SSブログ

落語家の世界 [読書]

 落語の実演といえば、20年以上前に新宿末廣亭に入ったことがあるのと、桂米朝・小米朝の落語会に行った憶えがあるだけです。こどもの頃はラジオやテレビで、落語や浪曲、講談をよく聴きました。金馬、円生、小さんなどのほか名前も忘れた多くの芸人が出演していました。



 こどもにとって「いかけ屋」とか「饅頭こわい」などは分かりやすく、人間の生態が生々と捉えられていて愉快でした。八っつあん、熊さんの世界は破天荒で、それでいて楽園のようで、枕元のラジオから聞こえてくる話芸の楽しさに浸りました。



 立川談春『赤めだか』(扶桑社)は、”いかにして落語家になったか”という落語のようなお話です。立川談春は昭和41年、東京生まれで、子供のころから父親について戸田競艇場に通っていたそうです。競艇選手になりたかったのですが、養成所へは身長170センチ以下でなければ入れず断念したそうです。


 

 中学生のとき図書室で落語全集を読み興味を持ち、卒業間近のころ、上野鈴本へ行き、立川談志を聴き魅せられます。高校では落研を作り、人前で話す楽しさを覚えます。そして、国立演芸場で談志の「芝浜」を聴きショックを受けたそうです。



「芝浜」というのは、裏長屋住まいの魚屋が、芝の河岸で革の財布を見つけるというところから始まる人情噺です。談志の「芝浜」の評判を聞き、わたしも CDを買って聴いた覚えがあります。まだYouTubeなどなかった昔です。



 佐々木少年(談春)は談志の家を訪れ、弟子入りを乞う。



 < 君の今持っている情熱は尊いものなんだ。大人はよく考えろと云うだろうが自分の人生を決断する、それも十七才でだ。これは立派だ。断ることは簡単だが、俺もその想いを持って小さんに入門した。小さんは引き受けてくれた。感謝している。経験者だからよくわかるが、君に落語家をあきらめなさいと俺には云えんのだ。(後略)」/「(前略)弟子になる覚悟ができたら親を連れ、もう一度来なさい。」>



 生きていくうえで、誰でもが何らかの判断をしたり、また、できなかったりしながら、日々を暮らしていくものですが、佐々木少年と立川談志の出会いには、その後の生き方を決めるような輝きがあります。



 新聞配達をしながらの前座生活、築地場外の焼売屋での修行などが面白おかしく語られます。無茶苦茶を耐え、受け入れる暮らしから落語家が生まれるようすがおぼろげに垣間見られます。そういえば、わたしの大学時代の先生が「教育とは無茶苦茶であります」と口癖のように言っていたのを思い出しました。





赤めだか

赤めだか

  • 作者: 立川 談春
  • 出版社: 扶桑社
  • メディア: ハードカバー

nice!(23)  コメント(8) 
共通テーマ:日記・雑感

肉ジャガの歴史 [読書]

 日本には江戸時代から、脚気(かっけ)という病気がありました。足がだるく、むくみ、動悸がし、心臓麻痺となる。江戸、大坂などの都会に多く、「江戸わずらい」とよばれました。将軍も家光、家定、家茂が脚気で亡くなったそうです。



 吉村昭『白い航跡』(講談社)は、脚気の原因解明に寄与した高木兼寛(たかきかねひろという人物の伝記小説です。兼寛は嘉永2年(1849)、日向国(宮崎県)に大工棟梁の子として生まれています。鹿児島で蘭方医に学び、幕末には薩摩藩の軍医として戊辰戦争に従軍しています。



 戦争のなかで、蘭方医が銃創などには手をこまねるばかりなのに対し、西洋医が果断に切開、切断などの処置で、戦傷者を救っているのを見て、兼寛に西洋医学への渇望が生まれます。



 帰郷後、鹿児島でイギリス人医師に学び、招かれて東京の海軍病院に勤めることになります。そこで見たのはおびただしい脚気患者でした。明治11年には海軍総兵員数4,518名でしたが、脚気患者数は1,485名にものぼり、兵員の32.79%にもなり、死亡者数32名でした。こんな状態が続いていましたが、西洋には同様の病気はなく、原因不明の日本の風土病と考えられていました。



 明治8年(1875)から5年間、兼寛は推薦されロンドンのセント・トーマス病院に留学しました。イギリスに脚気はありませんでした。



 帰国後、兼寛は脚気の発生状況を調べるうちに、軍艦「筑波」の練習航海の記録に注目しました。「筑波」は明治11年、オーストラリアへ7月間の練習航海に出かけていますが、航海中、乗組員、生徒計146名中47名が脚気になっていました。患者の発生状況を調べてみると、航海中と停泊中にはっきりと差があり、シドニー停泊中には患者は発生していなかったのです。停泊中の行動を聞き調べてみると、乗組員たちは交代で上陸し、名所見物などをし、現地の食物を食べていたのです。



 食事の違いに注目した兼寛は、兵員の食事状況を調べます。当時、海軍では食事代を支給し、白米は一括購入して、各自が分担金を払い、残金で副食物を買うという仕組みになっていましたが、調べてみると雑穀を食べていた地方出身者が多い水兵は、白米が食べられるのに満足し、副食用の金銭を貯蓄したり、故郷へ送金したりしているのでした。



 イギリスで栄養学を学んでいた兼寛は、脚気の原因が炭水化物が主で蛋白質が極端に少ない食事にあるのではないかと考え、兵食の改革に取り組みます。パンと肉類に変えようとしますが、受け入れられず、白米に麦を混ぜ、肉類を副食に供しました。この疫学的な調査から導かれた対策により、海軍では脚気患者は激減しました。



 しかし、陸軍では軍医総監・森林太郎(鷗外)をはじめとして、ドイツ医学が主流で、当時、コッホらが次々と病原菌を発見して脚光を浴びており、脚気も未知の病原菌による伝染病と考えられていました。



 その結果、明治37-8年の日露戦争では、海軍では軽症者が幾分でたものの、重症者は無かったのに対し、陸軍では戦死者約47,000名で、脚気患者211,600余名に達し、27,800名が脚気で死亡するという惨状でした。



 明治43年(1910)に農学者の鈴木梅太郎が、ニワトリ、ハトを白米で飼育すると脚気と同じような症状になり、米ヌカを与えると予防できることを見い出しましたが、注目されませんでした。



 1911年、ポーランドのフンクが米ヌカから有効成分を見つけ、翌年、ビタミンと命名しました。こうして脚気の病因がビタミンB1欠乏症であることが明らかになっていきます。



 疫学的な調査から、脚気の原因が食事にあることを推測し、兵食を変えることで海軍から脚気を撲滅した高木兼寛の業績は案外知られていません。病原菌説に固執した陸軍では日清・日露の戦争で多数の脚気による死者を出しており、傷ましい限りです。現代でも同じようなことがあるのではないかと思われます。吉村昭の小説はよくここまで調べたものだと感心させられます。有名な海軍の「肉ジャガ」はそんな歴史の片鱗だったのかも知れません。



#「お稲を継ぐ人たち」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2021-01-06



白い航跡〈上〉

白い航跡〈上〉

  • 作者: 吉村 昭
  • 出版社: 講談社
  • メディア: 単行本

nice!(21)  コメント(8) 
共通テーマ:日記・雑感

新聞書評の楽しみ [読書]

 いつも何かおもしろい本はないか? と思っている人間にとって、週末に新聞の書評欄を眺めるのは楽しみのひとつです。最近は書店へ出かけて、棚を見て回るのが億劫になって、読む本がきれると、自宅の本棚から、未読本を探していましたが、それも種切れぎみです。



 新聞で紹介される本も、最近は歳のせいか、興味がそそられるのが少なくなって、困ったものだと思っています。



 先週の毎日新聞の書評欄「今週の本棚」では、星野太『食客論』(講談社)にちょっとこころが動きました。紹介者の永江朗は < 古今東西、傍らで食べる寄生者 > についての話と要約していました。わたしも日頃、食客のような存在と自覚していたので、興味をもよおしたのかも知れません。



 今週は、『つげ義春 流れ雲旅』(朝日新聞出版)というのが紹介されていました。1969-70年に漫画家のつげ義春が編集者と写真家とともに出かけた旅の記録に、その後の旅を加えて復刊したのだそうです。東北、四国、九州などを巡っているようです。どうと言うこともない本なのでしょうが、つげ義春の絵や言葉が楽しめそうです。



 あの時代、わたしも東北や九州へ流れ雲のような旅をしました。振り返れば、こどもから大人への脱皮の時期だったのでしょう。



 また、村上春樹の新作『街とその不確かな壁』(新潮社)について、二人の評者が論評していました。わたしは 1980年代以後、彼の新刊が出るたびに読んでいましたが、ここ十年程は遠ざかってしまいました。自分にとって彼の小説が身に沁むものでは無くなった気がします。また読むことがあるのか不明です。



 人によって本への興味はさまざまなので、新聞で紹介する本を選ぶのも大変でしょう。読者としては、好みの近い書評者が何人かいるもので、今週はどんな本を紹介してくれるのかと楽しみに待つことになります。



#「今年の「この3冊」」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2022-12-17


つげ義春 流れ雲旅

つげ義春 流れ雲旅

  • 出版社: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2023/01/20
  • メディア: 単行本

 


nice!(26)  コメント(6) 
共通テーマ:日記・雑感

時代の条件 [読書]

 新聞の書評欄を見ていると、梶井基次郎『城のある町にて』のことが取り上げられていたのですが、そういえば『檸檬』とか『櫻の樹の下には』は記憶にあるのですが、これは読んだ覚えがないので・・・本箱のどこかに文庫本か何かが有るかもしれないとしても、目の具合もあり、Kindleで「青空文庫」のを読んでみました。



 小説は寝転がって読むことが多いのですが、ノートPCではそうもいかず、首や肩が凝ってきます。短篇なのでなんとか読了できましたが、長篇はとても無理です。タブレットなら少しはましかもしれませんが、画面が小さく目が疲れそうです。



 『城のある町にて』は三重県の松阪が舞台になっています。わたしは松阪へは一度行ったことがあるのですが、夜だったので、城跡も町のたたずまいも記憶にありません。梶井基次郎は明治 34年(1901)に大阪市で生まれていますが、松阪は姉の嫁ぎ先でした。1924年、可愛がっていた異母妹が結核で急逝し、自らも結核に罹り、姉の勧めで養生がてら松阪に行ったようです。



< 今、空は悲しいまで晴れていた。そしてその下に町は甍(いらか)を並べていた。>



 少し硬質な文章で、姉夫婦一家との日々がスケッチされます。穏やかな暮らしのなかで喪失感が薄らいでいくようです。



 戦前の青年たちには結核という病気が身近でした。時代を象徴する病気とも言えます。わたしは戦後生まれですが、小学校の帰り道で、近所の人から「おまえの家は結核筋や」と言われたのを憶えています。



 抗生物質の発見やワクチンの開発によって、感染症が表舞台から去り、寿命が伸び、表面に出てきたのがガンで、そんな時代をわたしたちは生きてきました。



 今回の新型コロナのパンデミックは、克服されたと思っていた感染症の逆襲でした。感染症はコントロールされているわけではなく、最近でもサル痘とか小児肝炎などが次々に出現しています。新しい時代にさしかかっているのかも知れません。



 話がそれましたが、20世紀初頭を生きた梶井基次郎は、昭和 17年( 1932)に結核で他界しました。31歳でした。時代の条件のなかで、生きた青年の感慨が綴られていました。



< 今日も入江はいつものように謎をかくして静まっていた。/ 見ていると、獣のようにこの城のはなから悲しい唸(うなり)声を出してみたいような気になるのも同じであった。息苦しいほど妙なものに思えた。(後略)/ 「ああかかる日のかかるひととき」(後略)>




 それにしても、昭和生まれの人間としては、小説は紙媒体で、寝転がって読みたいものですが、もうそんな時は来ないのかと思うと、呆然とします。





城のある町にて

城のある町にて

  • 作者: 梶井 基次郎
  • メディア: Kindle版

nice!(26)  コメント(8) 
共通テーマ:日記・雑感

「からだ」はどう扱われたか [読書]


 世の中は、ますますヴァーチャル・リアリティが幅を利かせ、AIがいろんな分野に浸透しています。人間の脳が作り出した産物が人間を支配しつつあるようです。身体もデータに置き換えられ、画像化されます。思い通りにはならない自然の身体は見えにくくなっているようです。



 『身体の文学史』(新潮社)は、解剖学者の養老孟司が明治以降の小説において、身体がどう扱われてきたかを考察した本です。わたしなりに要約すれば、江戸時代以来の日本社会は隅々まで制度で管理され、本来、肉体的な兵士である武士も、行政職となり、身体は流派の型や所作として管理された。著者はそれを「脳化社会」と呼んでいます。



 明治になっても、森鷗外や夏目漱石には自然としての身体は意識されることなく、テーマは”こころ”であった。



 < 意識的なものとして、身体の役割が最初に文学に登場するのは、芥川[龍之介]であろう。(中略)/ 芥川に登場する身体は、ある特徴を持っている。それは主人公を引きまわすのである。『鼻』および『好色』は、その好例であろう。(中略)身体という主題に関して、芥川自身の態度を示すのは、『羅生門』である。ここに登場する下人は、死人の髪を抜いてかつらを作る老婆をけ倒して、いずこともなく去る。この下人の気持ちは、芥川の気持ちであろう。この芥川の感情は一般的な日本人の感情であり、脳死臓器移植問題の議論に、そのままの形で、いまだに表現され続けている。>





 昭和になると戦争が始まる。「腹が減っては戦はできぬ」というのが人間の自然ですが、「軍隊はシャバとは違う」として身体は規則に縛られる。戦場の身体として、ここでは大岡昇平の『野火』、『俘虜記』が取り上げられています。



< 比島のジャングルで死にそうな目にあっても、俘虜になっても、大岡昇平は折り目正しい。その規矩は無意識的に世間によって涵養された。(中略)『野火』の主題は人肉食であり、主人公は自分個人の決断で人肉を食べない。その背後にあるのは大岡昇平の規矩なのだが、私にはそんなものはないというしかない。(後略)>



 そして、深沢七郎と三島由紀夫が取り上げられます。深沢七郎は『楢山節考』について、「残酷だと言われたのも意外だが、異色だと言われたのも意外だ。もっと意外なことは、何か、人生観というようなことまで聞かされたのは意外だった。あんなふうな年寄りの気持ちが好きで書いただけなのに、(変だな?)と思った。」と書いているそうです。この小説が中央公論新人賞に選ばれた時の審査員であった三島由紀夫は『楢山節考』について、「ゆうべは怖い小説を読まされて、眠れなかった」と言い、選評でも、耐えがたく怖いと述べる。



 養老孟司は、< そこに歴然と表れるのは、深沢七郎の世界ではなく、むしろ三島が住む世界である。(中略)/ 三島はきわめて論理的な作家のはずだが、その論理は人工の世界を前提に構築されている。要するに「つくりもの」なのである。われわれ自身が抱えており、それで当然であるはずの生老病死が、『楢山節考』という形をとったときに、饒舌なはずの三島が言を喪う。(中略)三島は典型的な脳化社会の人である。(後略)>と分析しています。



 ここまでくると、三島由紀夫が自分の内の自然である身体を、ボディービルで管理しようとし、私設軍隊の規律を課し、結局、身体を滅ぼしてしまうことになった意味が透けて見える気になります。



 三島由紀夫事件からは半世紀以上が経っていますが、この間、脳化社会の様相はますます進展しています。身体という自然を生々と動かし、全人的に生きたいものです。


#「会話を聞く楽しみ」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2023-03-06


身体の文学史

身体の文学史

  • 作者: 養老孟司
  • 出版社: 新潮社
  • メディア: 単行本

nice!(23)  コメント(2) 
共通テーマ:日記・雑感

個人的な感想 [読書]

 去年の秋、学生時代に買ったまま未読だった大江健三郎『洪水はわが魂に及び』を取り出して読み始めたのですが、四分の一ほど読んで止めました。物語の世界に入り込めなくて、読むのが苦痛になりました。もしかしたら買った時も、途中まで読んで止めたのかもしれません。もう 50年も前のことです。



 大江健三郎の小説は『奇妙な仕事』、『飼育』、『個人的な体験』などを読み、『万延元年のフットボール』(1967年)の世界に魅惑され、短篇集『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(1969年)では話の作り方が上手だなと感心した憶えがあります。その流れで『洪水は・・・』(1973年)が出版された時に読もうとしたのでしょう。本箱には、その後に出た『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)も未読のまま立っています。大江健三郎とは 1970年代以降、気になりながらも疎遠になったようです。



 1960年代末ごろ、評論家の江藤淳が「大江の小説はもう読まない」と言った記憶があります。当時、わたしは江藤淳の『成熟と喪失 ”母”の崩壊』(1967年)という評論に感服していたこともあり、大江の新作への違和感から、江藤淳に同感する気分だったように思います。その後、その江藤淳も鼻につくようになり、読まなくなりました。



 では、1970年代は何を読んでいたのか・・・思い返せば、開高健とか司馬遼太郎の随筆なんかが思い当たります。そういえば数年前、書店で目にした対談集*で、大江健三郎は開高健について、「話をするとあれだけ面白いのに、物語が作れなかった」というふうなことをしゃべっていました。なるほど、大江と開高との違いとも言えるなと納得した憶えがあります。



 先日、大江健三郎が 88歳で老衰で亡くなったという記事をみて、思い出したことを書いてみました。わたしにとって、大江健三郎は、やはり『万延元年のフットボール』が一番かなと思案します。



*大江健三郎・古井由吉『文学の淵を渡る』(新潮社)






nice!(26)  コメント(6) 
共通テーマ:日記・雑感

会話を聞く楽しみ [読書]

 電車に乗って退屈していると、隣の乗客たちの会話が耳に入ってきます。聞くともなく目をつむっていても、つい聞き入ってしまうことがあります。「対談集」を読むのは、そんな場面と似た感じがします。ちょっとした退屈な時間を、会話を聞いて過ごす。面白くてもこちらからは合いの手は入れられない。



 『おとこ友達との会話』(新潮社)白洲正子の対談集です。1990年代に雑誌などに載せたものを 11篇集めています。相手は赤瀬川原平、前登志夫、仲畑貴志、尾辻克彦、青柳惠介、ライアル・ワトソン、高橋延清、河合隼雄、養老孟司、多田富雄です。



 たとえば、吉野に住む歌人の前登志夫の篇では、わたしが日頃親しんでいる『句歌歳時記』の編者・山本健吉が話題になっています。



 繊細で非常に真面目で、むちゃくちゃなさらないから。吉野に来たら、無頼派なんですが。

白洲 あっははは。

 僕が酔っぱらって、ヤマケンさん一緒に飲みに行こうとかいって、夜遅う、僕の家へ来たの、夜中の一時なんですよ。家内、怒ってね、「あんた、毎日、毎日、何うろうろしてるの!」言うたらね、後ろにヤマケン先生が衣紋竹みたいに立っていらっしゃる(笑)。家内が慌てて、「泊まっていってゆっくりしてください」言うたら、いきなり「奥さん、カセットを出してください」って。私、吉野伝授しとこうと思います、言うてね。それで、深沈たる山中の静寂の中で「上野発の夜行列車降りた時から ・・・」言うて歌い出したんです。続いて、僕は肺が片方だから、もうちょっと落とします言うてね。結局、「おんな港町」と二曲歌われた(笑)。その時の雑談も入ったカセットがありますよ。

白洲 変な吉野伝授ね(笑)。演歌がお好きだったでしょう。



 たわいない雑談ですが『句歌歳時記』の編者に親しみがわきます。一日一篇、会話を聞いていると、以前に読んで面白かった本のことが話題になっていました。



白洲 先生の『身体の文学史』を拝見していて、身体と脳は、三島由紀夫の場合なんかはっきり分かれているでしょうーーーお気の毒とも言えるけども。私、ひどく、同情しますよ、あの方には。だけども、普通はもう少しくっついてるんでしょう。

養老 はい

白洲 でもそれがどういう具合にくっついてるんだかがわかんないの。

養老 ですね(笑)。だから、それが切れちゃったのが三島だったんです。それを石原慎太郎に言わせると、空っぽだって言うんですね。空っぽに決まってるんで、言葉じゃない方に移ったわけですから、それを言葉でどうこう言おうとしても、それは無理だというのが、正当の解釈じゃないかと思うんですけどね。けれども三島もやっぱり言葉で言おうとするんですね。

白洲 なんか七つぐらいの時から恋愛小説を書いてたって言うでしょう。これはもう嘘にきまってる。言葉だけでしょ。だから、小林秀雄さんは、肉体のない文章っていうのは認めなかったんですよ。(後略)



 こんな会話が聞こえてきます。『身体の文学史』、面白かったという記憶はあるのですが、もう25年も前なので、具体的な内容は忘れています。再読してみようかと思います。



 若い頃から対談集というのも時々、読みました。三島由紀夫と中村光夫とか、小林秀雄と岡潔とか、開高健、安岡章太郎、井伏鱒二などを思い出しますが、内容はみごとに記憶にありません。対談というのはやっぱり、隣の乗客の会話を聞いているようなものなのでしょう。






おとこ友達との会話 (新潮文庫)

おとこ友達との会話 (新潮文庫)

  • 作者: 白洲正子
  • 出版社: 新潮社
  • メディア: 文庫

nice!(23)  コメント(2) 
共通テーマ:日記・雑感

また 家族のかたち [読書]

 昨年末から読み始めたエマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』(文藝春秋)は、やっと下巻の100頁ほどまで読み進みました。翻訳本は忠実に訳そうとすると、もって回った文章になり、まどろっこしくなります。そんななかで所々、フランス人である著者のおもしろい考察に出会います。



 < アメリカなるものは事あるたびに、われわれヨーロッパ人にそれ自体として矛盾した二重の印象をもたらす。最も先進的だという意味で「モダン」を体現しているように見えるアメリカが、それでいて同時に「未開」だとも感じられるのは一体なぜなのか。われわれは前々から訝(いぶか)しく思ってきた。いつも心の中で、「彼ら(米国人)は明らかに先を行っている。そのくせ、およそまったくと言ってよいほど洗練されていない」と呟いている。>



 ヨーロッパ人から見たアメリカ人の不可解さを率直に述べています。そして意外な結論を引き出します。



 <彼らは、ほとんどまったく洗練されていないからこそ、先を行っているのである。ほかでもない原初のホモ・サピエンスが、あちこち動き回り、いろいろ経験し、男女間の緊張関係と補完性を生きて、動物種として成功したのだ。 >



 つまり、アメリカ人は、狩猟採集時代のホモ・サピエンスがそうであったように、「核家族」で、自由主義で、武器で自衛する社会に生きていると言います。



 < 他方、中東、中国、インドの父系制社会は、女性のステータスを低下させ、個人の創造的自由を破壊する洗練された諸文化の発明によって麻痺し、その結果、停止してしまった。>



 ユーラシア大陸の長い歴史を持つ文明発祥地と、英米のような辺縁地との家族システムの違いによる現れを戯画的に解説しています。文明発祥地では「進化」した家族システムを作り上げたのに対し、辺縁地では原初の核家族が残存した。



 また、家族システムがイデオロギーに及ぼす影響の一例としてーーードイツ、日本などの後継ぎを一人に絞る直系家族では、子供たちは不平等であり、結果、人間は不平等が当たり前という意識が形成されると指摘しています。そのような社会では、「兄貴分」と「弟分」の序列の中で生きていくとしています。



 そういえば日本の組織におけるタテ構造や、日韓米の外交関係など思い当たる面があります。また、英語を習い始めた頃、英語には兄弟はあっても、兄や弟という単語がないのを不思議に思ったのを思い出しました。「家族のかたち」の違いの現れなのかも知れません。まだまだ E.トッドの論考は続きます。目の付け所がおもしろい、楽しい読書です。



nice!(24)  コメント(2) 
共通テーマ:日記・雑感

春日というところ [読書]

 このあいだテレビのニュースを見ていると、奈良の興福寺のお坊さんたちが、隣の春日大社に詣でて、柏手をうち、読経していました。長年の行事とのことで、まさしく神仏習合です。その時ふと思ったのですが、「春日」と書いてなぜ「かすが」と読むのでしょうか? 



 調べてみると、「はるひ(春日)の」は「かすが」という土地の枕詞なのだそうです。「飛ぶ鳥の」が「あすか」の枕詞なのと同じで、枕詞が地名表記になったということです。



 春日大社は 768年、藤原不比等によって建立され、藤原氏の氏神も祀っています。藤原氏はもとは中臣氏で、その前は卜部(うらべ)氏だったそうで、祭祀にかかわる一族だったとのことですが、中臣鎌足より前は謎に包まれています。また鎌足は『大鏡』では、< その鎌足のおとど生まれたまへるは、常陸国なれば・・・ > と書かれているそうです。*



 それと関係があるのか、春日大社は四座の神を祀っていますが、第1が鹿島から、第2が香取から勧請しており、次に祖先の天児屋根命(あめのこやねのみこと)と比売神(ひめのかみ)という順になっています。**



 三笠山の東方、7Kmほどに大柳生という町があります。柳生の南西7Kmほどのところです。白洲正子によれば、この高原盆地一帯を古く「春日」といい、豪族・春日氏の所領であったそうです。大柳生の人々は、春日大社とのつながりが深く、古来、若宮の「おんまつり」には氏子として奉仕するならわしがあるそうです。**

 


 奈良公園には鹿がたくさん群れていますが、鹿は春日大社の神の使いだそうです。これから春にむかって、若草山の山焼きや二月堂のお水取りなどの行事が続きます。


  石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさわらびの

     萌えいづる春になりにけるかも (万葉集 志貴皇子)



* 朧谷寿『藤原氏千年』(講談社現代新書)

**白洲正子『道』(新潮社)


nice!(23)  コメント(6) 
共通テーマ:日記・雑感

家族のかたち [読書]

 年が変わり、昨年末の新聞の書評欄で興味を惹かれた、エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』(文藝春秋)を読み始めました。E.トッドは 1951年生まれのフランスの人口・家族人類学者です。上下2巻で 700頁の本なので、まだ4分の1程しか読めていませんが、翻訳調の文章で、考察の対象が多岐に渡り、理解するのに悪戦苦闘しています。



 まず序論として、家族のかたちの持つ意味に気づいたきっかけを、< 一九七〇年代末に確定していた共産主義体制の分布図が、ロシア、中国、ベトナム、ユーゴスラヴィア、アルバニアなどに存在する特定の農村家族システムの分布図に合致することを確認したのだった。その家族システムは、一人の父親と既婚の複数の息子を結びつけるシステムで、親子関係においては権威主義的、兄弟同士の関係においては平等主義的である。権威と平等性はまさに共産主義イデオロギーの核なので、家族とイデオロギーの合致を説明するのは難しくなかった。> と語っています。



 そして、家族システムは世界各地で多様ですが、今まで社会科学の標準モデルとされていた < 複合的な家族から一組の夫婦への推移ーーーが事実としてばかげていることに気づいた。実は、原初の家族が核家族だったのである。(中略)ホモ・サピエンスの原始状態における人類学的形態だったのである。これに対して、夫婦を父系の親子関係の中に閉じ込める形態、すなわちユーラシア大陸の大部分を占有した共同体家族の形態は、歴史の産物にほかならない。> と考えの道筋を示しています。



 つまり、古い形態が中央から離れた辺縁に残るように、ユーラシアの外れのイギリスなどに核家族という古い形態が残存した。< ホモ・サピエンスの出現以来、家族は単純型から複合型へ推移したのであって、> その逆ではない。



 イギリスやパリ盆地では狩猟採集民に近い核家族が見られるのに対し、文明の発生地である中東では最も複合的な、最も「進化した」内婚制共同体家族が見られ、< 父親と既婚の息子たちを結びつけ、次にその息子たちの子供たちが結婚するするのを推奨するわけだが、このシステムは五〇〇〇年もの推移の帰結なのである。> と書かれています。



 歴史の中で、イギリスでは核家族であったことによって、農民層から根なし草的労働者が得られ、産業革命につながった。ドイツと日本ではかって長子相続であったため、次男、三男が社会に放り出され、社会を活性化させる面があった。



 家族形態の現代的な現れとして、核家族の自由主義によって、イギリスはEUを離脱し、米国はトランプを選んだ。直系家族であったドイツ、日本、韓国では出生率が危機的に低下している。



 序論のまとめとして、< 基本的な歴史のシークエンスは、核家族(父系制レベル0)から出発して直系家族(父系制レベル1)へ移り、次に直系家族から外婚制共同体家族(父系制レベル2)へ移り、そしてついには内婚制共同体家族(父系制レベル3)に至る > と記しています。



 次からは各論になります。気長に少しずつ読み進めようと思います。経済のグローバリゼーションは 50年の歴史ですが、家族の歴史は 5000年の積み重ねがあり、人々の無意識に影響を及ぼしているという気の長い話ですから。


#「また 家族のかたち」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2023-01-31

#「日本人の来た道」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2020-11-07



nice!(25)  コメント(5) 
共通テーマ:日記・雑感