隣の人々 [雑感]
ロシアがウクライナに侵攻して1年になりますが、どんな国が隣にあるかによって、災厄を受ける度合いが異なってくるようです。歴史的にウクライナ、ポーランドなどはロシアの侵略を被りやすいようです。
ひるがえって日本を見れば、豊臣秀吉の朝鮮出兵など、日本は朝鮮半島に関心があるようです。朝鮮の人々は、何百年かごとに日本が攻めて来るという警戒心を無意識にでも持っているかも知れません。
ロシアといい日本といい何か国力膨張時の地政学的な行動パターンがあるようです。言うまでもなく、日本とロシアも隣国どうしで、日露戦争を戦った間柄でもあります。
日本国内に目を向ければ、たとえば東北地方は歴史上、常に征伐され続けている地域です。平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂による征服、源頼朝による奥州藤原氏の討伐、明治新政府軍による奥羽越列藩同盟軍の討伐などと征服が繰り返されています。東北の人々はいつも攻めて来る西方の人々に対して、何らかの心情を抱いているかも知れません。
こういった歴史的な行動様式は変更することができるのでしょうか? 迷惑な隣国への対処方法、また迷惑な国にならないための方策を考えるのは、千年単位の課題だと思われます。
ただ、人類学者のエマニュエル・トッド*は、こども達が結婚しても親と同居する「共同体家族」であるロシアや中国では、父親の権威の下で暮らしているので、政治的にも権威者に従う社会になるというようなことを書いていました。結果、「核家族」で自由主義である米・英とは齟齬をきたす。その国の伝統的な「家族のかたち」が、政治体制に影響を及ぼすとするなら、その国の政治的な行動様式を変更するには、多大な時間を要するのかも知れません。
*エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』(文藝春秋)
早春の歌 [雑感]
日差しが明るくなっていますが、風が冷たく散歩に出かけるのをためらいます。梅林の開花やプロ野球のキャンプの話題が伝えられ、春が近づいている気分にはなります。新型コロナの第8波も収まりかけているので、これでいつもの春がやって来るのかと、やや安堵した気持ちになります。
しみじみとけふ降る雨はきさらぎの
春のはじめの雨にあらずや (若山牧水)
毎年、この季節になると、一雨ごとに暖かくなり、湿度も増し、インフルエンザが消退していく気になっていました。新型コロナも呼吸器感染なのに、季節性が無いのは不思議です。
風さむき早春の街用のあるごとく
無きごとくあゆめるあはれ (佐藤佐太郎)
近頃は、特に用もなく出歩くことが増えました。行ってもいいし、行かなくてもよいといった自由さです。時間に縛られないという気楽さは、幼児のとき以来かも知れません。あまりの自由さにとまどい自嘲する気持ちも感じられます。
わが心に光さしくるこの朝け
一花(いつくわ)ひらきて春はいたらむ (安田章生)
昨日は海岸に出かけましたが、海辺は思う以上に風が強く、帽子が飛ばされるほどで散歩はできませんでした。路傍に水仙が咲き始めていました。近くの漁港で太刀魚やアカイカ、ヒイカ、モンゴイカなどを買って帰りました。春の食卓の気分です。
晴れやかな音楽 [音楽]
この間からハイドンを聴いています。なんとなく近代の音楽がウットーシク感じられ、久しぶりに彼の交響曲(第93-104番)をかけてみました。以前はハイドンは単純で、面白くも何とも無いと思っていたのですが、今回は晴朗な空のように感じられ、気持ちよく気晴らしになっています。
ハイドンはモーツァルトのように才気走ったところがなく、ベートーヴェンのような押し付けがましさがなく、マーラーのような鬱陶しさがなく、更にはバッハのような抹香くささもありません。
ハイドン(1732-1809)はオーストリア生まれですが、アメリカ初代大統領ワシントンと同い年で、日本では八代将軍吉宗の時代で、与謝蕪村とは同時代人です。
彼は 100曲以上の交響曲を作っています。モーツァルトが 41曲、ベートーヴェンが 9曲なのに比べると、多作ぶりが際立っています。また、ハイドン以前の作曲家の交響曲というのも一般的ではありません。小学生の時に、彼を「交響曲の父」と習ったのも頷けます。
交響曲が人間の心模様を表現しているとすれば、ハイドンから 200年の間に、人間の心は色んな領域が発見され、膨張し拡大したように思われます。ハイドンでは各楽章が4~9分でたりたのが、20世紀のショスタコーヴィッチなどでは、20分を超える長大さが必要になっています。
心のひだを曝け出したような 19世紀以降の音楽は、日常的に聴くには胸につかえ、胃にもたれて体にこたえます。そういう意味では、ハイドンは一曲の清涼剤です。聴きながら、気持ちよくうたた寝していると、ビックリさせてくれたりもします。しばらくは春の空のような音楽が楽しめます。
また 家族のかたち [読書]
昨年末から読み始めたエマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』(文藝春秋)は、やっと下巻の100頁ほどまで読み進みました。翻訳本は忠実に訳そうとすると、もって回った文章になり、まどろっこしくなります。そんななかで所々、フランス人である著者のおもしろい考察に出会います。
< アメリカなるものは事あるたびに、われわれヨーロッパ人にそれ自体として矛盾した二重の印象をもたらす。最も先進的だという意味で「モダン」を体現しているように見えるアメリカが、それでいて同時に「未開」だとも感じられるのは一体なぜなのか。われわれは前々から訝(いぶか)しく思ってきた。いつも心の中で、「彼ら(米国人)は明らかに先を行っている。そのくせ、およそまったくと言ってよいほど洗練されていない」と呟いている。>
ヨーロッパ人から見たアメリカ人の不可解さを率直に述べています。そして意外な結論を引き出します。
<彼らは、ほとんどまったく洗練されていないからこそ、先を行っているのである。ほかでもない原初のホモ・サピエンスが、あちこち動き回り、いろいろ経験し、男女間の緊張関係と補完性を生きて、動物種として成功したのだ。 >
つまり、アメリカ人は、狩猟採集時代のホモ・サピエンスがそうであったように、「核家族」で、自由主義で、武器で自衛する社会に生きていると言います。
< 他方、中東、中国、インドの父系制社会は、女性のステータスを低下させ、個人の創造的自由を破壊する洗練された諸文化の発明によって麻痺し、その結果、停止してしまった。>
ユーラシア大陸の長い歴史を持つ文明発祥地と、英米のような辺縁地との家族システムの違いによる現れを戯画的に解説しています。文明発祥地では「進化」した家族システムを作り上げたのに対し、辺縁地では原初の核家族が残存した。
また、家族システムがイデオロギーに及ぼす影響の一例としてーーードイツ、日本などの後継ぎを一人に絞る直系家族では、子供たちは不平等であり、結果、人間は不平等が当たり前という意識が形成されると指摘しています。そのような社会では、「兄貴分」と「弟分」の序列の中で生きていくとしています。
そういえば日本の組織におけるタテ構造や、日韓米の外交関係など思い当たる面があります。また、英語を習い始めた頃、英語には兄弟はあっても、兄や弟という単語がないのを不思議に思ったのを思い出しました。「家族のかたち」の違いの現れなのかも知れません。まだまだ E.トッドの論考は続きます。目の付け所がおもしろい、楽しい読書です。