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失われた世代 [読書]

 ヘミングウェイの小説『日はまた昇る』の巻頭には


 「あなたたちはみんな、自堕落な世代((ロスト・ジェネレーション)なのよね」

               ーーーガートルード・スタインの言葉


という一文が記されています(高見浩訳 新潮文庫)。lost generation って自堕落な世代ということなのかと驚きました。一般には「失われた世代」と言われているように思っていたのですが、つまり、第一次世界大戦後の 1920年代に活躍しだしたヘミングウェイやフィッツジェラルドなどの作家たちを表す言葉として。


 しかし、以前から「失われた世代」って何が失われたんだろうと意味がよく分かりませんでした。


 調べてみると、ヘミングウェイは lost generation という言葉の由来について、パリでの生活を回想した『移動祝祭日』(高見浩訳 新潮文庫)の中で、こんな風に書いていました。


 <ミス・スタインがあの ”ロスト・ジェネレーション” に関する発言をしたのは、(中略)彼女が当時使っていた古い T型フォードのイグニッションが故障したことだった。その修理に出した自動車整備工場の若い整備工は第一次大戦の最後の年に従軍した経歴の主なのだが、ミス・スタインのフォードの修理にあたって何か手際が悪かったのか、もしくは他の車より先まわしにしなかったのだろう。ともかく彼は真剣じゃなかったというので、ミス・スタインの抗議を受けた整備工場の主人からきつく叱られた。「おまえたちはみんな、だめなやつら(ジエネラシオン・ペルデユ)だな」と主人は言ったという。/「あなたたちがそれなのよね。みんなそうなんだわ、あなたたちは」ミス・スタインは言った。「こんどの戦争に従軍したあなたたち若者はね。あなたたちはみんな自堕落な世代(ロスト・ジエネレーシヨン)なのよ」>


 訳者によればフランス語の perdueは perdre(失う)の過去分詞なのですが、perdreには「堕落させる」という意味もあるそうです。ミス・スタインは perdueを英語の対応する言葉  lostに翻訳して英語で言ったのです。訳者はそれで「自堕落な世代」と意訳したようです。


 自動車整備工場主が口走ったフランス語、それを英語に訳したミス・スタイン、それを翻訳した日本語、伝言ゲームのようにして「失われた世代」は誕生したようです。


 ちなみに『新英和中辞典第5版』(研究社)では、lost generation 失われた世代《第一次大戦時代の社会混乱に幻滅し、人生の方向を失った世代》と、もっともらしく説明されていました。


 日本ではバブル崩壊後の就職氷河期世代をロスト・ジェネレーションと呼ぶようですが、これもやはり「人生の方向を失った世代」という意味なんでしょう。


 翻訳というのは難しく、奥の深い問題を抱えているようです。

 




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小説と映画の微妙な関係 [読書]

 「読んでから見るか 見てから読むか」というコピーがありましたが、5月の毎日新聞の書評欄に、菅野昭正『小説と映画の世紀』(未来社)という本が取り上げられていました。評者の川本三郎が<本書は、二十世紀という時代をとらえた壮大な文化誌にもなっている。>と書いていましたので、取り寄せて読んでみました。


 20世紀に書かれた小説を原作とする映画 12本について、フランス文学者の著者は原作を時代背景を含めて読み込み、それがどんな風に脚色され映画になっているか、詳細に分析しています。小説にあって映画にない部分、映画にあって原作にない場面など、よく調べているなと感心させられます。原作となった小説は以下の 12作です。


 トーマス・マン『ヴェネチアに死す』

 F.カフカ『審判』

 B.パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』

 E.M.フォースター『インドへの道』

 P.D.ラ・ロッシェル『ゆらめく炎』

 E.ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る』

 M.デュラス『愛人』

 A.カミュ『異邦人』

 G.グリーン『第三の男』

 A.バージェス『時計じかけのオレンジ』

 M.クンデラ『存在の耐えられない軽さ』

 U.エーコ『薔薇の名前』


 なんとも魅力的なラインナップです。若い頃に読んだ小説、観た映画、読んだことも観たこともないものもありますが、話題になったものばかりです。


 フランス文学者である著者は邦訳の『ドクトル・ジバゴ』以外は原作をフランス語、英語またはフランス語訳で読んだというのは驚きです。文章は誠実ですが、やや高踏的で、少し持って回った言い方が多く、授業を拝聴している気分になります。読み終えて、勉強になったなァという思いです。


 <ルキーノ・ヴィスコンティ監督の演出による『異邦人』が公開されたのは、一九六七年のたしか秋も深い頃だった。当時、私はパリで暮らしていたが、これは見逃してはならないと思って、さっそくモンパルナッス駅近くの映画館へ出かけた日のことは、半世紀以上も経ったいまでもよく覚えている。>


 本邦での公開は 1968年で、わたしはその頃、地方都市の大学生で、カミュの『異邦人』がマストロヤンニ主演で、映画でどんな風に表現されるのだろうかと、興味を持って街中の映画館に入りました。


 <映画の表現性の特質を生かした変奏をいくつか加えながら、ヴィスコンティの演出が小説への忠実さを基本にしていたのは疑う余地がない。しかしながら、それはテクストの表層への忠実さの域に留まっていて、もっと深いところまで届いているかどうか、疑問としなければならない。(後略>


 わたしは映画を観終わって、「これはちがう・・・」という感想が湧いてきたのを思い出します。何か残念な、物足りない気持ちになりました。本書の著者の記述を読みながら、「そうだよなァ」と相槌をうちます。


 映画にしろ本にしろ音楽にしろ、他人の感想を聞かせてもらうのは、大きな楽しみです。また、戦争や革命に彩られた20世紀という時代を 12作の原作小説と映画化で振り返るというのは、趣向を凝らした試みです。




小説と映画の世紀

小説と映画の世紀

  • 作者: 菅野 昭正
  • 出版社: 未来社
  • 発売日: 2021/04/23
  • メディア: 単行本


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芭蕉の手紙 [読書]

 9月になり日暮れが早くなりました。ランドセル姿のこどもたちが家の前の道を通っています。夏休みも終わりです。


 季節が変わりだしていますが、ここ1年近く何処にも出かけていません。8月にあった兄の法事も緊急事態宣言下で欠席しました。どこまで続くぬかるみぞ・・という気分です。


 生活は午前中に少し体操をし、本を読みます。午後には朗読と音楽を聴き、ときに散歩をします。単純な暮らしです。


 手元にあった松尾芭蕉の文集*を見ていると、芭蕉が曾良に宛てた手紙が出ていました。奥の細道の旅で同行した5年後の、元禄7年のものです。芭蕉は5月11日に江戸を立ち、東海道を西上しました。曾良は箱根山麓まで見送ったようです。


<・・・箱根山のぼり、雨しきりになり候て、一里ほど過ぎ候へば、少し小降りになり候あひだ、畑[宿場]まで参り、小揚[人夫]に荷を持たせ候て、宿(しゅく)まで歩行いたし候て、下り、三島まで駕籠かり、三島に泊まり候。十五日の晩がた、島田いまだ暮れ果てず候あひだ、すぐに川[大井川]を越え申すべくやと存じ候へども、松平淡路殿[阿波藩主]金谷[対岸の宿場]に御泊り、宿も不自由にあるべくと、孫兵衞[川庄屋・俳人]かた訪れ候へば、是非ともにと留め候。(後略)>

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  (2019年7月 島田宿跡の大井川)


 江戸時代の東海道のようすが偲ばれます。曾良も小田原過ぎまで見送りに来るとは、現在とは感覚が異なっています。しかし、これが二人の別れとなります。


 芭蕉は9月になって大坂で悪寒、発熱、次いで下痢が続き 10月12日に他界します。29歳で郷里・伊賀上野から江戸に出て、51歳の帰郷でした。かけめぐった一生だったのでしょう。


  旅人とわが名呼ばれん初しぐれ


 *『新潮日本古典集成 芭蕉文集 富山奏 校注』(新潮社)



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秋の風 [読書]


 今年の夏は天候が不順です。やっと青空がのぞくようになったと思えば、庭に萩が咲き、もう秋の気配です。


 陽暦8月28日、『奥の細道』の旅で松尾芭蕉は富山県高岡に着いています。「翁、気色不勝。暑極テ甚。」と同行の曾良は旅日記に書いています。芭蕉は熱中症気味だったのかも知れません。しかし翌日には金沢へ出発し、金沢には9月6日まで滞在しています。その間に、芭蕉は回復したようですが、曾良は宿で寝込んでしまいます。*


   あかあかと日はつれなくも秋の風 (芭蕉)


 残暑の陽光をあびて歩いている感じが出ています。


 丸谷才一は『古今集』の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(藤原敏行)」を取りあげ <歌人たちはこのせいで、夏から秋への変化を風に見出だし、それもできるだけ微妙なところ、意外なところに違ひを求める腕くらべをはじめたのである。> と記しています(『新々百人一首』新潮社)。


 後の世の俳句の世界でもそんな腕くらべが楽しめます。


  秋風や眼を張って啼(な)く油蝉 (渡辺水巴)


  蜻蛉(とんぼう)の四枚の薄羽(うすば)秋の風 (阿部みどり女)


  でで虫が桑で吹かるる秋の風 (細見綾子)


 ことばの工芸のようなものです。しかし、だからどうした、瑣末なことではないか? という問いが、感心しながらも頭をよぎります。


 9月7日、金沢を出た芭蕉たちは、4ヶ月にわたる長旅に疲れたのでしょう、山中温泉に8泊しています。


  石山の石より白し秋の風 (芭蕉)


 芭蕉には「秋の風」をどう詠むか、瑣末さを突き抜けようとする意志が感じられます。5年前の『野ざらし紀行』では巻頭に、


  野ざらしを心に風のしむ身かな


を置き、<富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の哀れげに泣く有り。(中略)袂(たもと)より喰物投げて通るに、>


  猿を聞く人捨子に秋の風いかに**


と詠み、、<ただこれ天にして、汝が性(さが)の拙(つたな)きを泣け。> と記しています。芭蕉にとって「秋の風」は単なる風ではなかったように思われます。



  *金森敦子『芭蕉はどんな旅をしたのか 「奥の細道」の経済・関所・景観』(晶文社)


  **(富山奏校注 『新潮日本古典集成 芭蕉文集』頭注)<哀猿(あいえん)の声にすら断腸の思いを懐(いだ)く詩人らよ。あなたがたは、秋風の中に命絶えんとして泣いているこの捨子の声を、何と聞くか>古来、漢詩に、猿の声は断腸の思いをさせるものとする。当時は貧困や飢餓などによる捨子が珍しくなかった。





芭蕉はどんな旅をしたのか―「奥の細道」の経済・関所・景観

芭蕉はどんな旅をしたのか―「奥の細道」の経済・関所・景観

  • 作者: 金森 敦子
  • 出版社: 晶文社
  • 発売日: 2000/10/25
  • メディア: 単行本

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海人の足跡 [読書]

   瀬戸内海の島で育った子供の頃、村の祭りといえば地域ごとに「だんじり」を引き出して八幡神社に集まりました。他の地域はみんな「ふとんだんじり」で、屋根の上に赤い布団のようなものを数段乗せた形でしたが、わたし達の地域のは「船だんじり」で船の形をしていました。神輿を担いで海に入り、祭りの終盤には御旅所という村はずれの場所に集まり、選ばれた子供が「船だんじり」の舞台で三番叟を舞いました。今ではもう廃れてしまったようです。


 「だんじり」と言うのは関西以西だそうで、関東では「だし・山車」とよび、京都の祇園祭では「やまぼこ・山鉾」で、地域によって形も異なっています。


 中沢新一『アースダイバー 神社編』(講談社)を読んでいると、長野県安曇野の穂高神社では夏の大祭礼で、<各地区で大きな船の飾り物をつくり、氏子がそれを引っ張って町の中を練り歩き、最後に穂高神社の本社にいっせいに集合してくる> と記していました。なぜ、あんな山深いところで「船」なのかと思います。


 そもそも安曇野の人たちは、北九州にやって来た海人的倭人、アヅミ族の末裔なのだそうです。「海(アマ)に住む」ひとびとです。紀元前数世紀以前から、半農半漁の技術を携え、沿岸伝いに日本列島に拡がったそうです。アヅミ族の足跡は、安曇、安積、渥美、場合によっては泉、出水、伊豆見といった地名から窺い知れるとのことです。


 博多湾にある志賀島(しかのしま)はアヅミ族の聖地です。そこにある志賀海神社の宮司は古来、安曇家によって世襲されているそうです。


 村の祭礼の中にも人々の辿ってきた歴史が潜んでいると考えれば、何百年と続いてきた祭りがわたし達の世代で途絶えてしまうのは残念なことです。




アースダイバー 神社編

アースダイバー 神社編

  • 出版社: 講談社
  • 発売日: 2021/04/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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魚の泪 [読書]

 松尾芭蕉が『奥の細道』の旅に出立したのは、元禄2年(1689)3月のことですが、<千住といふところにて舟をあがれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。>


  行く春や鳥啼き魚の目は泪


 と旅は始まってゆくのですが、以前から「魚の目は泪」というのは何か変だなと、こころに引っ掛かっていました。魚は泪を流すのか? たとえとしても少し突飛ではないか・・・。


 先日来、丸谷才一『新々百人一首』(新潮社)という本を取り出して眺めていると、

  雪のうちに春はきにけりうぐひすの

     氷れる泪いまやとくらむ (二条后)

という古今集の歌をとりあげ、類歌を挙げて詳述していました。<鶯の泪が氷りかつ溶けるといふ詩的虚構がある。この優美な嘘、典雅な法螺話(ほらばなし)こそは一首の眼目であつた。> と書かれており、また、和歌の世界では泪を流すのはウグイスのみではないようで、


  かへる雁の夜半の泪や置きつらん

     桜つゆけき春のあけぼの (後鳥羽院)


      昔おもふ草の庵のよるの雨に

     泪なそへそ山ほととぎす (藤原俊成)

 

 そして獣も・・・


   秋萩にみだるるつゆはなく鹿の

      声よりおつる泪なりけり (紀貫之)


 さらには虫までも・・・


   秋の野の草むらごとにおく露は

      よるなく虫のなみだなるべし (曾禰好忠)


   秋ちかきけしきの森になく蟬の

      泪のつゆや下葉そむらん (藤原良経)


 という風に、いろんなものが泪を流しているそうです。そこで『奥の細道』です。行く春を惜しみ、また前途三千里、見送る人との別れの時、鳥は啼き、そして魚が泪を流す。芭蕉は王朝和歌の伝統を踏まえ、かつ「魚の泪」とすることで俳諧的にひねっている、という主旨のことを丸谷才一は書いています。なるほどと膝を打つ思いです。


 この句で他に、少し気になるのは、芭蕉の支援者で、深川の芭蕉庵の持ち主でもあった杉風という人が魚問屋の主人であることです。「魚の目は泪」には杉風への挨拶という側面もあるのかなと感じられます。


 詩歌はことばの遊びでもあり、こころの表現でもあり、他人への挨拶でもあり、重層的な構造を持っています。すぐれた評釈は詩歌の豊かな世界を照らし出してくれます。


 陽暦でいえば5月16日に江戸を出立した芭蕉は、今頃、8月上旬は秋田県にいます。<快晴。早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル。飯終テ立。アイ風吹テ山海快。暮ニ及テ、酒田ニ着。> と同行した曾良は旅日記に記しています(8月3日)。この日の旅程は46Kmでした。よく熱中症にならないものです。*


  *金森敦子『芭蕉はどんな旅をしたのか「奥の細道」の経済・関所・景観』(晶文社)




新々百人一首

新々百人一首

  • 作者: 丸谷 才一
  • 出版社:新潮社
  • メディア: 単行本

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小説を読み解く [読書]

   川本三郎が『『細雪』とその時代』(中央公論新社)という本を出したので、楽しみに読んでいます。谷崎潤一郎の小説『細雪』の世界を、色々の切り口から眺め、どんな時代であったか、どんな場所であったかと、小説の背景を解き明かす期待にたがわぬ読み物です。


 『細雪』は昭和 11年(1936)から 16年にかけての大阪、芦屋、神戸、東京などを舞台にした、大阪・船場の没落した旧家、蒔岡家の四姉妹を中心とした物語です。


 「船場」というのは <豊臣秀吉が大坂城を築城した時、商人たちを集めて作った町。東は東横堀川、西は西横堀川、南は長堀川、北は土佐堀川に囲まれ、碁盤の目のように整っている> 大阪では由緒ある商業地のことです。船場を南北に貫いているのが大通りの堺筋です。


 大正 12年(1923)の関東大震災の後、大阪は大正 14年には人口 211万人を数え、東京市を超え全国一となり、一大産業都市に発展します。昭和元年の全国総生産額では阪神工業地帯が 30.2%を占め、京浜工業地帯は 18.1%だったそうです。


 結果、大阪は煤煙の町となり、居住に適さなくなり、大きな商家では環境の良い郊外として、六甲山の麓、阪神間に居宅を移すようになったそうです。職住分離です。東京・日本橋生まれの谷崎も横浜に居て、大震災で被災し、関西に移住し阪神間に住むようになります。


 谷崎はそこで、隣家に住む船場の綿布問屋の夫人・松子と知り合い、結婚することになります。『細雪』は松子夫人たち四姉妹をモデルにして、昭和17年に書かれ始めます。話は内気な三女・雪子の見合い話と活発な四女・妙子の恋愛模様を中心に展開します。


 当時、神戸にはロシア革命(1917)を逃れてやってきた白系ロシア人が多くいたそうです。洋菓子の「モロゾフ」、「ゴンチャロフ」などはそんな人たちが開いた店です。『細雪』では四女・妙子と関わるカタリナというロシア人女性が出てきます。また次女夫婦の住む芦屋の家の隣人はドイツ人一家で、両家の子供達の交流と別れも描かれます。小説には南京町も登場し、海外に開かれた都市としての神戸が印象的に取り込まれています。


 川本三郎は丹念に証言を拾い集め、『細雪』の時代背景と場所の意味をジグソーパズルのように埋めてゆきます。四女・妙子は自立のために洋裁を習い始めますが、<大正十年には三越が女子店員に制服を定めるなどして、働く女性は洋服を着るという流れが作られていった。>という和服から洋服への移行の時代であり、ちょうど昭和 12年には、神戸市東灘区に「田中千代洋裁研究所」が出来ており、小説のモデルになっているそうです。


 映画批評家の淀川長治は神戸・新開地近くの生まれですが、姉が三宮で美術品店をしていて、若き日の淀川長治は店の手伝いをしており、谷崎もしばしば訪れていたそうです。また、三宮には谷崎が名付け親となった「ハイウエイ」というレストランがありましたが、そこの店主が実際の松子夫人の妹の恋人だったそうで、小説では四女・妙子の病死する恋人のモデルになっています。


  こんな話題が次々と出てきます。『細雪』は連載第2回で、「時局にそわぬ」として軍部により発表を停止させられますが、谷崎は疎開先を転々としながら、発表のあてのない原稿を書き継いでいたそうです。


 戦後、谷崎は「別冊文藝春秋」に「創作余談」として、<最初の考へでは、蘆屋の不良マダムの話をもつと入れる筈だつたが、時世がだんだん嶮(けわ)しくなつて、それを一切書くことが出来なくなつたので、極く甘いものになつてしまつた。その点私としては甚だ不満であつた> と書いているようです。時節によって、また違った『細雪』の可能性があったというのも面白い話です。




『細雪』とその時代 (単行本)

『細雪』とその時代 

  • 作者: 川本 三郎
  • 出版社: 中央公論新社
  • 発売日: 2020/12/08
  • メディア: 単行本

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計算がきり開く世界 [読書]

 先月の始め頃、毎日新聞の書評欄で養老孟司が森田真生『計算する生命』(新潮社)という本を取り上げ、<読み終わって、評者自身はまことにすがすがしい思いがあった。純粋にものを考えるとは、なんと気持ちのいいことか。> と書いていたので、どんな本だろうと取り寄せて読んでみました。


 著者の森田真生は 1985年生まれの在野の数学研究者で、2015年、『数学する身体』という著書で小林秀雄賞を受賞しています。今回の本は、<指を折って数えるところから、知的にデータを処理する機械が偏在する時代まで> の計算の歴史をたどり直すという内容です。


 数学とか計算といっても、若い頃の受験勉強や実験結果の統計処理くらいで、長いブランクがあります。この間、計算といえば専ら電卓のお世話になるばかりです。乏しい数学の知識を補充し、21世紀の計算の片鱗でも窺えればいいかと読み始めました。


 紀元前300年頃のギリシャのユークリッド幾何学が、 (1) a=b  (2) b=c  (3) ゆえにa=c という証明の論理とともに、12世紀になって、ルネサンスの西欧にもたらされたそうです。この演繹的証明法はカトリック教会の神聖な秩序の規範として、その世界観にも合致したようです。


 そもそも「数」とは何か?、は時代によって変化するようです。17世紀、フランスのパスカルは『パンセ』の中で「ゼロから4を引いてゼロが残ることを理解できない人たちがいる」と苦言を呈しているそうです。彼には「負数」という考えがなかったようです


 <パスカルの時代に数は、物の個数や長さ、面積などの「量」を表すという常識があった。そこではたとえば、「0−4=ー4」や「2−4=ー2」のような式は「無意味」だった。>そうです。 


 <数が「量」を表すと考える代わりに「位置」を表すとみなし、負数に幾何学的な解釈を与えるのが「数直線」のアイデアである。/0の右に向かって正数が一列に並び、0の左に向かって負数が並んでいく。こうして数が一直線上に整然と並ぶ「数直線」のアイデアが、ヨーロッパの書物に現れるのは意外なほど遅い。> 1685年の『代数学』という J.ウォリスの書だそうです。負数(マイナス)が受け入れられるようになりました。ちなみに代数とは数を記号に代えるという意味です。


 同じころ、もともと幾何学は定規とコンパスを用いて解くものであったのが、デカルトなどにより、代数学的に方程式で解くという新しい局面が開かれたそうです。


 また16世紀には「10を二つに分割し、その積が40になるようにするにはどうすればよいか」という問題に対する、(5+√(-15))と(5-√(-15))に分けるという解答や、三次方程式の解から「虚数(2乗すると負になる)」という新たな数が出現しました。しかし、虚数は数直線の上には居場所がありません。


 19世紀になってガウスらは、実数と虚数を合わせて「複素数 complex number」とし、複素数は x+yi(xとyは実数、i=√(-1) )と表せるとしました。


 これによって、複素数は実数を横軸、虚数を縦軸とする座標平面上の一点として場所を得ることになります。数は数直線上だけでなく二次元平面上にあることになり、数学は人間に新しい認識領域を示すことになりました。


 ここから以後はだんだん難しくなります。変数xを横軸に、関数の値 y=f(x) を縦軸に描けば、関数の様子を「グラフ」として平面に描き出すことができます。では、数が複素数のときにはどうなるか? 複素数は線上ではなく平面上にあるので、平面と平面をかけあわせた四次元空間に浮かぶ「グラフ」になるのだそうです。そうなのか、と虚空を見つめる気分になります。


 いずれにしても、「計算」というのはあらかじめ決められた規則に従って記号を操作して行われます。1936年、チューリングは「計算可能性 computability」の概念を体現する仮想的な機械として「チューリング機械」を考案しました。 <計算の秘めるとてつもない可能性は、その後、チューリング機械がコンピュータとして実装されたことで、誰の目にも明らかになっていく。>


 そして、「認知とは計算である」という仮説から人工知能の探求が始まります。結果、今では多くの人が手のひらの上にコンピュータをのせ、メールをチェックし、6時間後の天気を調べ、1ヶ月後のコロナ患者数予測を知り、10年後の平均気温を教えられています。足元では人を避けながら掃除ロボットが動き回っているかも知れません。


 著者は最後にこう書いています。 <人はみな、計算の結果を生み出すだけの機械ではない。かといって、与えられた意味に安住するだけの生き物でもない。計算し、計算の帰結に柔軟に応答しながら、現実を新たに編み直し続けてきた計算する生命である。>


 計算によって示された人類の余命を、人類の行いによって変更することはできるのか? そんなことが問われるのも、もうそんなに遠くはないかも知れません。








 

 

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本箱の隅で [読書]

 長年、本箱の隅に立っていた小林秀雄『本居宣長』(新潮社)を読んでみようと取り出して眺めてみると、昭和52年10月に出版されており、買ったのは翌年3月で既に12刷でした。607頁の大部で4000円もする本がよくもたくさん売れたものです。


 YouTubeで小林秀雄の講演を聴いてみると、まくらで鎌倉の行きつけの鰻屋のおかみさんが『本居宣長』を買ったので署名してくれと出してきたと言ってましたが、それほどよく売れたのでしょう。


 講演では内容を簡単にしゃべってくれと言われますが、そんなことはできゃしません、読んでもらわなきゃ、と語っています。それはそうでしょう。彼は「本居宣長」を昭和40年から12年間にわたり「新潮」に連載してきたのです。簡単にしゃべられる訳がありません。


 とりあえず1日20頁ほどずつ、家内に朗読してもらって聴くことにしました。目をつむっていると、家内がすぐ「この字は何と読むの」と訊いてきます。古文や漢文の引用が多く、見たこともない漢字や旧字体の連続です。そのつど家内はiPhoneで検索するようになり、そのうち予習しておいてくれるようになりました。


 どうにか1ヶ月で読みきりました。読み終わって最初に戻ってみると、今度は案外とすらすらと読めるようになっていました。何事にも馴れがあるのでしょう。ただ小林秀雄のうねるような文体に馴染むには時間がかかりました。現代にはこんな文章を書く人は稀でしょう。要旨はやはり簡単には書けないようです。


 <未だ文字がなく、たゞ發音に頼つてゐた世の言語の機能が、今日考へられぬほど優性だつた傾向を、こゝで、彼は言つてゐるのである。宣長は、言靈といふ言葉を持ち出した時、それは人々の肉聲に乗つて幸はつたといふ事を、誰よりも深く見てゐた。言語には、言語に固有な靈があつて、それが、言語に不思議な働きをさせる、といふ發想は、言傳へを事とした、上古の人々の間に生れた、といふ事、言葉の意味が、これを發音する人の、肉聲のニュアンスと合體して働いてゐる、といふ事、そのあるがまヽの姿を、そのまヽ素直に受け納れて、何ら支障もなく暮してゐたといふ、全く簡明な事實に、改めて、注意を促したのだ。>


 43年間、本箱で眠っていた小林秀雄の言霊が蘇ります。1978年といえば、わたしは20代最後の年で、7月には子供が生まれるという年でした。忘れていましたが、この本には1983年3月の小林秀雄の新聞訃報記事の切り抜きが挟んでありました。



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季節の句歌 [読書]

 今年は早い梅雨入りで、うっとうしい日が多いようです。巣ごもり状態だったうえ、たまの散歩もままなりません。気晴らしに『句歌歳時記 夏』(山本健吉編著 新潮社)を眺めています。


   五月雨(さみだれ)を集めて早し最上川 (松尾芭蕉)


      五月雨や大河(たいが)を前に家二軒 (与謝蕪村)

 

 芭蕉は川の力強さを主に詠っていますが、蕪村は水を恐れる人間に目が向いています。二人の資質の違いが際だっています。それでも芭蕉あっての蕪村という気がします。



  水の上五月のわかきいなびかり (大野林火)
 
 
      泰山木天にひらきて雨を受く (山口青邨)
 
 
  泰山木の句には「落ちざまに水こぼしけり花椿(芭蕉)」、「椿落ちてきのふの雨をこぼしけり(蕪村)」が意識されている気配があります。
 
         昼ながら幽(かす)かに光る蛍一つ
       孟宗の藪(やぶ)を出でて消えたり (北原白秋)
 
 
     なめくぢも夕映えてをり葱(ねぎ)の先 (飴山実)
 
 
     みじか夜や毛虫の上に露の玉 (与謝蕪村)
 
 
   小動物に視点を定めている人間の存在が浮かび上がります。虫を詠んでいるようで、それを観ている人のことが気になります。
 
         口をもて霧吹くよりもこまかなる
        雨に薊(あざみ)の花はぬれけり (長塚節)  
 
 
     青梅の臀(しり)うつくしくそろひけり (室生犀星)
 
 
   植物を眺める人は、虫を観る人に比べ、少し自足した雰囲気が感じられます。虫は作者の身代わりとなりやすいのかも知れません。
 
 『句歌歳時記』は山本健吉が「週刊新潮」に昭和 31年から連載した囲み欄「句歌歳時記」の 30年分を四季別に四巻に編集したものです。季節に因んだ俳句と和歌・短歌のアンソロジーとなっており、季節のものを机上に置いておけば三ヶ月楽しめます。いつのまにか三十年来の愛読書となっています。
 
 

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