平成の歳末 [雑感]
「冷たい」の語源は「ツメが痛い」だそうですが、朝、仕事を始める前に、手を温めなければならない時節になりました。指をしもやけで腫らした人に、どんな仕事か聞いてみると、早朝、鶏卵を素手で集めているとのことでした。細心の注意が必要な時は、やはり素手がやり易いのでしょう。
橋が表裏両面から冷えて凍るように、耳もよく凍傷になります。それでも、小学生の頃を思い出すと、しもやけになりやすい人とそうでもない人がいるようです。最近はアカギレというのはあまり見かけません。こどものころ、よく踵が切れて黒い膏薬を火で温めて貼ったものです。
今年もあと少しになりましたが、いろいろ、解決しなければならない事柄が、誰にもあるようで、歳末のせわしなさにせき立てられます。まだ、来年のことを考える余裕はありません。
気になっていた片山杜秀の本が2冊、本屋の新書棚に並んでいました。そのうちの『平成精神史』(幻冬舎新書)というのを買ってきました。「平成」はわたしの40から70歳という仕事に熱中した時代と重なります。どんな区切りだったのか、正月休みにでも振り返ってみようかと思います。
行く年や猫うづくまる膝の上 (漱石)
ことしの読書 [読書]
このあいだの毎日新聞に「2018 この3冊 上」として、20人の書評担当者が推薦本・各3冊を挙げ、短評を付けていました。今年はどんな本が出たのか、本を読む参考になります。来週にも「下」が載るので、まだ分かりませんが、何人にも重なって取り上げられている本は少なそうです。
わたしが読んだ本はあるかなと、見てみると、張競さんが三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』(講談社)を載せていました。「言語や文学の境界を横断し、文学史、宗教史、思想史、ひいては文明史的な哲学思考になっている。」と評しています。
この 550頁の本には難渋しています。あと 60頁ほど残っています。例えば、いま読んでいるところでは・・・< 眼は距離をもたらし、距離は猶予をもたらし、猶予は思考をもたらした。その必然的な流れのその必然性は、眼前するものを疑うこと、自分は騙されているのではないかと疑うこと、要するに騙し騙される領域の持つ必然性にほかならない。 >といった調子です。
分かる部分もあり、理解の及ばないところもあります。ただコツ、コツと文字を追っています。ここまでくれば、あとのページで、どんなことが語られるのかを楽しみにするほかありません。
今年はどんな本を読んだのか?
1)唐沢孝一『目からウロコの自然観察』(中公新書)
2)『日本文学全集 07 枕草子 方丈記 徒然草』
(酒井順子、高橋源一郎、内田樹訳)(河出書房新社)
3)島崎藤村『夜明け前 第一部』(岩波文庫)
・・・現在、第二部を朗読中。
思いおこせば、古いのが多かった・・・.。
何か変だぞ [雑感]
70歳になってしまったというのは、何か身にそぐわない服を着たような、居心地のわるい気分です。鏡を見れば確かに、そこに、よくみる 70歳のヒトの顔があります。
さてさて、こんなになるまで生きてきたもんだと、あきれた気持ちにもなり、また、自分ではそんなに変わったとも思わないのに、肉体はちゃんと年相応になっている。身にそぐわないのは、気持ちの方なのか。
両親とも 70歳で鬼籍に入ったので、こんな歳になってしまったと感慨に耽ります。親もこんな身にそぐわない気分のまま、暮らしていたのかと、今になって想像します。何か変だぞ。
恐る恐る足を前に出す。サイズの合わない靴でも履いたように。これからは未体験ゾーンに入り込むような、ちょっとした恐怖と、どうにでもなれという心づもりで、やはり動きは少しぎこちなくなります。
70年は長いようでもあり、ただ、多くのことを忘れてしまったので、記憶の総量は、そんなに大量でもなさそうで、頭は軽いままです。身にそぐわない服を着て、今日の晩飯を食べ、訳のわからない夢にうなされたりしながら、70歳はやっぱり、何か変だぞとつぶやいてみる。