明治の娘 [読書]
明治という時代は、新しく国を作り変えるという意気込みで、驚くような試みが行われています。女子教育への取り組みとして政府は、アメリカへの女子留学生を募集しました。これに応募したのは5人でした。
吉益亮子 15歳 東京府士族 秋田県典事 吉益正雄娘
上田悌子 15歳 外務省中録 上田畯娘
山川捨松 12歳 青森県士族 山川与七郎妹
永井繁子 9歳 静岡県士族 永井久太郎娘
津田梅子 8歳 東京府士族 津田仙娘
年齢は数え年です。政府は各人に旅費と年に千ドル(1ドル=1~2円)の学費を支給しています。因みに明治19年の小学校教員初任給は月5円だったそうです。
明治4年(1871)12月、留学生たちは岩倉使節団に同行し、船でサンフランシスコに着き、大陸を横断してワシントンD.C.に向かいます。使節団には岩倉具視のほか、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、中江兆民などがいましたした。
津田梅子はワシントンのランマン家に寄宿します。チャールズ・ランマンは日本公使館の書記をしていた人で、夫妻には子供がなく梅子は 11年にわたり実子のように育てられます。8歳のときキリスト教の洗礼を受けています。
1984年になって、梅子が育ての母・アデリン・ランマンに宛てた私信が多量に発見されました。17歳になり日本に帰国した梅子はアデリンに英文の手紙を日記のように送っていました。小説家・大庭みな子がその手紙を読み解きながら伝記『津田梅子』(朝日新聞社)を書いています。
< ・・・ああ、言葉だけがもっと簡単とり戻せたら・・・私は手も足も縛られて、その上耳も聞こえず、口も利けないのです。父は何か教科書を買ってくれると言っていますがまだ実現していません。・・・(1882年11月29日)>
7歳で日本を離れ 11年間アメリカで育った梅子は日本語が分からなくなっていました。
< ・・・みんなが私たちに幾つかと訊きますが、日本ではそう訊くのが失礼ではなく、確かに私たちは平均の結婚年齢は過ぎています。大抵の女性は十五、六、七、八で結婚しますが、これは日本式の数え方で、アメリカ流では更に二年ほど少ないのですから平均の結婚年齢は十四から十六ということです。・・・結婚しなくてもかまわないと密かに思っています。日本の夫たちが妻に従順を求めるだけで少しの愛情も尊敬もなく扱う限りは、結婚しても嫌なことばかりでしょうから。・・・(1882年12月23日)>
17歳の梅子は、帰国早々から結婚をどうするかと悩んでいます。また、国費留学したのに政府から適当な仕事を言ってこないので、自分たちは忘れ去られたのだろうかと不安になっています。
帰国後1年ほどして、梅子は伊藤博文の依頼を受け、伊藤家に住み込み伊藤夫人や娘に英語のほか西洋の習慣礼儀を教え、通訳を務めることになります。
< ・・・伊藤氏は西欧的な考えを持ちながら、彼自身は道徳的ではありません。彼は東京の家では洋館の二階に住んでいます。私は洋館にいても詳しいことはわかりませんが、よく外泊するようです。このことを知っているのは召し使いだけで、伊藤夫人は知っていながらあまり気にしてないようです。・・・>
1884年6月、母親の出産を手助けするため梅子は伊藤家を辞し実家に帰りました。翌年9月から梅子は伊藤の口利きで、新しくできた華族女学校に奉職します。12月、内閣制度ができ伊藤は初代総理大臣になりました。
梅子はだんだんと、官立の学校教育には国家の方針があり、自分が夢見るものと一致しないことに苛立ちを覚えるようになり、いずれ自分自身の私立の学校を創りたいと思い始めます。
教育者となるため大学教育を受ける必要があると考え、梅子は明治 22年(1889)、再度アメリカへ向かい、3年間の留学をします。
1900年、36歳となる梅子は「女子英学塾」を麹町に開設します。開校式の式辞で梅子は述べています。
<・・・英学塾の目的は色々ありますけれど、将来英語教師の免許状を得ようと望む人々のために、確かな指導を与へたいといふのが、少なくとも塾の目的の一つであります。・・・>
7歳でアメリカに国費留学するという特異な経験を経てたどりついた結果です。女子英学塾は津田塾大学へと発展してゆきます。
津田梅子(元治元年1864-昭和4年1929)の父、津田仙は佐倉藩士の家に生まれ、後、幕府御宝蔵番の津田家の婿養子になります。仙は蘭学、英学を学び、幕府の外国奉行に勤めていました。そういう意味では父娘二代にわたる英語への夢だったのでしょう。
著者の大庭みな子は書き始めるにあたって、昭和 24年、津田塾大学に入学したとき、満開の桜の下で、かっての卒業生と思われる老婦人が、「あなた、津田先生って、カエルの卵の研究をしていらしたのよ。アメリカの大学で」と語りかけてきた記憶を懐かしく蘇らせています。
ポピュラー・ソングの楽しみ [音楽]
家族からチョコレートをもらって、おやつに摘んでいます。バレンタインといえば「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」という唄が思い出されます。チェット・ベイカーの歌声やマイルス・デイヴィスの演奏が耳に残っています。
題名でファニー(funny:滑稽な)というように、歌詞をみると Your looks are laughable/unphotographable (あなたの容姿はお笑いぐさで写真にもできない)と散々な言われようです。それでもいいと言ってくれるのだから有難い唄です。
これは L.ハート作詞/R.ロジャース作曲ですが、わたしがアメリカの古い唄を聴くようになったのは、ローズマリー・クルーニーという歌手がコール・ポーターが作った唄を歌った CDを買ったのがきっかけでした。
コール・ポーターの唄は「 I'VE GOT YOU UNDER MY SKIN 」とか「 I CONCENTRATE ON YOU 」などと言葉の使い方が新鮮で、どんな意味だろうと興味が惹かれます。これらはどちらも「あなたに夢中/とりこ」といった意味のようです。「 LOVE FOR SALE 」などと放送禁止になった曲もあります。
コール・ポーター(1891-1964)について、< こうしたスラブ風の曲調や中南米風のリズムが、どのようにしてアメリカ中西部出身のプロテスタントの少年にもたらされたのか(中略)ほかのどのソングライターの曲とも違っていたーーー(中略)コール・ポーターがわれわれに遺してくれたのは、永遠の若さという幻想なのだ。 >と記していた本*がありました。
ヘレン・メリルの声でおなじみの「 YOU'D BE SO NICE TO COME HOME TO 」は以前、「帰ってくれたら嬉しいわ」と訳されていましたが、意味の取りにくいシャレタ英語です。最後の「TO」は何なのか?
IT WOULD BE SO NICE TO COME HOME TO YOU ということなんだそうです。「YOU」を強調して前に出した構文になっているのだそうです。意味は「君が待つ家に帰れたらとても素敵なんだけど」といった感じです。戦地の若い兵隊が故国の恋人に語りかけている雰囲気です。唄を聴いているとその背景にいろんなものが見えてきます。
*ウイリアム・ジンサー『イージー・トゥ・リメンバー アメリカン・ポピュラー・ソングの黄金時代』(関根光宏訳 国書刊行会)
氷を愛す [読書]
立春も過ぎ、寒いながらも日足が延び、戸外が明るくなってきました。例年ならインフルエンザが流行っている時期ですが、相変わらずオミクロン株が猛威をふるっています。来週位にはピークになるのでしょうか? 先日、3回目のコロナ・ワクチンを打ちました。わたしは当日の夜に微熱がありましたが翌日には改善しました。家内は節々が痛く倦怠感が強いと寝込みました。
北京オリンピックが始まりましたが、まだ熱心に観戦する気が起こりません。元もと雪や氷には縁のない地方に暮らしているので、スキーやスケートには馴染みがありません。ただ、4年に一度の大会なので、選手にとってはいろんなドラマが待っていることでしょう。そのうちつい惹きこまれて、テレビ観戦が楽しくなるかもしれません。
日曜日の新聞の書評欄に、室生犀星『我が愛する詩人の伝記』が取り上げられていたのを読んで、高校時代の教科書に載っていた犀星の詩を思い出しました。
「切なき思ひぞ知る」 室生犀星
我は張り詰めたる氷を愛す。
斯(かか)る切なき思ひを愛す。
我はその虹のごとく輝けるを見たり。
斯る花にあらざる花を愛す。
我は氷の奥にあるものに同感す。
その剣のごときものの中にある熱情を感ず。
我はつねに狭小なる人生に住めり。
その人生の荒涼の中に呻吟せり。
さればこそ張り詰めたる氷を愛す。
斯る切なき思ひを愛す。
授業中、国語の先生に、この詩の6行目の「剣」は「つるぎ」ではなく「けん」と読んだ方が語感が鋭くて詩の内容に相応しいのではないかと、質した記憶があります。高齢の先生は何かもぐもぐと口ごもりながら答えてくれました。わたしも生意気盛りだったのでしょう。
昭和36年、犀星は野間文芸賞受賞の記念に、自分が住んでいる軽井沢に自費で文学碑を建て、碑面にこの詩を刻んだそうです。寒冷地で暮らしているからこそ出来た詩だと感じられます。
横綱になれるか? [スポーツ]
大相撲の御嶽海が大関に昇進して、長野県出身の大関は江戸時代の雷電為右衛門(1767-1825)以来だと話題になっています。そんなに長野県には強い相撲取りが居なかったのかと驚きましたが、さて自分の出身地から大関・横綱が出たことがあるのかどうかは不明です。
雷電は 16年間にわたって大関を保ち、生涯で 10回しか負けなかったという最強力士でしたが、なぜか横綱にはなっていません。
宮本徳蔵『力士漂泊』(講談社文芸文庫)を見てみると、当時、相撲取りはほとんどが大名のお抱えで、谷風(横綱)は仙台・伊達、小野川(横綱)は久留米・有馬、横綱授与権を持つ吉田司家は熊本・細川の家臣で、それぞれ外様大名だったのに対し、雷電は譜代大名の松江・松平のお抱えだったので、外様諸藩が雷電の横綱昇進を妨害したと記しています。外様は老中にも若年寄にもなれない鬱屈を相撲で晴らしたとのことです。
それでは長野県出身の有名なプロ野球選手はいるのかと考えてみても、思い浮かびません。隣県の山梨県なら堀内恒夫、愛知県ならイチロー、とすぐに思い当たります。
誰かいるかと調べてみると、なつかしい名前がありました。松本深志高校出身の土屋正孝。わたしがプロ野球に興味を持ち始めた昭和 30年代の巨人の二塁手です。当時の巨人の内野陣は一塁・川上哲治、二塁・土屋正孝、三塁・長嶋茂雄、遊撃・広岡達朗でした。ただこの中では土屋は最も地味な選手だったかも知れません。
雷電以来の大関・御嶽海は雷電を超えて横綱になれるか? 長野県人にとっては200年来の懸案かもしれません。