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音楽の可能性 [音楽]

 音楽も同じジャンルのものを聴き続けていると、飽きてしまって、心に届かなくなることがあります。この間うちはクラシックばかりを聴いていましたが、音が遠くで鳴っているように感じはじめ、止めました。


 今日は久しぶりにジャズを聴きました。マイルス・デイヴィスの『Kind of Blue』です。新鮮な音が解毒剤のように心地よく体に響きました。トランペットの音が吹き矢のように心に刺さります。


 音楽ジャンルでいえばロック、歌謡曲、フォーク、ブルース、ラテン、シャンソンなどといろいろに分かれていますが、ひとつの分野にしばらく浸っていると、何か表現の限界のようなものを感じるようになり、飽きてしまいます。


 ジャズも続けて聴いていると、どれも同じように思えてきます。聴く方がそうなんだから、演者はもっと強く感じることでしょう。そういう意味ではマイルス・デイヴィスが次々と演奏スタイルを変えていったのは、表現の領域を拡げようとしてのことだったんだろうと納得します。それで彼は壁を突き崩せたのだろうか?


 振り返ってみれば時代によって音楽ジャンルも消長し、流行り廃りがあります。ただそれを牽引し表現の可能性をおし拡げていったのはジャイアントと言うべき個人でした。そして何百年経ってもやっぱりバッハには聴くべきものがあるし、何十年経ってもマイルス・デイヴィスは新鮮に心に響きます。


 家内に言わせると、このごろ何か変わったものを聴いてるなと思えば、そのうちにまたモーツァルトに戻っているとのことです。そうなのか、そうかも知れない・・・と何十年来の繰り返しに苦笑します。





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門弟三千人のひと [読書]

 嵐山光三郎『文人暴食』(マガジンハウス)には佐藤春夫(1892-1964)について <「門弟三千人」と謳われた文豪佐藤春夫だが、しかし、それほど面倒見のいい親分気質ではなかった。むしろ神経質で、気分のおもむくままに彷徨する憂鬱な作家であった。芥川賞設立のときより、二十七年間にわたり銓衡(せんこう)委員として新人作家を発掘し、訪問する新人作家を受け入れ、それが三千人という。> と書いていました。


 そういえば、太宰治は佐藤春夫に宛て「第二回の芥川賞は、私に下さいまするやう、伏して懇願申し上げます」「佐藤さん、私を忘れないで下さい。私を見殺しにしないでで下さい」と手紙を書いています。さぞかし大勢の作家が佐藤家に押しかけたことでしょう。


 『文人暴食』によれば、佐藤春夫は酒を飲まなかったそうで、たとえば、室生犀星は若い頃、酔っぱらってよく喧嘩をしていたそうですが、<春夫は犀星を「何人にくらべても無教養」ときめつけ、会っても口もきかなかった。酒飲みを極度に嫌っていた。> とのことです。


 門弟の中にはいろんな人が居たようで <その後、来た男に稲垣足穂がいる。足穂は言葉巧みに家に入りこみ、春夫の蔵書を売りとばしたので「彼が二階へ上がって来るところを階段の上から蹴りとばしてやった」。「奇才である。巧みな自己宣伝家である。男色家である。不徳漢である。・・・こういうのは三千のうちの屑の屑である。それにしても才有って行無く、埋もれて行くのはかわいそうに悲惨である」> と春夫は回想しています。足穂もたぐいまれなる酒飲みでした。


 芥川龍之介とは明治 25年生まれの同い年で、芥川は春夫をライバル視していたようですが、大正末期の名声は春夫のほうが高かったそうです。 <芥川は春夫を評して「フランス語知らず、音楽を解しないのは気の毒だ」と軽蔑した。それに対し春夫は「その批判を甘受」し、「もし私が酒を愛し、音楽を解したとしたら、私はたぶん生涯を遊蕩児として送ったのであろう」と自戒している。> とのことです。


 酒には厳しかった春夫ですが、女性関係は多彩で、谷崎潤一郎夫人との恋愛・譲り受け事件が知られています。また、音楽には縁が無かったようですが、油絵は二科会に何回も入選した腕前だったそうです。


 詩集『魔女』で、こんな詩を書いています。

 

     「さめぎは」

    夢ですよ

    さうです

    一たい悪い夢では

    そのさめぎはが一等悪い



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「春」という歌 [音楽]

 リヒャルト・シュトラウスの『四つの最後の歌』の第1曲は「春」というヘルマン・ヘッセの詩に曲をつけたものです。オーケストラを従えソプラノが唄います。


              「春」

           薄暗い洞穴の中で、

    私は長い間夢をみていた。

    お前の樹々と青い大空と、

    お前の香気と鳥の歌について。

 

    今やお前は輝きと装飾の中に、

    私の前に奇蹟のように

    光を一杯に注がれて、

    横たわっている。

 

    お前は再び私を知り、

    やさしく私を誘う。

    お前の幸福な姿に

    私の身体はわなないている。

           (門馬直美・訳)


 初めて聴いたのは、もう30年もまえで、キリ・テ・カナワという歌手がウィーン・フィル(G.ショルティ指揮)の前で唄っているものでした。甘美で、気品のある声と音に酔いしれました。以来、『四つの最後の歌』のCDを見かけるたびに聴いてみましたが、なかなか楽しめませんでした。どうしてもキリ・テ・カナワと比較してしまいます。


 昨年だったか、評論家がディアナ・ダムラウという歌手がバイエルン放送交響楽団(マリス・ヤンソンス指揮)と録音したCDを激賞していたので、取り寄せて聴いてみました。確かに良い歌声で楽しめました。でもやっぱりそのあと、キリ・テ・カナワの声の天上的な響きが聴きたくなってしまいます。


 そこでふと思ったのですが、これは案外、演奏の良否によるのではなく、単に最初に聴いて感激したCDがファースト・コンタクトとして心に刷り込まれてしまった結果なのかもしれません。人間はいつまでも初めての衝撃に囚われて生きているのでしょう。


 『四つの最後の歌』は「春」のあと「九月」、「眠りにつこうとして」とヘッセの詩の歌が続き、第4曲はアイヒェンドルフの詩「夕映えの中で」の歌となり、だんだんと諦念、慰安、浄化といった雰囲気の音楽に包まれ静かに消えてゆきます。リヒャルト・シュトラウスの白鳥の歌です。





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