ながい魚 [食物]
先週は所用で淡路島へ2泊3日の帰郷をしてきました。天気が雨模様で、高速道路が速度規制されたり、快適なドライブではありませんでしたが、淡路 SAでタコの唐揚げを食べると、島へ帰った気分になります。
今年は6月にも行ったので、叔母や兄、義姉にそう変わりはありませんでしたが、4年ぶりだった姪夫婦がすっかり初老の感じになっていて驚きました。そういえば、わたしも 50歳ごろから急に白髪が増えたのを思い出しました。この子も、こんな挨拶が言えるようになったのかと感心しました。
姪は以前から長い物が食べられないのですが、わたしは今回はアナゴを意識的に食べました。淡路島ではウナギは見かけないですが、ハモとアナゴはよく食べます。
アナゴは穴子と書くように、岩の割れ目に身をひそめているのですが、ハモとは違って、浅海の砂泥にもいて、体の大部分を砂に埋め、首だけを出し、金色の目を光らせ、小魚やエビを狙っているそうです*。旨いものをたっぷり食べているので美味しいのでしょう。
以前、京都の錦市場を見ていると、穴子の白焼が店先にぶら下がっていたので、買おうかと思ったのですが、淡路産と書かれていたので、京都で淡路の魚を買うこともないかと止めたことがあります。夏の京都のハモも淡路島から運んでいるようです。
長い魚といえば、和歌山の紀南地方ではウツボ(ウミヘビ)の唐揚げが名物になっていました。わたしは1度しか食べたことがありませんが、案外、淡白な味だったように思います。咬まれると大変ですが、日本のウツボには毒はないそうです*。
雨でドライブの気分にもならなかったですが、今回は瀬戸内海の魚がたくさん食べられ、得心しました。ただ、わたしも含め、皆んな老いてゆくのは寂しいかぎりです。
*末広恭雄『魚の履歴書 上』(講談社)
辰ケ浜の魚 [食物]
昨日、有田の辰ケ浜漁港へ出かけました。午後3時頃に船が帰ってきます。エンジンの音、リアカーで漁獲物を運ぶ人、空には鳥たちも集まってきて、市場ではセリが始まり、港は活気付きます。
今回は太刀魚、ハゲ、サワラ、シラス、イイダコを買ってきました。新鮮で美味しく安価です。
辰ケ浜漁港は温州ミカンで有名な有田川の河口にあり、近隣では最大の漁港と思われ、何百艘という漁船が見られ、これだけの船で人が暮らせるだけの漁獲量があるのかと思うと頼もしくなります。
有田(ありだ)は高校野球の県立箕島高校でも有名です。ライオンズの東尾修投手、バファローズの吉井理人投手(現マリーンズ監督)などを輩出し、尾藤監督のもと、1979年8月16日の甲子園での石川の星稜高校との熱戦は伝説になっています。法政大学へ行って4番を打っていた島本啓次郎選手に東京から女学生が何人も花束を持って訪れたとか、江川卓投手が来たとか、地元では野球選手の話題にことかきませんでした。昭和50年代のことです。
有田市はJRの駅名も「箕島(みのしま)」です。<JR「紀伊有田(ありた)」駅は100キロ以上南の串本に別にあります。> もともとは箕島村であったのが、合併して箕島町となり、また合併して有田町、そして有田市になったようで、駅名は昔のままになっているようです。
最近は箕島高校が甲子園に出ることはなくなり、変わって「智辯和歌山高校」が今年も出場しています。オリンピックに高校野球と暑い夏に熱戦が続きます。猛暑に食欲が落ちているのですが、しばらくは美味しい魚で元気が回復します。
紀伊半島の初夏 [食物]
新聞によれば、今年は紀南地方の漁港でカツオがよく獲れているそうです。2000年には漁獲量 1957.5トンだったのが、2014年から不漁が続き、2018年には 138.6トンにまで減少していました。北上する黒潮が蛇行して、紀伊半島から離れたのが原因といわれていました。
昨年は 172.8トンでしたが、今年は既に4月までの4ケ月で 253.0トン獲れているそうです。
周参見(すさみ)を中心として紀南地方では、「ケンケン漁」という疑似餌によるひき縄漁が盛んで、獲れたカツオは「ケンケン鰹」と呼ばれています。カツオが戻って来てくれたのはうれしい便りです。夕食に食べるカツオの刺身は、紀南地方の格別な食べ物です。
紀南の海岸では、そろそろアカウミガメの産卵も始まっていることでしょう。以前、当地にやって来た義父に、ウミガメの話をすると、「あの卵はまずい!」と言っていました。戦時中にボルネオで食べたのだそうです。
紀ノ川や日置川では、先日、鮎釣りが解禁になりました。アユはまだ15センチ程と小さいようですが、台風が来て川底が攪拌されると藻の成育がよくなり、アユが成長するそうです。
紀伊半島の南部、古座川の上流、滝の拝ではアユを引っかける「トントン釣り」という漁法があります。新鮮な鮎を塩焼きにすると、香りもよく、季節を感じさせる食べ物です。
一昨日は紀ノ川ベリを散歩しましたが、ツバメの巣を見かけました。燕のこども達が食事を待っていました。もう今年は梅雨に入り、台風も発生しています。海も川も空も季節が変わりつつあるようです。散歩のあと、顔が日焼けでほてっていました。来週あたりは紀南へ出かけてみたい気になりました。
柿 あれこれ [食物]
紀ノ川べりでの散歩のあと、道の駅で富有柿を買ってきました。紀ノ川流域は柿の産地です。柿は元々はすべて渋柿で、突然変異で甘柿ができたそうです。日本で初めて甘柿が見つかったのは、1214年、相模国でのことだそうです。
里古りて柿の木持たぬ家もなし (松尾芭蕉)
渋柿には水溶性タンニンが含まれていて、舌の粘膜と結合するのだそうです。アルコールなどによる渋抜きは、タンニンを不溶性に変化させ、粘膜にくっ付かなくするのだそうです。
渋かろか知らねど柿の初ちぎり (千代女)
夏目漱石は『三四郎』で < 子規は果物が大変好きだった。かついくらでも食える男だった。ある時大きな樽柿を十六食った事がある。それで何ともなかった。> と書いています。樽柿というのは酒樽に柿を詰めて、アルコールで渋抜きしたものです。正岡子規は松山出身なのですが、西条柿だったのでしょうか。
渋柿や古寺多き奈良の町 (正岡子規)
寺田寅彦に『柿の種』という短文集があります。松根東洋城の主宰する俳句雑誌「渋柿」に連載したエッセイを纏めたものです。東洋城は松山での漱石の教え子で、紹介され子規の弟子になっています。宮内省に勤務していたおり、大正天皇から俳句について尋ねられ、「渋柿のごときものにて候へど」と答えたそうです。
秋の陽光を浴びて輝く柿の実を、しばらくは朝の果物として楽しみます。
新玉ネギの美味しさ [食物]
先日、淡路島に住む兄が新玉ネギを送ってくれました。みずみずしく、辛味がなく、普通の玉ネギとは別物です。昨年はわたしの小学校の同級生が栽培したものでしたが、今年のは違うようでした。
淡路島は昔から玉ネギの産地で、この季節、わたしが子供の頃には出来過ぎた玉ネギが大量に小川に廃棄され、あたり一面に臭いが漂っていました。当時、新玉ネギというものを食べた記憶はなく、玉ネギといえば軒に吊るして保存して食べるものだけでした。
新玉ネギというのは極早生品種で、また、いわゆる玉ネギが収穫後一ヶ月ほど乾燥させてから出荷するのに対し、採りたてを出荷するのだそうです。子供の頃には、そもそも無かったようです。
新玉ネギを一個そのままラップにくるみ、5分ほどレンジにかければ、柔らかく新鮮で、美味しく食べられます。晩春の味で、ハモ鍋の具材にも最適です。
ビル・ローズ『図説 世界史を変えた50の植物』(柴田譲治訳 原書房)によれば、玉ネギは五千年前の西南アジアが原産とされていますが詳細は不明なようです。聖トマス祭の前夜(12月20日)に玉ネギを枕の下に置いて寝ると、将来の配偶者の姿を見ることができるという言い伝えがあるそうです。
また、< フランスのブルターニュ地方北西部で、タマネギの収穫が始まると、ブルターニュの若者は家族の自転車を借り、タマネギをできるかぎりたくさんハンドルにぶら下げてサンブリューやトレギエの漁港へと走り下った。彼らはアルビオンの日(Journee' d'Albion [「アルビオン」とはブリテン島のこと])にイギリス行きの船に乗り、イギリスの家庭を訪ねてはこの初物タマネギを販売した。彼らはオニオン・ジョニーズと呼ばれ、先祖代々そうであったようにブルターニュ地方の伝統的なベレー帽にセーターという出で立ちだった。(後略)> という風習を記載しています。
人類最古の栽培植物のひとつとされる玉ネギですが、日本で作られるようになったのは明治になってからで、札幌農学校が最初だそうです。ネギは奈良時代には伝来している日本人に馴染み深い野菜なのに、玉ネギが伝わらなかったのは不思議です。
ハモの季節 [食物]
和歌山市の名草山の中腹にある紀三井寺の境内からは、海の向こうに沼島(ぬしま)が見渡せます。沼島は淡路島の南部にある離れ小島で、400人ほどが住んでいます。対岸の淡路島の土生港へは連絡船で 10分ほどです。わたしは上陸したことはありませんが、家内は中学生の時、クラブの合宿で行ったことがあるそうです。和歌山市と徳島市を結ぶフェリーに乗ると、間近に沼島が見られます。
『古事記』で伊耶那岐(イザナキ)の神が天の沼矛(ヌボコ)で海をかき回し、「引き上げたまふ時に、その矛の末より垂り落つる塩の累り積れる、嶋と成りき。これ淤能碁呂嶋ぞ。」* というオノゴロシマは沼島だという説があります。
夏になると、沼島ではハモ(鱧)漁が盛んになり、ハモ料理の店も数軒あります。ハモは日本の中部以南にすむアナゴに近い磯魚で、瀬戸内海に多いそうです。アナゴより大きく、歯がきつく、やたらと噛み付く魚なので「食む」がなまってハモになったという説もあるそうです。関東では獲れないので関心がないようですが、関西では夏の料理として知られています。身にそって縦にある小骨を「骨切り」します。昔から「一寸(3.3㎝)の身を二十五に切れ」と板前は教えられるそうです。**
湯引きを梅肉で食べる、天ぷら、すましに入れるなど色んな食べ方がありますが、わたしは骨で出しをとり、肉厚なのを鍋にして食べるのが好みです。以前は淡路島の魚屋さんから送ってもらったり、兄が送ってくれたりしていたのですが、7月になり、そろそろ今年もどうして食べるか思案し始めています。
箸先の鱧の牡丹を崩すかな (草間時彦)
* 西宮一民 校注『新潮日本古典集成 古事記』(新潮社)
**末広恭雄『魚の履歴書 下』(講談社)
詩人の食べもの [食物]
嵐山光三郎『文人暴食』(マガジンハウス)は『文人悪食』の続編です。小泉八雲から寺山修司まで 37人について、各人を食べ物との関わりから描いています。著者は「あとがき」で <・・・二冊を書くために十年間(五十歳〜六十歳)を要した。それは、人間が食うことの意味を問う十年間であった。>と述懐しています。
一人につき 10ページ程の分量なので、食事を待つ間とか、眠前などに簡単に読めますが、それでいて独特の切り口から各人の意外な人間像が浮かび上がり、読み応えがあります。
たとえば、室生犀星(1889-1962)といえば「ふるさとは遠くにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」で始まる抒情詩が思い浮かびますが・・・。
彼は <金沢に生まれた私生児であった。父は加賀藩の足軽頭、母ははるという女中であった。父は老年で女中に子を産ませたことを恥じ、生後七日のまだ名をつけぬうちに、近所の赤井ハツに渡した。/(中略)ハツは、人買い屋でもあり、若干の養育費を貰って事情ある子をひきとり、男ははやく勤めに出し、娘は娼婦として売って遊興費を稼いでいた。> 室生犀星の出発点です。
姉が娼婦として売られたとき、少年犀星は号泣した。ハツは「姉を売った金でおまえが食うことができるのだ」と説明しました。犀星はひもじい少年期を過ごしました。
詩人となった犀星は、山にかすみ網を張って大量のツグミをとって持ち帰り、バケツのなかで羽をむしり、肉はバターで炒め、骨はこまかく叩いて、メリケン粉と混ぜて団子とし、じぶ煮にして食べていたそうです。こんな詩を書いています。
「小鳥を食べる」
春さきになると小鳥がおいしくなる
美しい柔らかい羽根をひいた裸のまま
火に炙(あぶ)ると漆のやうに焦げる
人間の心をよろこばせる美しい味ひと
それを食べたあとのからだが
ほんのりと桜いろに温まつてくる
冬木にとまる小鳥をみると
小ぢんまりしたからだを感じるのだ。
(後略)
晩年の犀星は <庭に杏の実がなると、杏の数を勘定して、熟れすぎぬうちに植木屋に頼んでもぎとった。それを自ら台所で洗い、書斎の押入れに隠してしまい、妻のとみ子には二個しか与えなかった。娘の朝子は、犀星が留守のときにそれを盗み出してとみ子にあげた。とみ子は昭和十三年、脳溢血で倒れ、以後半身不随になっていた。帰宅した犀星は、隠しておいた杏を数え、二個足りないことを知ると、朝子をひどく叱った。「とみ子が胃痙攣をおこしたら困る」というのが犀星の言い分であった。>
犀星はだんだんと食べ物に執着するようになります。嵐山光三郎はこれを犀星のひもじかった少年期への復讐と捉えています。
昭和37年、詩人・小説家として一家をなした犀星の遺作はこんな詩でした。
「老いたるえびのうた」
けふはえびのやうに悲しい
角(つの)やらひげやら
とげやら一杯生やしてゐるが
どれが悲しがっているのか判らない。
ひげにたづねて見れば
おれではないといふ。
尖つたとげに聞いて見たら
わしでもないといふ。
それでは一体誰が悲しがつてゐるのか
さつぱり判らない。
生きてたたみを這うてゐるえせえび一疋。
からだぢゆうが悲しいのだ。
<復讐をはたし終わった詩人が、余裕をもってユーモアさえ漂わせて自嘲してみせた。>と嵐山光三郎は書いています。絶品です。
鱒鮨のこと [食物]
わたしの父親は薬関係の仕事をしていたので、時に富山の薬屋さんへ出張していました。帰りに鱒鮨を買ってくることがありました。土産という楽しさもあり、淡い紅色の鱒という魚も珍しく、子供心に美味しかった記憶として残っています。当時、川魚など食べたこともなく、サーモンなど無かった時代です。
大人になって家内が百貨店の催しに出ていた駅弁の鱒鮨を買ってくることがありました。子供の頃を思い出し、懐かしく食べました。30年程前、子供達を連れ立山に出かけたおり、室堂で昼食に食べた時には夏だったせいか酢がきつく、少しガッカリしました。
15年程前、黒部峡谷に旅行したおり、JR富山駅の食堂に入ると、品書きに鱒鮨が2種類ありました。どう違うのか訊いてみると、普通のと腹身のとがあるとのことでした。腹身の鱒鮨はねっとりと脂分が舌に感じられ、今まで食べた駅弁の鱒鮨とは別物でした。店の人によると富山では何軒か鱒鮨屋があり、各人好みの店のを買うとのことでした。考えてみれば地元の人は駅弁は食べないのでしょう。わたしも最寄り駅の駅弁は食べたことがありません。
4年前、富山の八尾へ盆踊りを見に行ったおり、思い出して富山駅へ行ったのですが、駅が建て替わっていて、先の店も分からず、結局満足に食べられませんでした。
先日、吉田健一『私の食物誌』(中央公論社)を読んでいると「富山の鱒鮨」という文があり、<・・・富山の信用出来る店で作っているのは桶が小包で着くと嬉しくなる。それも六月頃に作るのがよくて、どういう関係かその頃の鱒が一番脂が乗り、飯にもその脂が染み込んで旨くなっている感じである。>というようなことが書いてありました。
読んでいるとあの腹身の鱒鮨のことが思い出され、つい鱒鮨屋さんに電話して送ってもらう羽目になりました。
しっとりと鱒の身が舌にからみ、酢も柔らかく、鱒の香りがひろがります。それにしても、また自由に旅行に出かけられる時が待ち遠しくなります。食べ物もそれぞれに土地の記憶と繋がっています。
松山のメバル [食物]
食べ物の話というのは、蘊蓄を聞かされても鬱陶しいし、どこの名店の何がうまいと言われても鼻白むところがあり、読んで気持ちのいい読み物になるには、著者の人品によるところが大きいようです。
吉田健一『私の食物誌』(中央公論社)は各地の食べ物について読売新聞に連載した短文を主にまとめた本で、快く楽しめます。もっとも昭和47年の出版なので幾分時代を感じるところもありますが、さしたる差し支えはありません。
< 大体旨いものだから皆で食べなければならないという法はないのである。それと栄養の問題は別でその上に各自の好みがあり、旨いからと言って早速それを全国の名店街で売り出す必要は少しもないということがこの頃は忘れられ掛けている。序でながら、この蠑螺の塩辛も別に高いものでも何でもない。 >
これは「飛島の貝」という章の文末です。こんな文章を読むとつい微笑が浮かびます。書き出しは・・・「日本海の山形県沿いに飛島という小さな島があってここの貝は旨い。どういう貝だろうとここで取れる貝は何でも皆いいようであるが、その中でも挙げたいものに鮑(あわび)と蠑螺(さざえ)がある。」と語り出します。
「長浜の鴨」とか「長崎の豚の角煮」、「金沢の蕪鮨」、「瀬戸内海のめばる」といった話題が次々と続きます。巣ごもり状態のなか、本を読んでいつか行けるかもしれない旅を想像します。
この本は 1991年5月に集会があって松山にでかけ、城山の麓にあった古書店で手に入れたものです。そういえばその折、同僚と食堂に入り、品書きに「めばる煮付け」とあって懐かしくなり注文したのですが、女将さんから「時価なんですけど・・・」と顔を覗かれた記憶があります。そんなものを食べる客には見えなかったのでしょう。
吉田健一は岩国で家庭料理として御馳走になった「めばる」について <・・・少くとも十何匹かのめばるが大きな皿に盛って出された。ただ普通に煮ただけのもの、或いはそうとしか思えない淡泊な味付けの煮方をしたのを銘々が勝手に自分の皿に取って食べるので四、五人で御馳走になったのに魚は残らなかった。ただめばるという魚は旨いものだということが記憶にあるだけで他には生姜(しょうが)が使ってあったこと位しか覚えていない。併しそのめばるを煮たのは旨かったともう一度繰り返して言いたい。 > と舌舐めずりするように回想しています。
さて、わたしは時価と言われてめばるを食べたのか、食べなかったのか・・・思い出せません。
サンマの歌 [食物]
今年もサンマは不漁のようです。末広恭雄『魚の履歴書』(講談社)を見てみると、サンマは北緯20度-55度の北太平洋にだけ生息しているようです。8月の頃には北海道から千島近海でたむろしているが、9月に入ると、産卵のために群れをなして北海道の南海岸近くを通過し、青森、宮城、千葉・・・と本州の太平洋岸近くを南下するのだそうです。
サンマは光に集まる性質が特に強く、<真暗な海上を進みながら、船の前部の探照灯で明るい光をさっと投げる。光が群れに当ると、びっくりしたサンマたちが一メートルも盛り上がる。三〇センチもあるサンマが何百もひっきりなしにはね上がり、光に反射して噴水のような美しさだ > そうです。
『和漢三才図絵』の 49巻には「伊賀大和土民は好んでこれを食べるが、魚中の下品である」と書いてあるそうですが、落語で将軍が賛嘆する「目黒のさんま」はよく知られています。昭和29年1月25日の毎日新聞には、中目黒2丁目802番地に、将軍家光にサンマを供した茶屋の爺さんの十一代目が実在しているとの記事があるそうです。
「秋刀魚の歌」 (佐藤春夫)
あはれ
秋風よ
情(こころ)あらば伝へてよ
—— 男ありて
今日の夕餉(ゆふげ)に ひとり
さんまを食(くら)ひて
思ひにふける と。
(後略)
たしか JR紀伊勝浦駅で、この詩碑を見た記憶があるのですが、もう 45年ほどまえなので確かではありません。 <さんま、さんま、/さんま苦いか塩つぱいか。/そが上に熱き涙をしたたらせて/さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。/あはれ/げにそは問はまほしくをかし。> と結ばれています。
サンマも紀伊半島までくると脂が抜けて、鮨にほどよくなるそうです。佐藤春夫の出生地・新宮にはサンマの馴れ鮓(なれずし)という発酵食品があって、三十年物というのが食べられるそうです。わたしは、さんま苦いか塩っぱいか・・・と想像するだけです。