春の夕暮れ [読書]
菜の花の夕ぐれながくなりにけり (長谷川素逝)
菜の花といえば黄色一面の風景を思い描きますが、金田一春彦*によれば、 < 秋田県・岩手県の境あたりに行くと、「菜の花がまっさおに咲いてうづぐすいなっス」など、土地の人が言うのを耳にする。> そうです。
< 昔、アオということばは今よりももっと広い意味に使われて青のほかに緑・黄なども含まれ、はっきりしない中途半端な色という意味を持っていたその名残り > なのだそうです。もちろん古い文章なので、今の人はそんな言い方はしないのでしょうが。
菜の花や月は東に日は西に (与謝蕪村)
なのはなや摩耶(まや)を下れば日のくるゝ (与謝蕪村)
季節的には、4月中旬ごろ、神戸の摩耶山から眺めれば、東の生駒山系の上に満月が昇り、瀬戸内海に夕日が沈むのが見はらせるかも知れません。江戸中期、摩耶山麓の灘付近は山からの水流を利用し、水車で菜種油を作る産地だったそうです**。
「月は東に日は西に」という句趣は、蕪村の愛読書であった陶淵明などに先例があり、漢詩を俳句に換骨奪胎した趣があるそうです**。
暮春となり、今日は下弦の月のようですが、あいにく雨模様で、月と落陽の位置関係は調べられそうにありません。
* 金田一春彦『ことばの歳時記』(新潮文庫)
** 藤田真一『蕪村』(岩波新書)
顔の記憶 [雑感]
どういうわけか数日前、頭の中でかすかに旋律の一部が繰り返し聞こえ始めました。これは何か聞いたことのある唄だなと思いましたが、思い出せません。一時間ほどして、ふと、”春風にのって” だったかなと思いついて、YouTube で検索してみましたが、該当するものはありませんでした。
また一時間ほどして、ふと ”そよ風にのって” かな? と YouTube を見てみると、有りました。マージョリー・ノエル「そよ風にのって」でした。Wiki.で調べると、1965年に流行ったフレンチ・ポップスでした。確かに私が高校生だったころ、ラジオからよく流れていました。
それにしても、57年も前の曲がなぜ耳の奥で鳴り出したのかは不思議です。何か記憶を呼び覚ます誘引があったのでしょうか? 思い当たりません。
記憶というのは不思議なものです。数年前、列車に乗っていると、後方から中年の女の人が近づいてきて、「 Aさんですね」とわたしの名前を呼んで、親しげに話しかけてきました。怪訝な気持ちで相手の顔を見ていると、「〇〇で一緒に仕事をしたアヅミです」と言います。確かに、わたしも〇〇で働きましたが、安住さんという名前に記憶がありません。しげしげと風貌を眺めましたが、思い当たる人がありません。「どうも思い出せません・・・、15年も経つと、女性は姿かたちが変わるんでしょうね、申し訳ありません」と謝りました。女の人は納得できないようすで、後方に戻っていきました。
自宅に帰ってから、当時の職員名簿を繰ってみました。安住さんは見当たりません、が、アッ!、渥美さんというのが有りました。渥美さんならなんとなく記憶に残っています。あの人は渥美さんだったに違いありません。失礼なことをしてしまったと、落ち込みました。わたしが「アツミ」を「アヅミ」と聞き違え、「安住さん」と勝手に思い込んで迷路に入り込んだようです。
その時、その女性の名を「渥美さん」と聞き取っていれば、名前から記憶が蘇っただろうにと悔やまれました。一般に、顔は分かっているのに名前が思い出せないことは多いですが、逆に、顔認証はできなくても名前で思い出すというのもあると体験しました。記憶というのは、やはり不思議なものです。
読み比べも楽し [読書]
本箱をひっくり返していると、以前に買ったウィリアム・サロイヤン『わが名はアラム』(清水俊二訳 晶文社)が出てきました。いつ買ったのか見てみると、1983年8月でした。大学生の頃に読んだと思っていましたが、どうもこれではなかったようです。
先日来読んでいる『僕の名はアラム』(2016年 柴田元幸訳 新潮文庫)と読み比べてみました。例えば「サーカス」という短篇の冒頭を並べてみます。
< サーカスが町にやって来るたび、僕と僕の長年の友だちジョーイ・レンナはもう豚みたいに駆け回った。塀や空っぽの店のウィンドウに看板を見ただけで二人ともまるっきり見境なくなって、勉強も放り出した。(柴田元幸訳) >
< サーカスが私たちの町へ始終やってきたころ、私と私の仲間のジョーイ・レナの二人はサーカスがやってきたということだけでもう夢中になってしまった。板塀や空家にはられたビラを見ただけで、私たちは学校へ行くことを忘れて、不良児童の仲間にはいった。(清水俊二訳 >
原文を見ていないので、二人の訳語の違いがどこから来ているのかは不明です。柴田訳はきっちり過不足なく訳している感じで、清水訳は簡潔で分かり易いようです。
清水俊二(1906-88)は映画字幕の草分けで、約2000本の映画に字幕を付けたそうです。字幕は観客に一瞬で理解されなければなりません。そんなテクニックが彼の訳文には仕組まれているのかも知れません。彼はレイモンド・チャンドラー『長いお別れ』などの翻訳でも知られています。
「スーパー字幕と漢字制限」*というエッセイで、清水俊二は、< スーパー字幕はたいてい一行が十字から十一字ということになっている。一行をぜんぶつかった字幕、あるいは二行にわたっている字幕になると、文字を一字ずつ読まないと意味がわからないが、七、八字ぐらいまでの字幕なら、文字を読まないでも、字幕を見ただけでどんなことがかいてあるかがわかる。 > など字幕の苦労や技術を書いています。彼の翻訳にはどうしたら分かり易くなるかという職業的な習性が染みついているのでしょう。
柴田元幸と清水俊二の翻訳には 75年の時間が経っています。読み比べていると「牧師」が「司祭」になっていたり、「校長」が「おやじ」に変わっていたり、時代の変化など種々の違いが発見されます。翻訳の達人たちの工夫を読み解くのも読書の楽しみといえるかも知れません。
*清水俊二『映画字幕は翻訳ではない』(戸田奈津子・上野たま子[編]早川書房)
夢の時間 [読書]
少年時代には、両親が生きていて、兄弟が居て、おじいさん、おばあさんも健在で、おじさん、おばさんが近所に住んでいて、いとこ達とは毎日のように遊んでいた、今から思えば夢のような時代でした。
おじさんの中にはどことなく世間離れした人もいて、親達とは少し軋轢がある雰囲気を子供ながら感じるのですが、そんなおじさんが子供にとっては楽しいのです。星座に詳しかったり、写真に凝っていたり、知らない世界を開いてくれます。
祖父と祖母は、それぞれ別の部屋で暮らしていて、それぞれに小遣いをくれたりします。仲がいいのか悪いのか子供には分かりません。
兄弟はもちろんケンカをします。母親は説教をします。兄は嫌々ながらかも知れませんが、自転車の後ろに乗せて、映画館に連れていってくれたこともあります。
年の近い従兄弟とは兄弟よりも頻繁に遊びます。従兄弟にはやや遠慮があるので、兄弟で遊ぶより円満にことが運びます。
こんなことを思い出したのは、ウィリアム・サローヤン『僕の名はアラム』(柴田元幸訳 新潮文庫)を読んでいるせいです。大学生のころ清水俊二訳『わが名はアラム』(晶文社)を読んだ記憶があるのですが、数年前に柴田元幸による新訳が出たので買っておいたのです。
カリフォルニア州フレズノに暮らすアルメニア人移民一族の愉快で楽園的な日常世界を、アラム少年の目で綴った連作短篇集です。
< 僕が九歳で世界が想像しうるあらゆるたぐいの壮麗さに満ちていて、人生がいまだ楽しい神秘な夢だった古きよき時代のある日、僕以外のみんなから頭がおかしいと思われていたいとこのムーラッドが午前四時にわが家にやって来て、僕の部屋の窓をこんこん叩いて僕を起こした。 > と物語は始まります。「情けないおじさん」や「癇癪持ちのおじいさん」、「史上ほぼ最低の農場主であるおじさん」などが次々に登場します。心地よい「お話し」の世界が広がります。
W.サローヤン(1908-1981)はアルメニア人移民の子供としてカリフォルニア州で生まれます。1911年、父親が死に、彼は兄弟と共に孤児院で育ちます。小説のような牧歌的な子供時代を過ごした訳ではないようです。12歳のとき、モーパッサンの短篇「乞食」を読んで衝撃を受け、作家になろうと決めたそうです。
< アラム、とムーラッドは言った。/僕はベッドから飛び出して窓の外を見た。/僕は自分の目が信じられなかった。/まだ朝ではなかったけれど、夏だし夜明けもすぐそこまで来ていたから、夢ではないとわかるだけの明るさはあった。/僕のいとこのムーラッドが、美しい白い馬の上に座っていたのだ。 >
読む手を休め、現実を見れば、わたしの祖父母、両親、おじさん、おばさんの多くは既になく、いとこや兄弟も何人かはこの世から退場しています。子供時代の世界は既に壊れています。いつまでも続くように感じていた”あの時代”は、いっときの夢の世界だったんだと追憶します。そして今や、わたしが一家の「訳の分からないおじいさん」の位置にいます。やんぬるかなです。
#「いとこというおかしみ」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2018-10-09