寝る前の本 [読書]
寝るまえにちょっと読む本には、雑誌や週刊誌に連載した文章をまとめたような本がふさわしい。一回分の分量が適当で、眼がさめるほどむつかしくなく、少し知識が増えて得した気分になって眠りにつける。
「オール讀物」に長年連載した、丸谷才一のエッセイ集とか、川本三郎が「キネマ旬報」に書いている『映画を見ればわかること』のシリーズとか、以前は「週刊文春」にあった高島俊男の『お言葉ですが・・・』など、たいていは読んでも内容は忘れるので、何年かまえの本でも再読して楽しめます。
雑誌に何年にもわたる連載をもっているひとは、そんなに多くなく、特異な才能を持った数限られたひとたちです。文章の達人といえる技が披露されているので、手に取れば安眠が約束されます。
いまは丸谷才一『双六で東海道』(文藝春秋)を読んでいます。出だしは「遅刻論」というもので「小学生のころ、毎朝、遅刻してゐた。」と始まります。そういえば、わたしもずっと一貫して遅刻していたと憶い出します。いまだに遅刻の常習者です。遅刻という言葉は比較的新しいもので、十九世紀後半にできたそうです。それまでは勿論、遅参です。寝る前に本を読むから、つい遅くなって、翌朝、遅参することになるのかも知れません。
濃厚な生活 [徘徊/旅行]
ここ数日、各地で雪が降っているようです。南国の当地でもみぞれがふっていました。静けさのなかに雪降り積む・・・。
いくたびも雪の深さを尋ねけり (子規)
仰臥の生活をおくる正岡子規の視線が感じられます。
三年ほどまえ、根岸の子規庵へ行ったことがあります。JR 山手線鴬谷駅の近くです。子規はここに明治27年から没するまでの八年間を暮らしています。
建物は再建したものですが、子規の生活空間の雰囲気が感じられます。たしかに鶏頭も植わっていそうです。
関川夏央『子規、最後の八年』(講談社)という本があります。子規と、またその周囲での確執のもようなど読みごたえがあります。それにしても、三十五年の濃厚な人生に圧倒されます。
新作を待つ [音楽]
どこかにあったはずと本箱を探して、河盛好蔵『藤村のパリ』(新潮社)を拾い読みすると、1914年にドビュッシーが島崎藤村らの観客をまえに、ピアノ演奏した曲は自作の「前奏曲」や「子供の領分」だったそうです。さらに驚いたことには、著者の河盛好蔵は M.ラヴェルが「ボレロ」を指揮するのを聴いたとなにげなく書いています。クラシック音楽が新作発表として聴衆に披露されていた幸福な時代です。
小説にしろ映画にしろ新作が待たれる作者がいるのは楽しいことです。音楽ではショスタコーヴィチ(1906-75)が最後になったと書いているひとがいました。以来、演奏者は過去の遺産を繰り返し演奏するだけになった・・・。 衝撃的な音楽の新作が待望されます。
日の出の感慨 [雑感]
温かい三が日でした。行きがかりで神戸で新年を迎えることになり、偶然に初日の出を目にすることができました。朝寝坊なので、この年になるまで見た記憶がありません。もしかしたら仕事で当直をしていて、眺めたこともあったのかも知れませんが、憶えていません。
ドビュッシーの管弦楽曲に『海』(1905年)というのがあって、日の出の情景が音で印象的にとらえられています。フランス音楽の精華と思えます。
1913年、神戸港から島崎藤村は世間から逃れるように、フランスにむけて出航します。河盛好蔵『藤村のパリ』には、たしか藤村が三年ほどいたパリでドビュッシーを聴いたようなことが書いてあった記憶があります。
今年がどんな年になるのか、初日の出を眺めながら、ひととき感慨にふけりますが、いずれにしろ、日々の仕事をこなしていくほかありません。