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子供という種族 [雑感]

 昔のスライド写真をスキャナーで取り込んでいると、子供たちが生き生きと休みなく動きまわっている姿が現れます。どこで撮ったのか記憶にない写真がたくさん出てきます。ふざけたり、木に登ったり、道に転がったり画面からはみだすような活動ぶりです。長男が10歳、次男が6歳の頃です。


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 大人たちは憮然と立っていたり、すましていたり、微笑していたり、あまりエネルギーの発散は感じられません。


 先ごろ読んでいた作家のサロイヤンが、< 子供という人種は元気で熱心で、物を知りたがり、無邪気で空想力に富み、健康で信念に充ちている。これに反して大人という種族はだいたいにおいて萎びて無気力で空想力がなく、不健康で信念を持っていない。 >* と書いているのを読んで、苦笑しながらも同意せざるを得ませんでした。


 いま取り込んでいる色褪せたスライドは 34年前のものなので、ちょうど一世代が経過して、画面の子供たちは父親の年になり、新しい子供たちが活躍するようになっています。萎びて無気力で不健康な世代は過ぎ去った時間の中に想いを馳せます。


*『ウィリアム・サローヤン戯曲集』(加藤道夫/倉橋健 訳 早川書房)

#「セピア色の画像」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2022-06-04

#「読み比べも楽し」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2022-04-08

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本棚で待っている本 [読書]

 長年、日曜日には毎日新聞の「今週の本棚」という書評欄を楽しみにしていますが、最近は読んでみようという本に出会う頻度が少なくなっています。私の興味が時代と合わなくなっているのかもしれません。つい、本箱を眺め、若い頃に買って、読まないままになっている本に手が伸びてしまいます。

  活字中毒という言葉があります。何か読むものが無いと、手持ち無沙汰で落ち着かない、何も読まないで寝てしまうと、一日が無駄に過ぎてしまった気がして不安になる。とりあえず何か読物が手元にあると安心する。活字依存とも言えるでしょう。


 読むものは興味をそそられる事柄が扱われているにこしたことはありません。また、興味を抱かせるかどうかは書き手の力量にもより、それにより興味はいろんな方面に誘われます。


 中毒というからには、「活字」に"あたった"わけで、その時の読書の快感が身についてしまって、また快感を感じたいと活字を追い求める結果となったのでしょう。


 依存という面では、「活字」に寄りかかって暮らす結果、事に当たって「誰それによれば・・・」とか「何々にはこう書いて・・・」とかと、つい思い浮かべてしまう症状が見られます。現実を直に自分の手足で生きる力が損なわれやすくなります。



そんなことを考えても、もう手遅れに違いなく、一冊読み終われば、やはり、次に何を読もうかと、本箱の奥を眺めてしまいます。


 先日読んだサロイヤン『人間喜劇』の隣に、カレル・チャペック『ひとつのポケットから出た話』がありました。奥付の記載を見ると、この2冊は1977年3月9日に大阪・梅田の紀伊國屋書店で一緒に買っていました。ともに晶文社「文学のおくりもの」シリーズのものです。帰りの電車内で拾い読みした記憶が蘇りましたが、帰宅後は本箱に立てたままになっていました。


 チャペック(1890-1938)はチェコの生まれで、カフカの7歳下です。「ロボット」という言葉を作った人といわれています。この短篇集には女占師とか透視術師、筆蹟占師など怪しげな人物がよく出てきます。たわいもない話、ちょっと皮肉な話、ありそうな話など、ひとつの話が 10ページほどで、1日1話、朝食後の腹ごなしに丁度いい読物です。


 #「短篇小説のための手引き書」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2020-07-21


ひとつのポケットから出た話 (ベスト版 文学のおくりもの)

ひとつのポケットから出た話 (ベスト版 文学のおくりもの)

著者:カレル・チャペック

  • 出版社: 晶文社
  • メディア: 単行本

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ユートピアの住人たち [読書]

 W.サロイヤン『人間喜劇』(小島信夫訳 晶文社)を読んでみました。第二次世界大戦中の 1943年に発表された小説です。舞台はカリフォルニア州イサカという架空の町で、主人公のホーマー・マコーレイは 14歳の高校生で、電報配達の仕事を始めたばかりです。


 < ホーマーは中古自転車に乗っかっていた。自転車は田舎道の埃と勇敢にも格闘しているような恰好ですすんでいた。ホーマー・マコーレイは電報配達の制服の上衣をきていたが、これはやたらに大きすぎ、制帽の方はどうも十分な大きさとはいえなかった。 >


 この童話のような世界に登場する人物たちは、夢のような言葉をしゃべりあいます。たとえば、高校の老女性教師は差別的な暴言を吐く体育教師に激怒するイタリア移民の生徒にこう語りかけます、< バイフィールドさんに謝らしてあげなさい。バイフィールドさんはあなたと同じようにイタリアからきた人たちに謝るのではありません。わたしたちの祖国に謝るのです。もう一度アメリカ人になろうとする権利をあたえてやりなさい」/「そうですとも」と校長はいった。「ここはアメリカですぞ。そしてここで他者(よそもの)は、ここがアメリカであるということを忘れた人たちだけです」校長はまだ地面にノビている男にいった。「バイフィールド君」と校長は命令した。 > かってのアメリカの夢が語られているかのようです。


 放課後、ホーマーは電報局にでかけ、配達する電報がないか確認します。ホーマーが部屋を出て行くと、電報局長と老電信士は語りあいます。< 「あの子をどう思うかね」/「いい子ですな」とグローガンさんはいった。/「ぼくもそう思う」とスパングラーはいった。/「サンタ・クララ通りの、立派な貧しい家庭の子なんだ。父親はいない。兄は兵隊にいっている。母親は夏の間は、罐詰工場で働いている。姉は州立大学の学生だ。あの子はここの仕事をするには二つばかり年がたらん、ま、そんなところだ」/「わたしは二つばかり、年が多すぎますから」とグローガンさんはいった、「うまくやって行けますよ」 >


 < 電報配達はローザ・サンドヴァル夫人の家の前で自転車から下りた。彼は玄関のドアのところにいき、やさしくノックした。(中略)/「誰にきた電報?」とこのメキシコ人の女の人はいった。 > 英語が読めないメキシコ人はホーマーに電文を読んでくれと言います。< 「誰が電報を打ってきたのーー息子のファン・ドミンゴかい?」/「いいえ」とホーマーはいった「陸軍省からの電報です」/「陸軍省?」とメキシコ人の女の人はいった。/「サンドヴァルさん」とホーマーはせきこんでいった。「息子さんはなくなられたんです。たぶん間違いですよ。誰だって間違いはします。サンドヴァルさん。たぶんあなたの息子さんじゃないです。たぶん誰かほかの人です。電報にはファン・ドミンゴと書いてあります。でも、たぶん電報が間違ってるんです」/メキシコ人の女の人は、まるでそれがきこえない様子だった。 >


 ホーマーは自分に責任がある気がし、また、< ぼくはただの電報配達です。サンドヴァルの奥さん。こんな電報を持ってきて、ほんとにすみません。でも、それはただ、ぼくのしなくちゃいけない仕事ですから > と言いたい気持ちにおそわれる。


 こんな風に、心地よく、同時に哀切でもある話が始まります。訳者の小島信夫は後書きで < この人間喜劇という意味は、人間悲劇に対する人間喜劇ではない。人間の営みを人間喜劇と見るという意味で、悲劇を含んでしまった喜劇の意味である。 > と記しています。


 ウクライナの戦況が日々伝えられる中で、物語を読み進めていると、ホーマー少年の心情が生々しく感じられます。


 ホーマーの弟・ユリシーズは踏切で通り過ぎる汽車に手を振っています。< 「故郷(くに)にかえるとこだよ、坊やーーーおいらのところにかえるんだ!」/ちいさな坊やと黒人は、汽車がほとんど見えなくなるまで、お互いに手をふりあった。 >


イサカという架空の街は、アルメニア移民の子として少年時代を孤児院で過ごしたサロイヤンが、叶えられなかった夢を描く舞台となっているのかも知れません。



「読み比べも楽し」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2022-04-08


人間喜劇 (ベスト版 文学のおくりもの)

人間喜劇 (ベスト版 文学のおくりもの)

著者:ウィリアム・サロイヤン

  • 出版社: 晶文社
  • メディア: 単行本

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セピア色の画像 [雑感]

 デジタル・カメラを使い始めた2004年より前は、旅行の記録はカラー・スライドで撮っていました。プロジェクターで見ると大きく鮮明な画像が多人数で楽しめました。ただ現像ができて初めて見る時はいいのですが、後でちょっと見るには用意が億劫で、あまり見なくなります。


 息子たちが独立し、それぞれ子供を持つ身になっているので、昔の家族旅行のスライドをデジタル化して渡そうと思って、スライド・スキャナーを買ってみました。


 手始めに 1973年にわたしが大学生の夏休みに友人と出かけた南九州・奄美大島旅行のスライドをスキャンして SDカードに取り込みました。出来具合を見て唖然としました。画像は劣化し、セピア色になっていました。


 なんとなく印画紙のカラー写真は経年変色しても、スライドは大丈夫と思い込んでいたので、画面に映る画像にはショックを受けました。49年経つとこんなになるのか・・・と、生きてきた記録が失われた気がして気分が落ち込みました。


 毎日何十枚かずつスキャンするとして、30年分でいつまでかかるのか? 何年前のものから劣化が少なくなるのだろうか? 不安になってきます。


 それでも画像を見ると忘れていたことが思い出されます。南九州に一緒に行った友人は一人息子で、今まで旅行したことがないので、連れていってくれということで同行することになったのでした。


 西鹿児島まで夜行列車で行き、桜島、佐多岬、枕崎、指宿、霧島、青島と巡りました。この間、友人は毎日、家に電話しているので意外に感じました。わたしには旅先から親に連絡する習慣はありませんでした。日常のしがらみから解放されるのが旅の楽しさと思っていました。今から思えば、友人にとって毎日電話するのが、息子の旅行を心配した親の旅行許可の条件だったのかも知れません。


 愉快な毎日だったのですが、友人はどういう訳か宮崎で、もう帰ると言い出し、あっさり宮崎空港から飛行機で帰宅してしまいました。その後、わたしは鹿児島港から船で奄美大島へ渡り、加計呂麻島などへ行きました。お金を使い果たし、帰りは 13時間飲まず食わずの汽車旅でした。


 翌年、わたしたちは共に就職しました。社会人として希望に満ちていた二年目の夏、友人は職場の懇親旅行で海水浴に行き、水難事故で他界しました。47年も前のことですが、セピア色に変色したスライドの中で、友人がにこやかに笑っているのを見ると、当時のことが鮮明に思い出されます。


 褪色はしょうが無いかと諦めながらスライドのスキャンを続けていましたが、ちょうど長男から電話があったおりに、スライドの劣化のことを話題にすると、長男は事もなげに「画像修復ソフト」があるから大丈夫と言います。


 調べてみると確かにフリーの画像ソフト(GIMP)で、ある程度の修復は可能なようです。何事もひとに話したり、ネット検索することで思わぬ情報がみつかるようです。それにしても記録と記憶の整理とでもいえる厄介な作業を始めてしまったものです。



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雨の日の音楽 [音楽]

 雨の季節になりました。しばらくは鬱陶しい天気をやり過ごすほかありません。雨は唄によく歌われています。雨の唄でも聴いて楽しむのもいいかも知れません。ひとにより時代によりいろんな曲が思い浮かぶことでしょう。


 「雨がふります 雨がふる」、「あめあめふれふれ かあさんが」とか「雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる」という北原白秋の作詞に始まり、「あなたを待てば雨が降る」や「小ぬか雨降る御堂筋」、「雨雨ふれふれ もっとふれ」など雨に関わる唄を探せば際限がありません。


 歌詞にはそれぞれ工夫がありますが、「利休鼠の雨」とは北原白秋しか思いつかない言葉でしょう。利休色は抹茶の黄緑ですが、それに灰色が混じった色のようです*。なんとも渋い雨の色です。


 洋楽ではミュージカル映画『雨に唄えば』や映画『明日に向って撃て』の主題歌『雨にぬれても』が思い出されます。十代のころラジオからは『雨に歩けば Just Walking In The Rain』とか『悲しき雨音 Rhythm Of The Rain』がよく流れていました。ボブ・ディランには意味深長な『雨の日の女』があり、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)には『雨を見たかい』という反戦歌ともいわれた唄がありました。


 ジャズ・ボーカルではスー・レイニー(Sue Raney)が自分の名前にちなんで、雨にまつわる唄を集め『雨の日のジャズ Songs for a Raney Day』というアルバムを作っています。


 カンツォーネでジリオラ・チンクェッティの『雨』は 1969年に流行りました。ボサノバの『三月の雨』は現代詩風の歌詞ですが、南半球なので夏の終わりの雨なのでしょう。


 もっと古くは、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第1番が「雨の歌」と呼ばれています。第3楽章に自身の歌曲『雨の歌』の旋律が使われているからだそうです。梅雨の時期に聴くにふさわしい、利休鼠の似合う曲調です。


 梅雨があければコロナ騒動も終わるのでしょうか? 4回目のワクチンはどうするか? 先日の念のための検査の結果はどうということもなく、夏には何処かへ出かけてみようか? 雨の日には取り留めなく思案にくれます。


 *『色の手帖』(小学館)





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