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コケって何? [読書]

 本を読んでいると、これは何と読むのだろうという漢字に出会うことがあります。先日も「虚仮」という文字がありました。< わしを虚仮にしおって・・・> という文章です。前後関係から「コケ」だろうとは思うのですが、では「虚仮」とは何だろうと辞書*を引いてみました。


 コケ【虚仮】(名・形動)(一)〔仏〕実体がないこと。また、真実でないこと。(二)考えのあさはかなこと。おろか。(無名抄)。(接頭)むやみにそうする意を表す。「一未練」《一に・する》ばかにする。一おしみ【一惜(し)(み)】をしみ むやみに物惜しみをすること。一おどし【一《威(し)】(一)浅薄なおどかしかた。「検校の居間に一と筋一(柳樽)(二)外見はもっともらしいが、中身はたいしたことがないこと。(後略)


どうも元々は仏教用語のようなので、仏教辞典**も見てみると・・・


 虚仮 こけ 漢語としては, 実の伴わないこと, いつわり. 用例は『墨子ぼくし』修身に見える. 仏典では, 真実の反意語であるが, 文脈によって二義がある. 一は, 虚空こくうと同じく, もろもろの事象が空虚で実体性を欠いていること(如来不思議秘密大乗教5など). 二は, 虚妄こもうと同じく, 心や行為が真実でないこと. うそ, いつわり(維摩教菩薩品). 外に善を装い, 内に虚偽こぎを懐いた行為を《虚仮之行こけのぎょう》という(観経疏4)(後略)


 こんな難しい言葉が、どんないきさつで誰もが使う日常語になったのか不思議です。お坊さんの説教にでも出てきたのか、また、歌舞伎か落語のセリフで広まったのでしょうか?


 落語の「こんにゃく問答」は旅の禅僧とこんにゃく屋のやりとりで笑わせますが、噺を作ったとされる幕末の二代目 林家正蔵は元は僧侶だったそうです。してみれば、いつの頃か、「虚仮にしおって!」と舞台か高座でしゃべった芸人もいたかも知れない、と想像するのも楽しい空想です。


*『新潮国語辞典 第二版』(山田俊雄 築島裕 小林芳規 白藤禮幸 編集 新潮社)

**『岩波 仏教辞典』(中村元 福永光司 田村芳朗 今野逹 編 岩波書店)





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ワルシャワの少年 [読書]

 ウクライナの情況を毎日のようにテレビで見せられていると、あの辺りの国々の過酷な歴史を思わずにはいられません。侵略されたり、分割されたり、隷属させられたりです。またウクライナのゼレンスキー大統領をはじめ、2000年程前に離散したユダヤの人々があの辺りに多く居住しているのを知ります。


 ユダヤ系の人としてはマルクス、フロイト、アインシュタインといった 20世紀に深く影響を与えた人物をはじめ、音楽界では指揮者のワルター、バーンスタイン、ピアニストのホロヴィッツ、ルービンシュタイン、アシュケナージなど、またマーラー、ガーシュウィン、スタン・ゲッツ、ボブ・ディラン、サイモン&ガーファンクルなど綺羅星のごとくで、影響力の大きさは計り知れません。


 先日、アイザック・バシュヴィス・シンガーの回想記『ワルシャワで大人になっていく少年の物語』(金敷力 訳 新潮社)を読んでみました。シンガーはイディシュ語という東欧ユダヤ人の言葉で書くアメリカの作家で、1978年にノーベル文学賞を受賞しています。


 著者が3歳の 1908年、当時、ロシア帝国領であったポーランド・ワルシャワの近郊の村から一家でワルシャワへ転居するところから物語は始まります。父親はラビ(ユダヤ教の牧師)で、母親はラビの娘という宗教的な家族でした。


 < 小さな汽車は動きはじめた。わたしは窓辺に坐って外を見ていた。人々の姿がうしろに歩くように見えた。二輪馬車は後ろ向きに走っていた。電信柱が走り去っていく。そばには母と姉が坐った。姉は赤ん坊、つまり弟のモシェをひざに抱いていた。> 


 一家がワルシャワで住み始めたアパートは、< 階段にもひどく悩まされた。子どものなかには屋外便所よりも階段で済ます方が好きなものもいたからだった。さらに困ったことにここを台所のゴミの捨場に使う女がいた。 > というような環境でした。ラビの父親は担当街区内でおこる訴訟や結婚、離婚などの相談を収入源としていました。


 < ひとりの女が入ってきた。彼女は二羽のガチョウが入ったカゴを抱えていた。顔にはおびえたような様子うかがえた。既婚を示すカツラはずり落ちそうだった。彼女は神経質そうに笑みをうかべた。/ 父は見知らぬ女には目を向けなかった、ユダヤの律法で禁じられていたからだ。しかし、母やわたしたち子どもは、この予期せぬ訪問者がなにかひどく動転しているのをすぐに感じとった。/「なんじゃね」父は彼女を見ないように背を向けると同時にたずねた。/「ラビさま、わたし、とてもただごとでない問題をかかえてしまったのです」> 


 女はガチョウが料理用に処理したのに、きいきいと哀しげな声で鳴くというのです。この話を聞いたとたんに父の顔は真っ青になった。実際に女が二羽のガチョウを取り出して、互いにぶつけあうとガチョウが、きいきいと鳴きました。<父は女から目をそむけねばならないという掟を忘れてしまった。(中略)おそらくこれは邪神からの、サタン自身からの、合図ではなかろうか? > と父親はつぶやきます。


 母は哀しそうな、また怒りのこもった目でなりゆきを見ていましたが、ガチョウの首に指を突っ込み喉笛を引っ張り出しました。「死んだガチョウが鳴いたりはしないんですから」と母は言った。


 サライヴォでオーストリアの皇太子が暗殺され、第一次世界大戦が始まりました。兄はロシア軍に徴兵されることになりますが、身を隠しました。< わたしのうちにはとなり近所の人たちのように、食料を買いだめするおカネはなかった。>< 父は、戦争は二週間でけりがつくっていう話をきいたといった。「あいつら一発で一千人のコサック兵を殺せる大砲をもってるんだ」/「まあ、怖い話・・・」母は叫んだ。「世界はどうなるんでしょうねえ?」/ 父は、「いいかい、もう家賃を払わなくていいんだ。政府が支払い猶予令を布告したからな・・・」といって母をなぐさめた。/ 母は続けた、「それじゃ、訴訟を頼みにくる人がなくなるじゃない。どこで、食べるおカネを稼ぐの?」>


 ユダヤの人々の日常の暮らしが少年の目で綴られています。宗教教育の様子、独特な習俗など未知の世界が窺い知れます。


 読み進むにつれ、東欧の歴史とユダヤ人社会の関わり、その後のワルシャワの人々の運命などいろいろに想いが広がります。


作家となったシンガーは 1935年、兄の勧めもあり、アメリカへ移住することになります。ヒットラーとソ連軍がポーランドに侵攻する4年前のことでした。


#「ユーラシア漂泊」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2022-02-26


ワルシャワで大人になっていく少年の物語 (1974年)

ワルシャワで大人になっていく少年の物語 

  • 出版社: 新潮社
  • メディア: 単行本

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戦後という時代 [読書]

 大阪・淀川の右岸に十三(じゅうそう)という歓楽街があります。阪急電車の十三駅の周辺です。宮本輝の小説『骸骨ビルの庭』(講談社文庫)は十三を舞台にしています。


 地元で骸骨ビルと呼ばれていた「杉山ビルヂング」に戦後、戦災孤児や親に捨てられた棄迷児たちが住み着き、戦地から帰国したビルの相続人・阿部轍正によって育てられた経緯から物語は展開していきます。


 阿部轍正と友人で結核療養をしていた茂木泰造は骸骨ビルの庭で野菜作りをしながら子供たちを育てます。それぞれの孤児たちの物語が、彼らの立ち退きを求めるために管理人として送り込まれた八木沢省三郎の手記として書き記されます。



 平成6年2月20日が手記の始まりなので、住み着いた孤児たちも四、五十代になっています。それぞれの暮らしが個性的に描かれ、管理人の八木沢も徐々に彼らの結びつきに引き込まれていきます。単身赴任の八木沢は、かって孤児たちがビルの庭でしたように野菜作りを始めます。


宮本輝を読んでみようと思ったのは、以前、彼の「力道山の弟」という短篇小説が面白かったからです。映画『泥の河』(監督 小栗康平)も彼の小説が原作になっていました。いずれも戦後という時代を背景としています。宮本輝は1947年生まれです。


 宮本輝はなぜ戦後という時代を書き続けるのでしょう? わたしも同世代として、あの猥雑で、子供たちがあふれ、貧しく、それでいて未来に希望を託し、生き延びた時期が生き方の基準として身に染みついているのを自覚します。


 子供の頃、思いもしなかった21世紀がやってきて、人は減り、空き家だらけとなり、未来に希望はあるのかと訝しく思います。いや、それは戦後からの回復期を生きた人間の思考の癖にすぎず、現実は過密が解消され、穏やかに長生きができる社会が到来しつつあるとすべきでしょうか?


「こころに残る短篇小説」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2019-06-24



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本棚で待っている本 [読書]

 長年、日曜日には毎日新聞の「今週の本棚」という書評欄を楽しみにしていますが、最近は読んでみようという本に出会う頻度が少なくなっています。私の興味が時代と合わなくなっているのかもしれません。つい、本箱を眺め、若い頃に買って、読まないままになっている本に手が伸びてしまいます。

  活字中毒という言葉があります。何か読むものが無いと、手持ち無沙汰で落ち着かない、何も読まないで寝てしまうと、一日が無駄に過ぎてしまった気がして不安になる。とりあえず何か読物が手元にあると安心する。活字依存とも言えるでしょう。


 読むものは興味をそそられる事柄が扱われているにこしたことはありません。また、興味を抱かせるかどうかは書き手の力量にもより、それにより興味はいろんな方面に誘われます。


 中毒というからには、「活字」に"あたった"わけで、その時の読書の快感が身についてしまって、また快感を感じたいと活字を追い求める結果となったのでしょう。


 依存という面では、「活字」に寄りかかって暮らす結果、事に当たって「誰それによれば・・・」とか「何々にはこう書いて・・・」とかと、つい思い浮かべてしまう症状が見られます。現実を直に自分の手足で生きる力が損なわれやすくなります。



そんなことを考えても、もう手遅れに違いなく、一冊読み終われば、やはり、次に何を読もうかと、本箱の奥を眺めてしまいます。


 先日読んだサロイヤン『人間喜劇』の隣に、カレル・チャペック『ひとつのポケットから出た話』がありました。奥付の記載を見ると、この2冊は1977年3月9日に大阪・梅田の紀伊國屋書店で一緒に買っていました。ともに晶文社「文学のおくりもの」シリーズのものです。帰りの電車内で拾い読みした記憶が蘇りましたが、帰宅後は本箱に立てたままになっていました。


 チャペック(1890-1938)はチェコの生まれで、カフカの7歳下です。「ロボット」という言葉を作った人といわれています。この短篇集には女占師とか透視術師、筆蹟占師など怪しげな人物がよく出てきます。たわいもない話、ちょっと皮肉な話、ありそうな話など、ひとつの話が 10ページほどで、1日1話、朝食後の腹ごなしに丁度いい読物です。


 #「短篇小説のための手引き書」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2020-07-21


ひとつのポケットから出た話 (ベスト版 文学のおくりもの)

ひとつのポケットから出た話 (ベスト版 文学のおくりもの)

著者:カレル・チャペック

  • 出版社: 晶文社
  • メディア: 単行本

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ユートピアの住人たち [読書]

 W.サロイヤン『人間喜劇』(小島信夫訳 晶文社)を読んでみました。第二次世界大戦中の 1943年に発表された小説です。舞台はカリフォルニア州イサカという架空の町で、主人公のホーマー・マコーレイは 14歳の高校生で、電報配達の仕事を始めたばかりです。


 < ホーマーは中古自転車に乗っかっていた。自転車は田舎道の埃と勇敢にも格闘しているような恰好ですすんでいた。ホーマー・マコーレイは電報配達の制服の上衣をきていたが、これはやたらに大きすぎ、制帽の方はどうも十分な大きさとはいえなかった。 >


 この童話のような世界に登場する人物たちは、夢のような言葉をしゃべりあいます。たとえば、高校の老女性教師は差別的な暴言を吐く体育教師に激怒するイタリア移民の生徒にこう語りかけます、< バイフィールドさんに謝らしてあげなさい。バイフィールドさんはあなたと同じようにイタリアからきた人たちに謝るのではありません。わたしたちの祖国に謝るのです。もう一度アメリカ人になろうとする権利をあたえてやりなさい」/「そうですとも」と校長はいった。「ここはアメリカですぞ。そしてここで他者(よそもの)は、ここがアメリカであるということを忘れた人たちだけです」校長はまだ地面にノビている男にいった。「バイフィールド君」と校長は命令した。 > かってのアメリカの夢が語られているかのようです。


 放課後、ホーマーは電報局にでかけ、配達する電報がないか確認します。ホーマーが部屋を出て行くと、電報局長と老電信士は語りあいます。< 「あの子をどう思うかね」/「いい子ですな」とグローガンさんはいった。/「ぼくもそう思う」とスパングラーはいった。/「サンタ・クララ通りの、立派な貧しい家庭の子なんだ。父親はいない。兄は兵隊にいっている。母親は夏の間は、罐詰工場で働いている。姉は州立大学の学生だ。あの子はここの仕事をするには二つばかり年がたらん、ま、そんなところだ」/「わたしは二つばかり、年が多すぎますから」とグローガンさんはいった、「うまくやって行けますよ」 >


 < 電報配達はローザ・サンドヴァル夫人の家の前で自転車から下りた。彼は玄関のドアのところにいき、やさしくノックした。(中略)/「誰にきた電報?」とこのメキシコ人の女の人はいった。 > 英語が読めないメキシコ人はホーマーに電文を読んでくれと言います。< 「誰が電報を打ってきたのーー息子のファン・ドミンゴかい?」/「いいえ」とホーマーはいった「陸軍省からの電報です」/「陸軍省?」とメキシコ人の女の人はいった。/「サンドヴァルさん」とホーマーはせきこんでいった。「息子さんはなくなられたんです。たぶん間違いですよ。誰だって間違いはします。サンドヴァルさん。たぶんあなたの息子さんじゃないです。たぶん誰かほかの人です。電報にはファン・ドミンゴと書いてあります。でも、たぶん電報が間違ってるんです」/メキシコ人の女の人は、まるでそれがきこえない様子だった。 >


 ホーマーは自分に責任がある気がし、また、< ぼくはただの電報配達です。サンドヴァルの奥さん。こんな電報を持ってきて、ほんとにすみません。でも、それはただ、ぼくのしなくちゃいけない仕事ですから > と言いたい気持ちにおそわれる。


 こんな風に、心地よく、同時に哀切でもある話が始まります。訳者の小島信夫は後書きで < この人間喜劇という意味は、人間悲劇に対する人間喜劇ではない。人間の営みを人間喜劇と見るという意味で、悲劇を含んでしまった喜劇の意味である。 > と記しています。


 ウクライナの戦況が日々伝えられる中で、物語を読み進めていると、ホーマー少年の心情が生々しく感じられます。


 ホーマーの弟・ユリシーズは踏切で通り過ぎる汽車に手を振っています。< 「故郷(くに)にかえるとこだよ、坊やーーーおいらのところにかえるんだ!」/ちいさな坊やと黒人は、汽車がほとんど見えなくなるまで、お互いに手をふりあった。 >


イサカという架空の街は、アルメニア移民の子として少年時代を孤児院で過ごしたサロイヤンが、叶えられなかった夢を描く舞台となっているのかも知れません。



「読み比べも楽し」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2022-04-08


人間喜劇 (ベスト版 文学のおくりもの)

人間喜劇 (ベスト版 文学のおくりもの)

著者:ウィリアム・サロイヤン

  • 出版社: 晶文社
  • メディア: 単行本

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紀伊半島の一隅で [読書]

  紀伊半島の付け根を東から西に流れる紀ノ川の中流域に、名手(なて)という町があります。有吉佐和子の小説『華岡青洲の妻』の舞台となった所です。江戸時代、名手には参勤交代のおり紀州藩主が泊まる本陣(妹背家)がありました。青州の妻・加恵は妹背家の出身です。


 華岡青洲(1760-1835)は江戸時代末期の医師で、若い頃から中国・後漢の華陀が麻沸散という麻酔薬を使って手術をした故事に興味を持ち、研究を重ね、マンダラゲ(朝鮮朝顔/エンジェルストランペット)を主成分とした麻酔薬の開発に成功しました。


 有吉の小説では青州が麻酔薬の開発実験を犬や猫で行い、最終的に人体に試すに当たって、母親(於継)と妻(加恵)が嫁姑の確執の中で、実験台になる経緯が詳細に描写され、小説の核心となっています。


 <少量の焼酎(しょうちゅう)が湯で割って湯呑みに入れてあった。青州が手の中にあった紫色の紙をひらくと、包まれていた赤黒い散薬が現れた。/「僅(わず)かなものやのし」/於継が云った。加恵に聞かせて安心させるには少し針のある言葉だった。/「これは仮の名を通仙散(つうせんさん)とつけましたのや。生(なま)なら一抱えある薬草を煎じ煮つめて、乾かしかためたのを、更に叩(たた)いて粉にしたものやよって、呑み安(やす)い筈(はず)ですのや」/酒臭い湯を口に含んでから、加恵は夫の云うままに仰向いて唇(くちびる)をあけた。青州が片手を妻の頤(あご)にかけ、通仙散を服用させるのを、於継は身動きもせずにじっと見詰めていた。(後略)>


 加恵は通仙散によって一時的に意識を無くし、麻酔実験は成功しました。しかし、加恵はその後、徐々に視力を失っていくことになります。


 1804年(文化元年)、青州は通仙散を用いた全身麻酔によって乳癌摘出術を行いました。アメリカでエーテルによる麻酔が行われる 40年程前のことです。


 草深い紀伊半島の一隅で近代医学が目覚めていったのかと思うと、感慨深いものがあります。青州の業績は国際外科学会に認められ、シカゴの「栄誉会館」に彼の遺品が収められているそうです。


 この小説が発表されたのは 1967年で、ちょうど、わたしが大学に入学した年でした。話題になり映画化され舞台にもなったようですが、十代のわたしに嫁姑の確執は興味もなく手に取ることもありませんでした。この歳になって、そういえば住んでる場所に関係ある人の話だと読む気になった次第です。本との接点も年代によって変わってくるようです。





華岡青洲の妻 (新潮文庫)

華岡青洲の妻 (新潮文庫)

  • 作者: 有吉佐和子
  • 出版社: 新潮社
  • メディア: 文庫

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春の夕暮れ [読書]

 

  菜の花の夕ぐれながくなりにけり (長谷川素逝)


 菜の花といえば黄色一面の風景を思い描きますが、金田一春彦*によれば、 < 秋田県・岩手県の境あたりに行くと、「菜の花がまっさおに咲いてうづぐすいなっス」など、土地の人が言うのを耳にする。> そうです。


 < 昔、アオということばは今よりももっと広い意味に使われて青のほかに緑・黄なども含まれ、はっきりしない中途半端な色という意味を持っていたその名残り > なのだそうです。もちろん古い文章なので、今の人はそんな言い方はしないのでしょうが。


    菜の花や月は東に日は西に (与謝蕪村)

    なのはなや摩耶(まや)を下れば日のくるゝ (与謝蕪村)


 季節的には、4月中旬ごろ、神戸の摩耶山から眺めれば、東の生駒山系の上に満月が昇り、瀬戸内海に夕日が沈むのが見はらせるかも知れません。江戸中期、摩耶山麓の灘付近は山からの水流を利用し、水車で菜種油を作る産地だったそうです**。


 「月は東に日は西に」という句趣は、蕪村の愛読書であった陶淵明などに先例があり、漢詩を俳句に換骨奪胎した趣があるそうです**。


 暮春となり、今日は下弦の月のようですが、あいにく雨模様で、月と落陽の位置関係は調べられそうにありません。


   * 金田一春彦『ことばの歳時記』(新潮文庫)

    ** 藤田真一『蕪村』(岩波新書)




蕪村 (岩波新書)

蕪村 (岩波新書)

  • 作者: 藤田 真一
  • 出版社: 岩波書店
  • メディア: 新書 

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読み比べも楽し [読書]

 本箱をひっくり返していると、以前に買ったウィリアム・サロイヤン『わが名はアラム』(清水俊二訳 晶文社)が出てきました。いつ買ったのか見てみると、1983年8月でした。大学生の頃に読んだと思っていましたが、どうもこれではなかったようです。


 先日来読んでいる『僕の名はアラム』(2016年 柴田元幸訳 新潮文庫)と読み比べてみました。例えば「サーカス」という短篇の冒頭を並べてみます。


 < サーカスが町にやって来るたび、僕と僕の長年の友だちジョーイ・レンナはもう豚みたいに駆け回った。塀や空っぽの店のウィンドウに看板を見ただけで二人ともまるっきり見境なくなって、勉強も放り出した。(柴田元幸訳) >


 < サーカスが私たちの町へ始終やってきたころ、私と私の仲間のジョーイ・レナの二人はサーカスがやってきたということだけでもう夢中になってしまった。板塀や空家にはられたビラを見ただけで、私たちは学校へ行くことを忘れて、不良児童の仲間にはいった。(清水俊二訳 >


 原文を見ていないので、二人の訳語の違いがどこから来ているのかは不明です。柴田訳はきっちり過不足なく訳している感じで、清水訳は簡潔で分かり易いようです。


 清水俊二(1906-88)は映画字幕の草分けで、約2000本の映画に字幕を付けたそうです。字幕は観客に一瞬で理解されなければなりません。そんなテクニックが彼の訳文には仕組まれているのかも知れません。彼はレイモンド・チャンドラー『長いお別れ』などの翻訳でも知られています。


 「スーパー字幕と漢字制限」*というエッセイで、清水俊二は、< スーパー字幕はたいてい一行が十字から十一字ということになっている。一行をぜんぶつかった字幕、あるいは二行にわたっている字幕になると、文字を一字ずつ読まないと意味がわからないが、七、八字ぐらいまでの字幕なら、文字を読まないでも、字幕を見ただけでどんなことがかいてあるかがわかる。 > など字幕の苦労や技術を書いています。彼の翻訳にはどうしたら分かり易くなるかという職業的な習性が染みついているのでしょう。


 柴田元幸と清水俊二の翻訳には 75年の時間が経っています。読み比べていると「牧師」が「司祭」になっていたり、「校長」が「おやじ」に変わっていたり、時代の変化など種々の違いが発見されます。翻訳の達人たちの工夫を読み解くのも読書の楽しみといえるかも知れません。


  *清水俊二『映画字幕は翻訳ではない』(戸田奈津子・上野たま子[編]早川書房)



「わが名はアラム」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2017-02-21


わが名はアラム (ベスト版 文学のおくりもの)

わが名はアラム (ベスト版 文学のおくりもの)

著者:ウィリアム・サロイヤン


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夢の時間 [読書]

 少年時代には、両親が生きていて、兄弟が居て、おじいさん、おばあさんも健在で、おじさん、おばさんが近所に住んでいて、いとこ達とは毎日のように遊んでいた、今から思えば夢のような時代でした。


 おじさんの中にはどことなく世間離れした人もいて、親達とは少し軋轢がある雰囲気を子供ながら感じるのですが、そんなおじさんが子供にとっては楽しいのです。星座に詳しかったり、写真に凝っていたり、知らない世界を開いてくれます。


 祖父と祖母は、それぞれ別の部屋で暮らしていて、それぞれに小遣いをくれたりします。仲がいいのか悪いのか子供には分かりません。


 兄弟はもちろんケンカをします。母親は説教をします。兄は嫌々ながらかも知れませんが、自転車の後ろに乗せて、映画館に連れていってくれたこともあります。


 年の近い従兄弟とは兄弟よりも頻繁に遊びます。従兄弟にはやや遠慮があるので、兄弟で遊ぶより円満にことが運びます。


 こんなことを思い出したのは、ウィリアム・サローヤン『僕の名はアラム』(柴田元幸訳 新潮文庫)を読んでいるせいです。大学生のころ清水俊二訳『わが名はアラム』(晶文社)を読んだ記憶があるのですが、数年前に柴田元幸による新訳が出たので買っておいたのです。


 カリフォルニア州フレズノに暮らすアルメニア人移民一族の愉快で楽園的な日常世界を、アラム少年の目で綴った連作短篇集です。


 < 僕が九歳で世界が想像しうるあらゆるたぐいの壮麗さに満ちていて、人生がいまだ楽しい神秘な夢だった古きよき時代のある日、僕以外のみんなから頭がおかしいと思われていたいとこのムーラッドが午前四時にわが家にやって来て、僕の部屋の窓をこんこん叩いて僕を起こした。 > と物語は始まります。「情けないおじさん」や「癇癪持ちのおじいさん」、「史上ほぼ最低の農場主であるおじさん」などが次々に登場します。心地よい「お話し」の世界が広がります。


 W.サローヤン(1908-1981)はアルメニア人移民の子供としてカリフォルニア州で生まれます。1911年、父親が死に、彼は兄弟と共に孤児院で育ちます。小説のような牧歌的な子供時代を過ごした訳ではないようです。12歳のとき、モーパッサンの短篇「乞食」を読んで衝撃を受け、作家になろうと決めたそうです。


 < アラム、とムーラッドは言った。/僕はベッドから飛び出して窓の外を見た。/僕は自分の目が信じられなかった。/まだ朝ではなかったけれど、夏だし夜明けもすぐそこまで来ていたから、夢ではないとわかるだけの明るさはあった。/僕のいとこのムーラッドが、美しい白い馬の上に座っていたのだ。 >


 読む手を休め、現実を見れば、わたしの祖父母、両親、おじさん、おばさんの多くは既になく、いとこや兄弟も何人かはこの世から退場しています。子供時代の世界は既に壊れています。いつまでも続くように感じていた”あの時代”は、いっときの夢の世界だったんだと追憶します。そして今や、わたしが一家の「訳の分からないおじいさん」の位置にいます。やんぬるかなです。


#「いとこというおかしみ」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2018-10-09

#「ぼくの叔父さん」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2014-09-10



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詩人の思い出 [読書]

   青年のころに詩に興味をもった人は多いかも知れません。立原道造の詩もよく読まれていました。『我が愛する詩人の伝記』(講談社文芸文庫)で室生犀星は、< 立原道造の思い出というものは、極めて愉しい。 > と書いています。追分で暮らしていた立原は軽井沢の犀星の家によく来ていたそうです。


 < 私の家を訪れる年若い友達は、めんどう臭く面白くない私を打っちゃらかしにして、堀辰雄でも津村信夫でも、立原道造でも、みんな言いあわせたように家内とか娘や息子と親しくなっていて、余り私には重きをおかなかった。茶の間で皆が話をしている所に、突然這入ってゆくと皆は私の顔を見上げ、面白いところに邪魔者がはいって来た顔付をして、お喋りをちょっとの間停めるというふうであった。 >


 < 立原道造は、顔の優しいのとは全然ちがった、喉の奥から出る立派な声帯を持っていた。話し声や笑い声はすでに大家の如き堂々たる声量を持っていて、時々、私はその立派やかな太い声に、耳を立て直すことがあった。 > 立原はその詩語の繊細さや、写真で見る細面の顔つきとは、少しイメージの違う声だったことが知られます。


   「のちのおもひに」 立原道造


  夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に

  水引草に風が立ち

  草ひばりのうたひやまない

  しづまりかへつた午さがりの林道を


  うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた

  ーーーそして私は

  見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を

  だれもきいてゐないと知りながら語りつづけた・・・

                      (後略)


 ある夏の日の朝、立原が女の人を連れて、犀星の家にやって来ました。戸隠にいる津村信夫を訪ねがてら、しばらく戸隠に滞在するのだとのことでした。< 私は毛布二枚を抱えて、離れに立原と、娘さんとをあんないし、障子をぴたりと締め切り、女中に茶の盆と鉄瓶とをはこばせた。(中略)/女の人は立原の言うことにうなずくだけで、話らしい話はしなかった。どの程度の深さがつきあいにあるのかも、わかりにくかった。ただ、この小がらで地味な、人のこころをすぐに捉えそうに見えるすがたは、立原がたくさんに示さなくともよい愛情を、全部うけとめているふうだった。 >


   「序の歌」


  しづかな歌よ ゆるやかに

  おまへは どこから 来て

  どこへ 私を過ぎて

  消えて 行く?

      (後略)


 < この長躯痩身の詩人がたった二十六歳で死んだことは、死それ自身もあまりに突飛で奇蹟的だ、絶えず微笑をもらし、軽い大跨に歩いた立原がつねに死に対(むか)ってからかい乍ら歩いたものに思えた。 > あの娘さんが、< 中野療養所で昭和十四年三月に亡くなるまで、立原に付添って看護をしてくれた。 >


 #「想いはめぐる」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2019-01-15

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