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新聞書評の楽しみ [読書]

 いつも何かおもしろい本はないか? と思っている人間にとって、週末に新聞の書評欄を眺めるのは楽しみのひとつです。最近は書店へ出かけて、棚を見て回るのが億劫になって、読む本がきれると、自宅の本棚から、未読本を探していましたが、それも種切れぎみです。



 新聞で紹介される本も、最近は歳のせいか、興味がそそられるのが少なくなって、困ったものだと思っています。



 先週の毎日新聞の書評欄「今週の本棚」では、星野太『食客論』(講談社)にちょっとこころが動きました。紹介者の永江朗は < 古今東西、傍らで食べる寄生者 > についての話と要約していました。わたしも日頃、食客のような存在と自覚していたので、興味をもよおしたのかも知れません。



 今週は、『つげ義春 流れ雲旅』(朝日新聞出版)というのが紹介されていました。1969-70年に漫画家のつげ義春が編集者と写真家とともに出かけた旅の記録に、その後の旅を加えて復刊したのだそうです。東北、四国、九州などを巡っているようです。どうと言うこともない本なのでしょうが、つげ義春の絵や言葉が楽しめそうです。



 あの時代、わたしも東北や九州へ流れ雲のような旅をしました。振り返れば、こどもから大人への脱皮の時期だったのでしょう。



 また、村上春樹の新作『街とその不確かな壁』(新潮社)について、二人の評者が論評していました。わたしは 1980年代以後、彼の新刊が出るたびに読んでいましたが、ここ十年程は遠ざかってしまいました。自分にとって彼の小説が身に沁むものでは無くなった気がします。また読むことがあるのか不明です。



 人によって本への興味はさまざまなので、新聞で紹介する本を選ぶのも大変でしょう。読者としては、好みの近い書評者が何人かいるもので、今週はどんな本を紹介してくれるのかと楽しみに待つことになります。



#「今年の「この3冊」」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2022-12-17


つげ義春 流れ雲旅

つげ義春 流れ雲旅

  • 出版社: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2023/01/20
  • メディア: 単行本

 


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散髪屋さんのこと [雑感]

 久しぶりに理髪店にでかけました。この間、髪が長くなると家内に切ってもらっていました。家内はYouTubeで散髪の仕方を研究していました。コロナが下火になり、来月には甥の結婚式もあるので、そろそろ出かけてもいいかなという気持ちになりました。



 この散髪屋さんはわたしが大学生の頃からの行きつけで、もう 50年以上になります。先年ご主人が亡くなり、息子さんに代替わりしています。



 わたしが若かった 1960-70年代は、長髪が流行ったので、少々髪が伸びても気にならないせいか、元々、散髪は年に数回しか行きませんでした。わたしの父親は、毎週理髪に通う習慣だったので、学生の頃は帰省のたびに「散髪に行け」と叱られていました。



 父親の行きつけの故郷の理髪店には、わたしの小学校の同級生がいて、よく一緒に遊びました。その子の母親はお好み焼き屋をしていて、時にご馳走してくれました。また祖父は興行師のような仕事をしていて、旅回りの劇団などを差配していました。床屋の離れには人形浄瑠璃の女師匠さんが暮らしており、友達の父親もわたしの父親もそのオショハンについて義太夫を習っていました。「日も早や西に傾きしに・・・」などと父親は「一谷嫩軍記」の一節を道を歩きながらよく唸っていました。郷里の島では人形浄瑠璃が盛んでした。



 散髪屋の友達は左官さんになったのですが、酒浸りとなり、帰省のおりによくない噂を聞くようになりました。50歳になった年に、故郷で小学校の同窓会が開かれたのですが、幹事をしてくれた同級生が、「あいつが亡くなったので、同窓会ができるようになった」と言っていました。飲んで暴れる状態だったようです。



 剛毛であったわたしの髪も年とともに細くなり、柔らかく白くなっています。共に遊び学んだ悪童たちの、その後の生い立ちが知りたいような気がします。




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時代の条件 [読書]

 新聞の書評欄を見ていると、梶井基次郎『城のある町にて』のことが取り上げられていたのですが、そういえば『檸檬』とか『櫻の樹の下には』は記憶にあるのですが、これは読んだ覚えがないので・・・本箱のどこかに文庫本か何かが有るかもしれないとしても、目の具合もあり、Kindleで「青空文庫」のを読んでみました。



 小説は寝転がって読むことが多いのですが、ノートPCではそうもいかず、首や肩が凝ってきます。短篇なのでなんとか読了できましたが、長篇はとても無理です。タブレットなら少しはましかもしれませんが、画面が小さく目が疲れそうです。



 『城のある町にて』は三重県の松阪が舞台になっています。わたしは松阪へは一度行ったことがあるのですが、夜だったので、城跡も町のたたずまいも記憶にありません。梶井基次郎は明治 34年(1901)に大阪市で生まれていますが、松阪は姉の嫁ぎ先でした。1924年、可愛がっていた異母妹が結核で急逝し、自らも結核に罹り、姉の勧めで養生がてら松阪に行ったようです。



< 今、空は悲しいまで晴れていた。そしてその下に町は甍(いらか)を並べていた。>



 少し硬質な文章で、姉夫婦一家との日々がスケッチされます。穏やかな暮らしのなかで喪失感が薄らいでいくようです。



 戦前の青年たちには結核という病気が身近でした。時代を象徴する病気とも言えます。わたしは戦後生まれですが、小学校の帰り道で、近所の人から「おまえの家は結核筋や」と言われたのを憶えています。



 抗生物質の発見やワクチンの開発によって、感染症が表舞台から去り、寿命が伸び、表面に出てきたのがガンで、そんな時代をわたしたちは生きてきました。



 今回の新型コロナのパンデミックは、克服されたと思っていた感染症の逆襲でした。感染症はコントロールされているわけではなく、最近でもサル痘とか小児肝炎などが次々に出現しています。新しい時代にさしかかっているのかも知れません。



 話がそれましたが、20世紀初頭を生きた梶井基次郎は、昭和 17年( 1932)に結核で他界しました。31歳でした。時代の条件のなかで、生きた青年の感慨が綴られていました。



< 今日も入江はいつものように謎をかくして静まっていた。/ 見ていると、獣のようにこの城のはなから悲しい唸(うなり)声を出してみたいような気になるのも同じであった。息苦しいほど妙なものに思えた。(後略)/ 「ああかかる日のかかるひととき」(後略)>




 それにしても、昭和生まれの人間としては、小説は紙媒体で、寝転がって読みたいものですが、もうそんな時は来ないのかと思うと、呆然とします。





城のある町にて

城のある町にて

  • 作者: 梶井 基次郎
  • メディア: Kindle版

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「からだ」はどう扱われたか [読書]


 世の中は、ますますヴァーチャル・リアリティが幅を利かせ、AIがいろんな分野に浸透しています。人間の脳が作り出した産物が人間を支配しつつあるようです。身体もデータに置き換えられ、画像化されます。思い通りにはならない自然の身体は見えにくくなっているようです。



 『身体の文学史』(新潮社)は、解剖学者の養老孟司が明治以降の小説において、身体がどう扱われてきたかを考察した本です。わたしなりに要約すれば、江戸時代以来の日本社会は隅々まで制度で管理され、本来、肉体的な兵士である武士も、行政職となり、身体は流派の型や所作として管理された。著者はそれを「脳化社会」と呼んでいます。



 明治になっても、森鷗外や夏目漱石には自然としての身体は意識されることなく、テーマは”こころ”であった。



 < 意識的なものとして、身体の役割が最初に文学に登場するのは、芥川[龍之介]であろう。(中略)/ 芥川に登場する身体は、ある特徴を持っている。それは主人公を引きまわすのである。『鼻』および『好色』は、その好例であろう。(中略)身体という主題に関して、芥川自身の態度を示すのは、『羅生門』である。ここに登場する下人は、死人の髪を抜いてかつらを作る老婆をけ倒して、いずこともなく去る。この下人の気持ちは、芥川の気持ちであろう。この芥川の感情は一般的な日本人の感情であり、脳死臓器移植問題の議論に、そのままの形で、いまだに表現され続けている。>





 昭和になると戦争が始まる。「腹が減っては戦はできぬ」というのが人間の自然ですが、「軍隊はシャバとは違う」として身体は規則に縛られる。戦場の身体として、ここでは大岡昇平の『野火』、『俘虜記』が取り上げられています。



< 比島のジャングルで死にそうな目にあっても、俘虜になっても、大岡昇平は折り目正しい。その規矩は無意識的に世間によって涵養された。(中略)『野火』の主題は人肉食であり、主人公は自分個人の決断で人肉を食べない。その背後にあるのは大岡昇平の規矩なのだが、私にはそんなものはないというしかない。(後略)>



 そして、深沢七郎と三島由紀夫が取り上げられます。深沢七郎は『楢山節考』について、「残酷だと言われたのも意外だが、異色だと言われたのも意外だ。もっと意外なことは、何か、人生観というようなことまで聞かされたのは意外だった。あんなふうな年寄りの気持ちが好きで書いただけなのに、(変だな?)と思った。」と書いているそうです。この小説が中央公論新人賞に選ばれた時の審査員であった三島由紀夫は『楢山節考』について、「ゆうべは怖い小説を読まされて、眠れなかった」と言い、選評でも、耐えがたく怖いと述べる。



 養老孟司は、< そこに歴然と表れるのは、深沢七郎の世界ではなく、むしろ三島が住む世界である。(中略)/ 三島はきわめて論理的な作家のはずだが、その論理は人工の世界を前提に構築されている。要するに「つくりもの」なのである。われわれ自身が抱えており、それで当然であるはずの生老病死が、『楢山節考』という形をとったときに、饒舌なはずの三島が言を喪う。(中略)三島は典型的な脳化社会の人である。(後略)>と分析しています。



 ここまでくると、三島由紀夫が自分の内の自然である身体を、ボディービルで管理しようとし、私設軍隊の規律を課し、結局、身体を滅ぼしてしまうことになった意味が透けて見える気になります。



 三島由紀夫事件からは半世紀以上が経っていますが、この間、脳化社会の様相はますます進展しています。身体という自然を生々と動かし、全人的に生きたいものです。


#「会話を聞く楽しみ」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2023-03-06


身体の文学史

身体の文学史

  • 作者: 養老孟司
  • 出版社: 新潮社
  • メディア: 単行本

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