分、映画にあって原作にない場面など、よく調べているなと感心させられます。原作となった小説は以下の 12作です。
トーマス・マン『ヴェネチアに死す』
F.カフカ『審判』
B.パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』
E.M.フォースター『インドへの道』
P.D.ラ・ロッシェル『ゆらめく炎』
E.ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る』
M.デュラス『愛人』
A.カミュ『異邦人』
G.グリーン『第三の男』
A.バージェス『時計じかけのオレンジ』
M.クンデラ『存在の耐えられない軽さ』
U.エーコ『薔薇の名前』
なんとも魅力的なラインナップです。若い頃に読んだ小説、観た映画、読んだことも観たこともないものもありますが、話題になったものばかりです。
フランス文学者である著者は邦訳の『ドクトル・ジバゴ』以外は原作をフランス語、英語またはフランス語訳で読んだというのは驚きです。文章は誠実ですが、やや高踏的で、少し持って回った言い方が多く、授業を拝聴している気分になります。読み終えて、勉強になったなァという思いです。
<ルキーノ・ヴィスコンティ監督の演出による『異邦人』が公開されたのは、一九六七年のたしか秋も深い頃だった。当時、私はパリで暮らしていたが、これは見逃してはならないと思って、さっそくモンパルナッス駅近くの映画館へ出かけた日のことは、半世紀以上も経ったいまでもよく覚えている。>
本邦での公開は 1968年で、わたしはその頃、地方都市の大学生で、カミュの『異邦人』がマストロヤンニ主演で、映画でどんな風に表現されるのだろうかと、興味を持って街中の映画館に入りました。
<映画の表現性の特質を生かした変奏をいくつか加えながら、ヴィスコンティの演出が小説への忠実さを基本にしていたのは疑う余地がない。しかしながら、それはテクストの表層への忠実さの域に留まっていて、もっと深いところまで届いているかどうか、疑問としなければならない。(後略>
わたしは映画を観終わって、「これはちがう・・・」という感想が湧いてきたのを思い出します。何か残念な、物足りない気持ちになりました。本書の著者の記述を読みながら、「そうだよなァ」と相槌をうちます。
映画にしろ本にしろ音楽にしろ、他人の感想を聞かせてもらうのは、大きな楽しみです。また、戦争や革命に彩られた20世紀という時代を 12作の原作小説と映画化で振り返るというのは、趣向を凝らした試みです。
高低差で見る [雑感]
京都市は琵琶湖疏水で琵琶湖から水をもらっていますが、山を越え、なぜそんなことが出来るのか不思議でした。ふと思いついて調べてみると、琵琶湖面の標高が 84mなのに対し、京都市(府庁)は 47.6mでした。
これだけ高低差があれば、トンネルを掘れば、水は流れて来るのでした。水力発電もできるし、船を通すには上げ下げする装置(インクライン)も必要になります。納得しました。普通に地図を見ていても分かりませんが、案外と滋賀県は標高が高いのです。明治の人もよく気づいたものです。
琵琶湖には約450本の川が流れ込んでいるそうですが、出てゆくのは瀬田川だけです。京都府南部で宇治川と名を変え、また淀川となり大阪湾に注ぎます。水の都・大阪(府庁)は標高 15.5mと低くなります。
ちなみに京都府南部は「やましろ・山背」と称ばれます。平城宮から見て奈良山の後ろになるからだそうです。平安京への遷都により「山城」と表記が変わりました。その時代の中心がどこかによって変化します。これも高低差の一種でしょう。
奈良県庁は標高 93.1mです。京都が周囲と比べて比較的低地なのが分かります。いろんな高低差を意識して周囲を眺めると、また違ったものが見えてくるかも知れません。
#「歴史の謎を地理で解く」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2020-07-03
芭蕉の手紙 [読書]
9月になり日暮れが早くなりました。ランドセル姿のこどもたちが家の前の道を通っています。夏休みも終わりです。
季節が変わりだしていますが、ここ1年近く何処にも出かけていません。8月にあった兄の法事も緊急事態宣言下で欠席しました。どこまで続くぬかるみぞ・・という気分です。
生活は午前中に少し体操をし、本を読みます。午後には朗読と音楽を聴き、ときに散歩をします。単純な暮らしです。
手元にあった松尾芭蕉の文集*を見ていると、芭蕉が曾良に宛てた手紙が出ていました。奥の細道の旅で同行した5年後の、元禄7年のものです。芭蕉は5月11日に江戸を立ち、東海道を西上しました。曾良は箱根山麓まで見送ったようです。
<・・・箱根山のぼり、雨しきりになり候て、一里ほど過ぎ候へば、少し小降りになり候あひだ、畑[宿場]まで参り、小揚[人夫]に荷を持たせ候て、宿(しゅく)まで歩行いたし候て、下り、三島まで駕籠かり、三島に泊まり候。十五日の晩がた、島田いまだ暮れ果てず候あひだ、すぐに川[大井川]を越え申すべくやと存じ候へども、松平淡路殿[阿波藩主]金谷[対岸の宿場]に御泊り、宿も不自由にあるべくと、孫兵衞[川庄屋・俳人]かた訪れ候へば、是非ともにと留め候。(後略)>
(2019年7月 島田宿跡の大井川)
江戸時代の東海道のようすが偲ばれます。曾良も小田原過ぎまで見送りに来るとは、現在とは感覚が異なっています。しかし、これが二人の別れとなります。
芭蕉は9月になって大坂で悪寒、発熱、次いで下痢が続き 10月12日に他界します。29歳で郷里・伊賀上野から江戸に出て、51歳の帰郷でした。かけめぐった一生だったのでしょう。
旅人とわが名呼ばれん初しぐれ
*『新潮日本古典集成 芭蕉文集 富山奏 校注』(新潮社)