時代の変わり目 [読書]
久世光彦『昭和恋々 Part II』(清流出版)は月刊誌「清流」に久世光彦が1998-2003年に連載したエッセイと写真をまとめたものです。前作の共著者であった山本夏彦は 2002年に他界しています。今回は久世光彦(昭和10年東京生まれ)、川本三郎(昭和19年東京生まれ)、俵万智(昭和37年大阪生まれ)の鼎談が巻末に付いています。鼎談から読み始めましたが、なるほどと思った話題がいくつかありました。
久世 僕は一九六〇年にテレビ会社に入りましたが、家にはテレビがなかった。でもそれが当たり前でした。
我が家にもテレビはなかったので「月光仮面」は祖父の家で観せてもらっていました。そして、昭和34年(1959)6月25日の長嶋が阪神・村山実からサヨナラ・ホームランを打った天覧試合は叔父の家で観戦しました。調べてみると、同年7月12日に始まった「豹(ジャガー)の眼」は自宅で観たように思うので、我が家にテレビが来たのは 1959年6月26日から7月12日の間だったのかも知れません。わたしは小学5年生でした。電気炊飯器で「かまど」がなくなり、洗濯機、冷蔵庫が家庭に入り、電灯以外は江戸時代と大差なかった日常生活が一変した時期でした。
俵 私が小学生のころは、教室に石炭ストーブがありました。当番で石炭を石炭小屋から運んでいました。私たちの年代が石炭ストーブを使った最後くらいかも知れません。中学生のときはもう石油ストーブでしたから・・・。
昭和40年代のことでしょう。あのころ確かに石油ストーブが普及したように思います。昭和30年代は火鉢で暖をとり、風呂も薪か石炭で沸かしていました。炭鉱事故があったり、炭鉱の労働争議もありました。石炭が斜陽になり、石油がエネルギーの主流になっていった時期でした。
川本 私の子供のころは犬は放し飼いが住宅地でも許されていました。それが東京オリンピックのころから、つないで飼うようになった。/(中略)私の中学時代までは、その辺りを犬が走り回っていました。忠犬ハチ公の物語は昭和の八年ごろの話ですが、放し飼いでないと成り立ちません。
なるほど、こどもの頃は、犬があちこちでウロウロしていました。首輪に鑑札の付いているのが飼い犬で、無いのが野良犬ということで、ときどき野犬狩りの車がやって来て、何匹も捕まえていきました。我が家の犬も間違えて捕獲され、引き取りに行った記憶があります。犬が自由に行き来できた生垣が、ブロック塀に変わり、街の景観が殺風景になりました。
三人の話を読んでいると、いろんなことを思い出します。普段は記憶の底に沈んでいる事柄が浮上して、こどもの頃には分からなかった謎が解けたりします。振り返れば「あのころ 」がひとつの時代の変わり目だったと気づきます。
お変わりないですか? [音楽]
簡単な日常英語というのが、案外わからないので、唄の題名とか歌詞を理解するのは苦労します。たとえば「The Best Things in Life Are Free」という唄は「自由が最高」ということかと思えば、歌詞は「月はみんなのもの。人生で最高のものは無料。星もみんなのもの。・・・」*となっているそうです。”Free”は自由と思って聴いていましたが、「無料」とは思いつきませんでした。
「What's New?」という曲は時々耳にしますが、和田誠の本*を読んでいると < 「ホワッツ・ニュー」を直訳すると「何が新しいか」でありますが、これは日常用語のひとつであって、「どうですか」あるいは「お変わりありませんか」と言った感じがやや近いのだろうと思われる。 /「ホワッツ・ニュー・プッシーキャット」という映画があって、(中略)この映画の日本題名は「何かいいことないか子猫チャン」というものだった。これはやや直訳に過ぎ、「どうだいカワイ子ちゃん」といった感じがニュアンスとして近いものではなかったかと思う。/「ホワッツ・ニュー」は女(あるいは男)が別れた恋人(あるいは夫または妻)と偶然に出会った時の状況を歌った歌である。/「お変わりない?」(後略)> とありました。なるほど、言葉の背景が分かると、唄に深みが出てきます。
こう言われたら、「あなたはいかが?」と聞き返すことになりますが、「How about you?」という題名の唄もあります。わたしもアニー・ロスの歌ったものやビル・エヴァンスの演奏した CDが棚にありました。こちらは 「わたしは六月のニューヨークが好き。あなたはどう? わたしはガーシュウインの歌が好き。あなたはどう?・・・」というような唄で、「What's New?」への返事とは無関係な内容です。
そういえば「SSブログ」の管理トップに What's new? と書かれていますが、これは「お知らせ」のことなんでしょうね。
*和田誠『いつか聴いた歌』(文藝春秋)
#「唄をめぐるエッセイ」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2023-07-10
あのころの暮らし [読書]
昔の写真を見ると、今では見かけなくなった物が写っています。そういえば風呂敷も最近は見なくなりました。どこかのお家へ菓子箱を包んで持参したり、書籍をくるんで持ち歩いたり、スイカを運んだり・・・用途によって絹と木綿を使い分けました。1970年代ごろに丈夫な手提げ紙袋が普及して、風呂敷は廃れたのでしょう。
風呂敷は子供の暮らしにも必需品で、股旅ものの合羽になったり、月光仮面のマントになり、鞍馬天狗の頭巾にもなりました。
山本夏彦・久世光彦『昭和恋々 あのころ、こんな暮らしがあった』(清流出版)は左ページに古い写真を載せ、そこに写った”物”についてのエッセイを付けていますが、前半は「戦前を見に行く」と題して、山本夏彦が担当し、後半は「過ぎ行く季節のなかで」として久世光彦が分担しています。最後に二人の対談が付いています。
左ページの写真を眺めると、二人のエッセイとは別に、写っている物にまつわる個人的な思い出や感慨が浮かんできます。山本夏彦は大正4年東京生まれ、久世光彦は昭和10年東京生まれ、わたしは昭和23年兵庫県生まれなので、「あのころ」といっても、思い浮かべる時代も場所もそれぞれ違っています。
二人の対談の始めに久世も、<(前略)先生が言う「あのころ」と私の「あのころ」では、かなり違うと思います。先生は昭和十年から遡って関東大震災(大正十二年)のころまで。私は(中略)昭和十五年ごろから、東京オリンピック(昭和三十九年)の前あたりが私の「あのころ」だと思っています。> と語っています。わたしにとって「あのころ」とはいつだろう? 昭和30年ごろから1970年代でしょうか。山本夏彦の「あのころ」の話はわたしには知らなかった事柄が多く、啓蒙的でした。
駄菓子屋の写真に山本夏彦は、< 広い東京だから駄菓子屋の五軒や十軒はまだ残っているだろうが、雑司ヶ谷の鬼子母神(きしぼじん)境内の店を駄菓子屋の代表として写してもらった。創業は元禄のころの由、店も建ててから二百年はたっていると九十九まで生きていた先代のばあさんから伝え聞いたと、いま十三代目に当たる女房が言うから本当だろう。> と写真を説明し、続けて駄菓子屋に類した店が舞台になった樋口一葉の「たけくらべ」の世界を取り上げていました。
一方、久世光彦は別のページで別の駄菓子屋の写真を載せ、< 東京・赤坂の一等地一ツ木通りから少し入ったところに、高そうなレストランやクラブの入ったビルに埋もれるように、間口二間ばかりの駄菓子屋が一軒、冗談か嘘みたいに、ポツンとある。(中略)/ 何度、中へ入って、いつからとか、どうしてとか、訊ねてみたいと思ったかしれない。しかし、その度に思い止まる。それを訊いてしまったら、あくる日から、忽然とこの店が消えてしまいそうで、怖いのである。> と久世光彦的に記しています。
こんな調子で、この本には下宿屋、蕎麦屋、割烹着、足踏みミシン、蚊帳、物干し台、七輪、虚無僧・・・など60葉以上の写真がエッセイとともに掲載されています。出版されたのが 1998年なので、それからまた四半世紀が過ぎているので、写真はもう夢、幻の世界のようになっています。お盆の時期に、写真を見ながら、人それぞれの「あのころ」を思い出してみるのもいいかも知れません。
爛漫亭も10年目 [雑感]
今月でブログを始めて、まる9年になりました。そもそも 2014年7月に小学校の同窓会があり、かっての同級生が自分のブログに小学生のわたしが写った写真を upしたので、了承してほしいとのことでした。見るとタブレットに見覚えのある写真が出ていました。
帰宅後、仕事に余裕が出来た時期だったので、ふと、わたしもブログをやってみようかとこころが動き「爛漫亭日誌」を始めました。とりあえず読んだ本などの感想を記録しておこうと思いました。
爛漫亭というのは、自宅のあたりに桜の木が多いので、「らんまん」としました。第1回は 2014年8月9日で、「イェルサンのこと」と題し、P.ドゥヴィル『ペスト&コレラ』辻由美訳(みすず書房)を取り上げました。ペスト菌の発見者であるA.イェルサンの評伝でした。読み直してみると、初回ということで緊張したのか、とても硬い文章になっていました。
以来、週1回位のペースで upしてきましたが、年とともに視力が落ち、読書のペースが遅くなり、わたしが読むものとは別に、家内が文庫本などを朗読してくれるようになりました。幸い家内は読書好きで、1日30分ほどの朗読は苦痛ではないようです。おかげで、島崎藤村『夜明け前』、司馬遼太郎『坂の上の雲』、瀬戸内寂聴訳『源氏物語』、河口慧海『チベット旅行記』、谷崎潤一郎『細雪』などを飽きることなく聴き通すことができ、ブログの題材となりました。
いつの間にか9年も過ぎたのかと驚きますが、この間、義母や同僚、隣人、かっての同級生、兄たちが他界し、孫が二人増えました。わたしも2020年に仕事を辞め、転居し、ちょうど新型コロナ騒動と重なって、病気と付き合う歳月になりました。身辺の出来事はいろんな感慨をもたらしました。
自由で気ままな生活に、句読点を打つように、週1回ブログを書くのが習慣になったようです。折にふれてよみがえる記憶も含め、「聴いたこと見たこと読んだことしたこと感じたことの記録」を、つれづれにまかせ、綴っておこうと思っています。
麦わら帽子の夏 [雑感]
猛暑が続いています。朝から室温が28℃もあり、雨戸を開けると蝉の大合唱です。熱中症が身近に感じられ、脱水がないか、つい皮膚をつまんでみます。子供のころ、夏には麦わら帽子を被り、虫取網を持って蝉取りをしたり、午後には家から海水パンツひとつで海水浴に出かけたりしましたが、今ほど暑くはなかったように思います。
先日、作家の森村誠一さんが亡くなられましたが、わたしは読んだことがないのですが、昔、「人間の証明」という小説の映画化のテレビ宣伝に、西條八十の「ぼくの帽子」*という詩が使われていたのを思い出しました。
ー 母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谿底へ落としたあの麦稈帽子ですよ。
(後略)
「麦稈」というのは麦わらを真田紐のように編んだもので、麦わら帽子の材料なのだそうです。喪失したものへの愛惜、それには母への追慕がひそんでいるとも感じられ、いっとき感傷にとらわれます。
1976年から始まった角川映画の第2作でしたが、「読んでから見るか、見てから読むか」など宣伝がキャッチーでした。この西條八十の詩句も多くの人の耳底に残っていることでしょう。
今年は暑くて長い夏になりそうです。このままでは甲子園球児も消耗することでしょう。観客も麦わら帽子をかぶる程度で観戦できる天候であってほしいものです。
*題および詩句は初出雑誌、詩集、全集によって異同があるようです。(追記)