母親のセリフ [読書]
こどもの頃、母親が小学校の懇親会かなにかに出かけて帰ってきて、校長先生が「すまじきものは宮仕え」と言っていたと話していたのを憶えています。はなしの前後は忘れていますので、どんな事情だったのかは不明ですが、そのセリフだけはずっと頭に残っていました。
最近の文科省や財務省での出来事を見ていると、宮仕えの大変さが想像され、母親の語調まで思いだしました。
高島俊男『漢字雑談』(講談社現代新書)を読んでいると、昔の中国について、こんな記述がありました。
<中央集権制だから、県には中央政府の出先機関である役所がある。県を統治しているのは朝廷から派遣された官で、これは通常一つの県に二人か三人、多くて数人である。・・・
県の役所では常時数百人、あるいはそれ以上の人が仕事をしている。これは「吏」である。吏は、朝廷もしくは官が任用した者ではない。
吏は皆土地の者で、生涯同じ部署で同じ仕事をする。通常親子代々世襲である。・・・
吏には給料はない。官が任用して役所にいるわけではないのだから当然である。仕事で収入を得ている。・・・
・・・たとえば百叩きの刑に処せられたとして、金をうんとはずめば形だけの叩きですむ・・・吏はその仕事で生計を立てているのだからあたりまえである。>
古い中国の制度ですが、周辺諸国にも影響はあったことでしょう。官と吏と民の関わりには歴史的な根深い要因が潜んでいるものと思われます。 わたしの母親はどんなつもりで子供に「すまじきものは・・・」と言ったのか、知るすべもありません。
熊野の桜 [雑感]
そろそろサクラの便りが聞かれるようです。今年は寒かったので、開花は遅いのかと思っていましたが、例年より早いそうです。
先日、新聞に新種の野生のサクラが見つかったと載っていました。オオシマザクラ以来、約百年ぶりだそうで、熊野川の流域で以前から、早咲きの桜として知られていたそうです。日本には十種類ほどのサクラがあるとのことです。
桜といえば吉野ですが、二十代のころから何回となく出かけましたが、一度も桜の季節には行ってません。人混みや渋滞を考えると、春は避けます。いま使っている飯茶碗は、何年かまえ、吉野山の売店で買った桜模様のものです。
谷崎潤一郎に『吉野葛』という小説があり、吉野のすこし奥のあたりが舞台になっています。菜摘の里とか入の波といったあたりです。 わたしの父親は、父が早逝し、母が再婚していったため祖父母に育ててもらったそうで、こひしくば・・・の『吉野葛』が身にしみるのか、いいよと言っていた記憶があります。
吉野から南へ、大峰を通って熊野へ、山また山が続きます。 新種の桜はクマノザクラと命名されたそうです。
記憶の水路 [読書]
今日は東大寺二月堂のお水取りです。関西ではお水取りが過ぎると、春が実感されます。やっと明日からは暖かくなることでしょう。
十五年ほど前、ちょうどお水取りの日に、東大寺の近くで集まりがあったのですが、会場の外に出てみると、夕暮れで、雪が吹きつけ、二月堂まで上がって行く元気はありませんでした。
たしか、白洲正子『かくれ里』には若狭の遠敷川から、東大寺の「若狭の井」への水送りの儀式というのが書かれていた記憶があります。お水取りの井戸は若狭につながっているそうです。
水取りやこもりの僧の沓の音 (芭蕉)
(氷の僧とするのが真蹟のようですが・・・)
最近、わたしの本を読むスピードが遅くなっているので、家内が朗読してあげるから、聴いてなさいといって、池内紀『記憶の海辺』(青土社)を読み出しました。そんなことが可能なのかといぶかっていましたが、355ページを五日ほどで読んでしまいました。眼のよいひとにはかないません。
眼をつむって聴いていたので、なにか読書という感じがうすく、内容も頭へ定着しにくいようです。それでも池内紀の生い立ちから、カフカ全集を訳しおわるまでの経緯が物語のように楽しめました。
#「白洲正子『かくれ里』のこと」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2014-09-16
南からの雨 [雑感]
今日は朝から春の雨風です。南からの風が冬を追っぱらっているようです。 西脇順三郎の詩が思いだされます。
雨
南風は柔い女神をもたらした。
青銅をぬらした、噴水をぬらした、
ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、
この静かな柔い女神の行列が
私の舌をぬらした。
学生時代に英語を習った先生は、西脇順三郎の講演を聴いたことがあると言っていました。そのころ読んでいた「現代詩手帖」に、晩年の長い長い詩がときおり載っていました。西脇順三郎は絵を描いていて、画集が出たとき買って、いまも本箱の隅に立っています。
上越新幹線に乗ったとき、西脇の出生地の近くだと、あたりを見回したことがあります。小千谷へは行ったことはありません。 彼は教職にあるとき、江藤淳を嫌って、彼が出席すると西脇は教室に出なかったと四方田犬彦が書いていました。わたしは、そんなことは知らず、『江藤淳著作集』と『西脇順三郎 詩と詩論』を本箱に並べていました。