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4年ぶりの子どもたち [雑感]

 春休みで千葉に住む長男一家が、4年ぶりに帰省しました。成長期の子どもたちは身長が伸び、上の子どもはわたしを見おろすようになっていました。4月から高校生で、大人の冗談にも切り返すようになりました。自分の高校生時代を思い出し、まあ、大人への階段を登り始めているのだろうなと微笑ましく思えました。わたしの本箱にあった英語版のチャーリー・ブラウンの漫画を見つけて、「これ、もらうよ」と抜き出していました。下の子は得意げにトランプ手品を見せてくれました。



 長男は年度末で多忙とかで、帰省中も別室でテレビ会議をし、家族より先に帰って行きました。40代で働き盛りなのでしょう。わたしが子どもたちが成長期であった時代も、仕事に熱中していたなと振り返る思いでした。



 千葉へ帰る日になって、下の子どもが「のどが痛い」と言い出し、鼻水も出しています。「うむ、熱は?」と聞いても、しんどそうに横になっています。慌てて薬局へコロナ抗原検査キットを買いに走り、神妙に家内と嫁が検査したのですが、陰性で、一同安堵しました。帰るのを1日延期してようすを見ましたが、発熱もなく、痛みも改善して、今日は無事に帰りました。



 もう、そろそろ子どもたちだけでも、やって来れそうです。次は夏休みにでも来て、わたしの本箱や CDラックを荒らすようになればと、楽しみにします。4年ぶりの子どもたちの成長に驚いた5日間でした。



#「セミの鳴きかた」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2019-08-06

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個人的な感想 [読書]

 去年の秋、学生時代に買ったまま未読だった大江健三郎『洪水はわが魂に及び』を取り出して読み始めたのですが、四分の一ほど読んで止めました。物語の世界に入り込めなくて、読むのが苦痛になりました。もしかしたら買った時も、途中まで読んで止めたのかもしれません。もう 50年も前のことです。



 大江健三郎の小説は『奇妙な仕事』、『飼育』、『個人的な体験』などを読み、『万延元年のフットボール』(1967年)の世界に魅惑され、短篇集『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(1969年)では話の作り方が上手だなと感心した憶えがあります。その流れで『洪水は・・・』(1973年)が出版された時に読もうとしたのでしょう。本箱には、その後に出た『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)も未読のまま立っています。大江健三郎とは 1970年代以降、気になりながらも疎遠になったようです。



 1960年代末ごろ、評論家の江藤淳が「大江の小説はもう読まない」と言った記憶があります。当時、わたしは江藤淳の『成熟と喪失 ”母”の崩壊』(1967年)という評論に感服していたこともあり、大江の新作への違和感から、江藤淳に同感する気分だったように思います。その後、その江藤淳も鼻につくようになり、読まなくなりました。



 では、1970年代は何を読んでいたのか・・・思い返せば、開高健とか司馬遼太郎の随筆なんかが思い当たります。そういえば数年前、書店で目にした対談集*で、大江健三郎は開高健について、「話をするとあれだけ面白いのに、物語が作れなかった」というふうなことをしゃべっていました。なるほど、大江と開高との違いとも言えるなと納得した憶えがあります。



 先日、大江健三郎が 88歳で老衰で亡くなったという記事をみて、思い出したことを書いてみました。わたしにとって、大江健三郎は、やはり『万延元年のフットボール』が一番かなと思案します。



*大江健三郎・古井由吉『文学の淵を渡る』(新潮社)






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会話を聞く楽しみ [読書]

 電車に乗って退屈していると、隣の乗客たちの会話が耳に入ってきます。聞くともなく目をつむっていても、つい聞き入ってしまうことがあります。「対談集」を読むのは、そんな場面と似た感じがします。ちょっとした退屈な時間を、会話を聞いて過ごす。面白くてもこちらからは合いの手は入れられない。



 『おとこ友達との会話』(新潮社)白洲正子の対談集です。1990年代に雑誌などに載せたものを 11篇集めています。相手は赤瀬川原平、前登志夫、仲畑貴志、尾辻克彦、青柳惠介、ライアル・ワトソン、高橋延清、河合隼雄、養老孟司、多田富雄です。



 たとえば、吉野に住む歌人の前登志夫の篇では、わたしが日頃親しんでいる『句歌歳時記』の編者・山本健吉が話題になっています。



 繊細で非常に真面目で、むちゃくちゃなさらないから。吉野に来たら、無頼派なんですが。

白洲 あっははは。

 僕が酔っぱらって、ヤマケンさん一緒に飲みに行こうとかいって、夜遅う、僕の家へ来たの、夜中の一時なんですよ。家内、怒ってね、「あんた、毎日、毎日、何うろうろしてるの!」言うたらね、後ろにヤマケン先生が衣紋竹みたいに立っていらっしゃる(笑)。家内が慌てて、「泊まっていってゆっくりしてください」言うたら、いきなり「奥さん、カセットを出してください」って。私、吉野伝授しとこうと思います、言うてね。それで、深沈たる山中の静寂の中で「上野発の夜行列車降りた時から ・・・」言うて歌い出したんです。続いて、僕は肺が片方だから、もうちょっと落とします言うてね。結局、「おんな港町」と二曲歌われた(笑)。その時の雑談も入ったカセットがありますよ。

白洲 変な吉野伝授ね(笑)。演歌がお好きだったでしょう。



 たわいない雑談ですが『句歌歳時記』の編者に親しみがわきます。一日一篇、会話を聞いていると、以前に読んで面白かった本のことが話題になっていました。



白洲 先生の『身体の文学史』を拝見していて、身体と脳は、三島由紀夫の場合なんかはっきり分かれているでしょうーーーお気の毒とも言えるけども。私、ひどく、同情しますよ、あの方には。だけども、普通はもう少しくっついてるんでしょう。

養老 はい

白洲 でもそれがどういう具合にくっついてるんだかがわかんないの。

養老 ですね(笑)。だから、それが切れちゃったのが三島だったんです。それを石原慎太郎に言わせると、空っぽだって言うんですね。空っぽに決まってるんで、言葉じゃない方に移ったわけですから、それを言葉でどうこう言おうとしても、それは無理だというのが、正当の解釈じゃないかと思うんですけどね。けれども三島もやっぱり言葉で言おうとするんですね。

白洲 なんか七つぐらいの時から恋愛小説を書いてたって言うでしょう。これはもう嘘にきまってる。言葉だけでしょ。だから、小林秀雄さんは、肉体のない文章っていうのは認めなかったんですよ。(後略)



 こんな会話が聞こえてきます。『身体の文学史』、面白かったという記憶はあるのですが、もう25年も前なので、具体的な内容は忘れています。再読してみようかと思います。



 若い頃から対談集というのも時々、読みました。三島由紀夫と中村光夫とか、小林秀雄と岡潔とか、開高健、安岡章太郎、井伏鱒二などを思い出しますが、内容はみごとに記憶にありません。対談というのはやっぱり、隣の乗客の会話を聞いているようなものなのでしょう。






おとこ友達との会話 (新潮文庫)

おとこ友達との会話 (新潮文庫)

  • 作者: 白洲正子
  • 出版社: 新潮社
  • メディア: 文庫

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唄と思い出 [音楽]

先日、テレビで「のど自慢」のグランド・チャンピオン大会というのをやっていました。毎週のチャンピオンから13人を選抜して競わせるというものです。



 さすがに皆んなチャンピオンだけあって、声も良く音程も確かでした。ただ唖然としたのは、わたしが13人の唄を1曲も(!)知らなかったことです。「のど自慢」大会で歌われる楽曲なので、それなりに流行った唄なのでしょうが、まったく聞き覚えがないので、原曲の歌手との比較もできません。



 こんなに流行歌の世界からはずれてしまっていたのか! と愕然としました。ちなみに家内は2曲知っていたそうです。振り返ってみれば、わたしも 1970年代までの唄はだいたい知っているのですが、80年代になると、どうも感じが違うなと疎遠になり、90年代以降は関心が無くなりました。



 そういえば、わたしは80年代から古い音楽に興味をおぼえ、CDを集めるようになったのでした。90年代には一時、ラテン音楽のとりこになった時期もありました。それにしても1曲も聞き覚えがないとは、憮然たる思いです。



 唄というのは人々の思い出にからまっています。本を読んでいると、唄が生活に深く関わっている場面に出会うことがあります。たとえば、作家の森まゆみ*は、子どもの頃に「潮来花嫁さん」という唄が流行っていて、「舟で嫁ぐ」というのが印象的で、大人になってからも一度、潮来(いたこ茨城県)へ行ってみたいと思っていたそうです。< 子どもが三人になって、勉強中の夫にかまってもらえなかった正月、私は潮来へ出かけることにした。(中略)/潮来の簡易保険センターに泊まった。正月だというのに四日すぎだったせいか、広い風呂にも人影はない。八歳、五歳、二歳の三人の子どもをつれて宿代は大人一人、、小学生の子ども一人分で船盛りを頼んでも総計一万円少しだった。いや、お金がないのでそのように頼んだのだった。一枚の布団に四人で寝た。> と思い出を書いていました。リアルに生活の細部が窺える挿話です。



 ♫ 潮来花嫁さんは 潮来花嫁さんは

   舟で行く

     月の出潮を ギッチラ

  ギッチラ ギッチラコ

  人の噂に かくれて咲いた

  花も十八 嫁御寮 




 流行歌とか歌謡曲という言い方は現代では通用しないのかも知れませんが、唄を聞けば、わたしも個人的な情景が思い浮かびます。人であったり、場所であったり、出来事であったり・・・。とすれば 90年代以降は流行歌がわたしの思い出に関わることが無かったことになります。それもなにか味気ない気がします。



森まゆみ『昭和ジュークボックス』(旬報社)

#「ふと口ずさむ唄」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2014-11-24


昭和ジュークボックス (ちくま文庫)

昭和ジュークボックス (ちくま文庫)

  • 作者: 森 まゆみ
  • 出版社: 筑摩書房
  • メディア: 文庫


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