鎌倉のドラマ [雑感]
なぜ源頼朝は、こんな狭い鎌倉に幕府をひらいたのか ? 先月、岡の上から鎌倉を俯瞰したとき疑問に思いました。
家内が司馬遼太郎『街道をゆく 三浦半島記』(朝日文庫)を読んでいたので、聞いてみると、頼朝が挙兵して敗戦し、房総半島に逃れたとき、千葉介常胤という老人が三百騎をひきいて参陣したそうです。
<常胤は、いつも居眠りしているような容貌のもちぬしだった。
「相模に、鎌倉というところがあります。」
と常胤がいったのは、この対面のときである。こんなところをうろうろしているよりも、早くそこをめざしなさい、三方山にかこまれた要害の地で、父君の義朝殿も、一時期、そこに居館をもたれたことがあります、などと語った。
頼朝に、めざすべき目標の地ができた。>・・・ということだそうです。
高校生のころ『義経』という大河ドラマをみました。尾上菊之助が義経で、藤純子が静御前、弁慶は緒形拳でした。記憶にありませんでしたが、頼朝は芥川比呂志で平清盛は辰巳柳太郎が演じたそうです。 残念ながら当時の映像は残っていないようです。
鶴岡八幡宮で捕らえられた静が舞う場面は憶えています。 樹齢千年といわれた大銀杏は平成22年3月10日未明、雪まじりの強風に倒れたそうです。
名前の記憶 [読書]
昨夜、ひさしぶりに旧友と電話で話していると、「仕事はどうしているの?」と聞くので、「最近は、おもに午前中に働いている」というと、「昼からはどうしているの?」と重ねて訊いてきます。「昼寝してるよ」と答えると、「そりゃーボケるよ」と心配してくれます。
友人が危惧するまでもなく、だんだんと名前がふと出てこなくなりました。画像や性質はよく分かっているのに、名前だけが憶いだせない。内容は熟知しているので、アレコレと説明して、まわりの人に思いだしてもらいます。頭の中では、そのものの実態が重要ですが、頭の外では名前がないと話しがすすみません。
なんとか、一度おもいだすと、しばらくはダイジョウブです。 名前なんぞはラベルに過ぎないと強がりをいうのですが、時々、意識的に思いだしては、心の中で、念仏のように名前を唱え、記憶を強化しています。
そういえば先日買った本の題は『記憶の海辺』(青土社)でした。1940年、姫路生まれのドイツ文学者・池内 紀の自伝です。 安岡章太郎の小説『海辺の光景』は「カイヘンのコウケイ」で、村上春樹は「ウミベのカフカ」ですが、これはどう読むのでしょう。 ペラペラと眺めてみると、海辺に座っている F. カフカの写真が載っていました。
干しダコの味 [読書]
このあいだ頂いた干しダコはまだ食べていませんが、堀井令以知『ことばの由来』(岩波新書)を読んでいると、こんな文章がありました。
<「引っ張りだこ」といえば、方々から求められ期待されるさまのことだが、これは蛸の乾物を作るときに、肢体を引っ張って広げることから来たことばである。一説には、あちらこちらから引き合うさまが凧に似ているからともいう。しかし江戸時代には刑罰の磔(はりつけ)のこともいった。>
おどろいて「引っ張りだこ」を古語辞典でみると、たしかに(2)として磔という意味も書かれています。そういえば、干しダコはそんな形にも見えます。
凧揚げは、与謝蕪村の句「いかのぼり きのふの空の ありどころ」があるように、元来はイカであったのですが、電線もない時代、大はやりしたのですが、大名行列の上に落下したりで禁止になったそうです。それで、これはイカではない、タコだといってする人が現れ、たこ揚げになったそうです。
お正月といっても最近は、凧揚げも見かけませんが、なかなか干しダコにも、深い味わいがあるものです。こころしてタコめしに仕上げなくては・・・と思います。
いざ鎌倉 [徘徊/旅行]
先日、鎌倉へ出かけてきました。天気が良くて温かで、江ノ島の向こうに箱根や富士山が見渡せました。中学の修学旅行以来なので、55年ぶりです。鎌倉は鉄道の幹線からはずれているので、目的にしないと寄りにくい場所です。
鶴岡八幡宮や長谷大仏はむかしの記憶がかすかに残っていました。腰越川という標識をみると源義経のことが思いだされます。それにしても頼朝は何故こんな狭い場所に幕府をひらいたのか不思議です。
昭和12年9月24日、中原中也はともに鎌倉に住んでいた小林秀雄を訪ね、詩集『在りし日の歌』の清書原稿を託しました。いろいろなことがあった二人の最後の語らいでした。
坂の多い町なのでつま先が痛くなります。小腹が空いたので、店を覗くと、どこもシラス丼がおすすめのようでした。磯辺餅をいただきました。
今年はどんな年になるのか・・・犬のように嗅覚に導かれて、さまようのもいいかもしれない。ことしは古稀になります。