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吉野山で散歩 [徘徊/旅行]


 先日、天気が良かったので昼食後、散歩がてら吉野山へ出かけました。紀ノ川にそって京奈和自動車道というのが出来ているので、和歌山の自宅から1時間半ほどです。駐車場に車を停めて、蔵王堂のあたりまで散歩しました。紅葉も終わっているせいか、道を歩いている人は無く、土産物店や食堂も閉まっているようで閑散としていました。



 二十代のころ、奈良県と接する橋本市に2年間住んでいたので、友人などが来ると高野山や吉野山へ出かけました。以来50年、吉野山へは年に1~2回登っています。ただ行くのは初夏から冬にかけてで、吉野山に桜が咲いているのは見たことがありません。桜の季節はあたりは大渋滞でしょうから近づきません。和歌山から吉野山へ電車やバスで行くのは案外不便です。



 そういえば、そもそもわたしが吉野という土地に愛着を感じるようになったのは、大学生のころに読んだ『吉野葛』という谷崎潤一郎の小説に魅了されたからだと思い出しました。20歳のとき、「菜摘の里」とか「入の波(しおのは)」といった小説に出てくる場所を訪れ、嬉しい気持ちになったのを覚えています。『吉野葛』は一言でいって母恋の物語ですが、母が健在であった十代のわたしが、なぜ物語にひきこまれたのか不明です。



 二十代だったと思うのですが、父親と話していて、どんな話の続きであったかは忘れましたが、父が「『吉野葛』はいいね」と言ったのを憶えています。父は早くに父親を亡くし、母親が再婚したため妹とふたり祖父母に育てられていますので、父親がそんな小説を読んでいたのに驚くとともに、そうだろうなと印象深く記憶に残っています。



 また、高校生のころ、テレビの大河ドラマに『義経』というのがあって、頼朝に追われた義経(尾上菊之助)が雪の吉野で静御前(藤純子)と別れる場面があってこころに残っています。たしか白拍子の静御前は「吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」と謡いながら舞ったように思います。



 小説『吉野葛』にも義経と静御前が菜摘の里に滞在したという伝説が出てきます。その折に静御前から貰った「初音の鼓」を保存しているという家を訪れ、拝見する場面があります。谷崎の話の展開の上手さに引き込まれていきます。



 吉野に行くといろんなことを思い出します。帰り道に柿の葉寿司(鯖寿司などを柿の葉で包んだもの)を買って、自宅に着くと日も暮れ、ちょうど夕食の時間になっていました。いつもながらの半日の徘徊です。





吉野葛

吉野葛

  • 作者: 谷崎 潤一郎
  • メディア: Kindle版

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観音さん巡り [徘徊/旅行]

 自宅の近くに紀三井寺があります。地元では「観音さん」と呼んでいます。西国巡礼第二番の札所です。50代のころ、ドライブがてら、ハイキングがわりに、西国巡礼を十数ヶ所めぐったことがあります。ほとんどが休日に日帰りで行ける範囲なので、思いついた時に出かけました。


 

 お寺はだいたい普段行ったことのない場所にあるので、地図を見ながら、迷いながらたどり着きます。こんな事でもなければ行くこともない地域なので、新鮮で、ついでにあちこち見て歩き、楽しい体験ができます。また、第四番の施福寺(大阪府和泉市)などは、長い山道を登るので、ハイキングにもなります。



 西国三十三所巡礼は熊野那智の青岸渡寺を起点に"観音さん"をめぐる巡礼です。観音(観世音菩薩)は悟りの世界から降りてきて、三十三身に化現し、手を尽くして人々を慈悲・救済してくれる存在で、十一面観音、千手観音などとして表現されています。*



 いつからそんな巡礼が始まったのかについては諸説あるようですが、巡礼が広まったのには「花山院」伝説が関わっているそうです。そういえば「ふるさとを はるばるここに 紀三井寺 花の都も 近くなるらん」という御詠歌も花山院が作ったと聞いたことがあります。これも伝説の一部なのでしょう。


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 花山院(968-1008)は冷泉天皇の第一皇子として生まれ、984年に即位し天皇となりましたが、在位わずか2年で出家し、放浪の旅に出ました。白洲正子は、< 花山院は大変複雑な人間なのである。特に傑出しているとか、和歌に堪能というのではないが、入り組んだ性格の持ち主で、矛盾した行為が多い。実際にも「花山院のくるひ」といって、院の奇行は公卿(くぎよう)達の間でも評判であった。>** と書いています。



 19歳で出家・退位後、花山院は書写山(兵庫県姫路市)に性空上人を訪ね、比叡山で修行したあと、熊野の那智に籠ったそうです。時とともに、人々は悲運の院をさまざまな伝説で飾っていったのでしょう。



 わたしの中断した西国巡礼はあと何ヶ所残っているのか、気ままな小旅行として、札所巡りもいいかと思います。


* 『岩波 仏教辞典』(岩波書店)

** 白洲正子『行雲抄』(世界文化社)


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ススキ原で [徘徊/旅行]

 先日、秋の晴天を、かっての同僚と生石(おいし)高原に出かけてみました。標高 870メートルの頂上付近は一面のススキ原です。ここに初めて登ったのは1967年の春で、大学の新入生歓迎ハイキングでした。当時は海南から野上電鉄というのがあって、終点の登山口駅から歩きました。今回は道がよくなっているので山上の駐車場まで車で行きました。


 なんとなく風景の感じは覚えていましたが、はるか西北に大阪湾が見渡せます。これだけのススキ原が毎年見られるのは、早春に山焼きをしているからだそうです。


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 日浦勇『自然観察入門 草木虫魚とのつきあい』(中公新書)には <人間の伐採・火入れなどで裸の土地ができた場合、ススキ草原→アカマツ林→カシ・シイ林、いいかえれば、草原→陽樹林→陰樹林という変化が長年月のうちに進行する。> とあります。


 ススキやアカマツの種子はパラシュートや羽をもっていて、風にのって遠く広くひろがれるのに対し、ドングリの転がる範囲は狭い。そしてススキは数年で成長し、アカマツは数十年かかる。(山焼きをすれば毎年、ススキ原になる)


 ところが、ススキは日当たりを好むから、アカマツが育てば日陰になって衰退する。また、カシやシイの幼木は暗い林床でも生長できる陰樹であるのに対し、アカマツの幼木は日当たりがよくないと生長できない陽樹なので、カシ・シイが育つと日陰になってアカマツは生長できず、最終的にはカシ・シイの林になるのだそうです。遷移という現象です。


 半年ほどまえ、わが家の前の建物が解体され、更地になりましたが、いまは雑草が茂っています。街中に更地ができると夏なら2ヶ月ほどで草ぼうぼうになります。 空地に<繁茂したのはメヒシバやオヒシバ、エノコログサ、イヌビエ、スベリヒュウなどであった。> と唐沢孝一『目からウロコの自然観察』(中公新書)には書いています。


 そして <5〜6年で風散布種子のススキやセイタカアワダチソウなどの多年生植物が進出してくる。10〜20年が経過すると鳥散布種子のアカメガシワ、クワ、センダン、エノキ、ムクノキなどの木本植物が目立つようになる。街中に居ながらにして、草地から林への遷移を垣間見ることができる。> そうです。


 家の前の空地も、観察すれば何十年でも楽しめるのでしょう。興味があればですが・・・。


  秋の日のずんずと暮て花芒(すすき) (夏目成美)


#「キョーミと観察」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2018-04-23

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絵巻と書 [徘徊/旅行]

  出かけた名古屋で少し時間があったので、徳川美術館へ行ってみました。ちょうど「源氏物語絵巻」の「柏木(三)」と「宿木(一)」が展示されていました。毎年この時期に数点ずつ公開されるそうです。


 「源氏物語絵巻」は教科書などに載っていたと思いますが、引き目、鉤鼻のややしもぶくれな顔や、天井のない部屋の内部のようすなどの描写は教科書で見たとうりですが、案外、小さな絵で、九百年近くも前の巻物なので、それなりに燻んだ感じで、豪華絢爛という印象はありません。因みに江戸時代に描かれた「源氏物語絵巻」も展示されていましたが、人の顔は瓜実顔になっていました。


 特別展で良寛の書が百五十点も並んでいました。書道は小学生以来、縁がありませんが、こんなに屈託無く筆が運べたらいいだろうなと思いました。良寛は江戸時代後期の人間で、だんだんと不穏になる世を生きていますが、書にはそんな雰囲気はありません。彼の最期を看取った貞心尼は明治 5年まで生きています。 別に一休の書もありましたが、これはまた気迫に満ちた筆使いです。


 徳川美術館には尾張徳川家に伝わる鎧兜や刀剣、大名道具、茶道具、楽器なども展示されています。人も少ないので、ゆっくり眺めていられますが、こちらの体力がもちません。今回は「源氏物語絵巻」と良寛の書が見られたので、それでよしとする他ありません。

 

  月読のひかりを待ちて帰りませ

       山路は栗のいがの多きに (良寛)


#「寂聴さんの源氏」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2020-01-04

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秋の散歩 [徘徊/旅行]

  やっと秋らしい爽やかな気候になったので、午後、数ヶ月ぶりに志原海岸を散歩しました。歩いても汗もかかず、海からの風が気持ちよく感じられます。波の音が規則的に聞こえ、沖に大きな船が間隔をおいて連なっているのが小さく見えます。


 波打ちぎわには 30メートル程おきに 10人ほどの釣り人が立っています。この季節、アオリイカでも狙っているのかもしれません。道にはこの間からの台風のためか枯れ松葉が敷き詰めたように落ちています。歩くたびに松の香りに包まれます。


 頭上ではトンボが群れて、不規則に飛んでいます。空はうす青く、雲は水平線のほうにしか見えません。目の前を蜂が横切っていきます。


 歩くにつれて、少し夕焼けになってきました。帰り道では風が顔にあたります。道のそばの民家の庭には昼顔が咲いています。少し休憩していると、あたりはすっかり暗闇になっていました。まだ 5時半でした。釣瓶落としといっても通じなくなっているかもしれませんが、暑い、アツイと言っているあいだにも、いつのまにか秋は進行していたようです。


   人に似て猿も手を組む秋の風 (浜田洒堂)


#「散歩の道すがら」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2019-04-09


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海峡の街 [徘徊/旅行]

  瀬戸内海の西の出入口を見てみたいと、下関に行ってきました。何回か電車で九州へは出かけていても、列車は海底トンネルを通るので、海峡をゆっくり眺めたことがありませんでした。思った以上に幅が狭く、600mほどで、こんな水路で外海とつながっているのかと驚きました。潮の流れが勝敗に影響したという源平合戦の壇ノ浦の話(1185年)が思い出されました。


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 海岸の近くに、龍宮のような赤間神宮があります。明治以前は阿弥陀寺といって、海に没した安徳天皇と平家一門を祀っていたのですが、神仏分離で神社になり、「波の下にも都あり・・・」とのことで龍宮造りになっているそうです。境内には安徳天皇陵、七盛塚、芳一堂などがあります。ラフカディオ・ハーンの「耳なし芳一」はここの話だったのかと納得します。


 この辺りは赤間関または赤馬関ともいったそうで、下関は馬関ともいわれます。赤間神宮のそばには 1895年、日清戦争の講和会議の場となった春帆楼があります。李鴻章と伊藤博文、陸奥宗光らが集い、下関条約を締結した所です。だんだんとキナ臭い時代になってきます。


 水路のような海の向こうは九州です。各駅停車で下関の次は門司で、次は小倉、15分ほどで着きます。この海峡を遣唐使船や北前船、軍艦などが行き来していた姿が思い浮かびます。



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駿河のくに巡り [徘徊/旅行]

 今朝はセミが、かよわく鳴いていました。去年は 7月9日が聞き始めだったので、ほぼ同じころです。今年はつい先ごろ梅雨入りしたばかりですが、セミの声を聞くと、もう夏だと思います。


 先日、ふと思い立って静岡へ出かけました。駅前からバスに乗って御前崎の先端に立ちました。梅雨空で風もあり、海は岬の前だけ荒れ、波しぶきが顔に当たります。


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 階段を上がると灯台があります。明治 7年に建てられたそうです。そばに「喜びも悲しみも幾歳月」の歌詞の碑がありました。1957年の木下惠介監督の映画の主題歌です。小学生のころ、母親に連れられて隣町の映画館で観た記憶があります。


 翌日、大井川を見てみようと、東海道本線・金谷から、大井川鐵道に乗りました。線路は大井川に沿って南アルプスの方に登って行きます。1時間乗っても大井川の川幅は広く、川沿いの谷には茶畑が続きます。


 金谷の東隣の島田には、川越えの川会所や宿場の名残のような町並みがありました。この広い大井川を肩車されて渡ったのかと、川堤にに立って向こう岸を見渡しました。


 少し時間があったので、清水から三保の松原へ行ってみました。砂浜に出ると、海の向こうに伊豆半島が微かに見え、松原の向こう雲の上に、わずかに富士山が頭を出していました。




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新幹線から見える [徘徊/旅行]

   新幹線は車窓の風景を眺めるのには適していません。東海道もいつまでたっても、富士山くらいしか、見たという実感がわきません。いろんな物が見えているはずなのに・・・。


 一坂太郎『カラー版 東海道新幹線歴史散歩』(中公新書)をみると、大井川は新大阪駅から 325キロ・1時間26分、東京駅から 190キロ・58分にあるそうです。


   熱田(宮宿)から桑名へ海上を渡る「七里の渡し船着場跡」は新大阪駅から 180キロ・53分、東京駅から 334キロ・1時間31分で E席側に見え、その後ろに熱田神宮の森が見えるそうです。


 新幹線は移動の手段としか思えないのですが、あらかじめこの本で時間と、どの席側かを調べておけば、いろんな物が見えるようになりそうです。移動中の退屈しのぎによいかもしれません。





東海道新幹線歴史散歩―車窓から愉しむ歴史の宝庫 (中公新書 1915)

東海道新幹線歴史散歩―車窓から愉しむ歴史の宝庫 (中公新書 1915)

  • 作者: 一坂 太郎
  • 出版社: 中央公論新社
  • メディア: 新書

  

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峠越えの趣味 [徘徊/旅行]

 柳田國男「峠に関する二三の考察」を読んでいると、近江は四境ことごとく山なので、隣国へ越える五十二の峠路があると書いてあります。山城へ十八、伊賀へ八、伊勢へ九・・・といった具合です。


 山の鞍部を越えていくのが楽ですが、そんな部位を古くは「たわ」もしくは「たをり」と言ったそうです。今日の「たわむ」と語源を同じくし、柳田は「たうげ・峠」もそこから来ているかもしれないと述べています。そういえば昔、「田和」さんという同僚がいたのを思い出します。


 峠道は新しい道が開発されると、すぐ廃れてしまいます。まず沢を登る道ができて、次に物を運ぶに便利な勾配のゆるやかな道ができ、トンネルができてといった具合です。その都度、村落や茶店が古い道に取り残されます。


 「山岳会」に対抗して、峠越えの楽しみを報告し合う「峠会」を作りたいと、明治43年(1910)、35歳の柳田は冗談めかして書いています。


  山路来て何やらゆかしすみれ草 (芭蕉)



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散歩の道すがら [徘徊/旅行]

 ぶらりと散歩するのに、ちょうど良い天気なので山村を少し歩きました。熊野古道で出会うのは欧米人ばかりで、日本人を含め東洋人にはすれ違いません。何か趣味の違いでもあるようです。


 以前、やや太り気味のひとに「夕食後に歩いてみたら」と勧めると、「夜にその辺を出歩いていると、不審者と間違われる」とのことでした。用もないのに散歩などしているのは変なヒトという、まっとうな感覚です。


 国木田独歩『武蔵野』は明治31年の発表ですが、落葉樹林を散策する楽しさを発見しています。独歩は中国地方でこども時代を過ごしているので、武蔵野の広葉落葉樹林が目新しく感じられ、ツルゲーネフの小説の舞台が連想されたようです。


 当地は、南国ですので雑木はツバキ、ウバメガシといった照葉樹が多く、冬でも落葉が少なく、武蔵野とは風景が異なります。関東から来たいとこを山村に案内すると「緑が濃いなー」と驚いていました。


 この辺りでは、昔はツバキの葉で刻みタバコを巻いて喫う風習があったそうです。ウバメガシは備長炭の原料です。 変なヒトと思われないように、用事でもあるような顔をして、そそくさと歩いたほうがいいかなと、思ったりします。





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