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もういくつ寝ると [雑感]

 暮れの 27日といえば、子供の頃には叔父に連れられて従兄弟たちと裏山へ、ウラジロというシダを採りに出かけました。親戚など何軒分かの注連縄を叔父たちがまとめて作りました。


 <シダを飾ることはすでに『西行物語絵巻』にも見えているから、平安時代から正月飾りの一つとして尊ばれたものであろう。常緑であることと葉が双出することから長寿で夫婦円満を意味するものといわれた。> とのことです(宮本常一『歳時習俗事典』八坂書房)。


 当地の 30キロほど東方に四郷という串柿作りで知られた村があります。父鬼峠という紀泉山脈の峠道の近くです。近年、トンネルが開通し、訪れやすくなっています。串柿は 10個連なっていますが、「ニコ(2個)ニコ 中六つまじく」という意味なんだそうです。子供の頃には飾ったあと食べていましたが、現在のには「食べないで下さい」と書かれています。そんなことは記さなくても、昔は食べる人が食べられるかどうかを判断したものです。


 餅にカビが生えていても、この程度なら大丈夫とか、コレはダメとか。折角の串柿を食べないで捨てるのは、何か勿体無い気がします。コンビニなどの食品廃棄に繋がる風潮なんでしょう。


 29日頃になると、朝起きると台所の方から騒がしい声が聞こえてきます。大人たちが集まって、餅つきが始まっています。湯気の立つ側で祖母が張り切って差配しています。もち米を竈(へっつい)で蒸す人、杵をつく人、介添えする人、つき上がった餅を丸める人、毎年役割は決まっていたようです。


 子供たちは早速、出来上がった丸餅にきな粉や餡子をつけて食べます。かき餅用にヨモギや豆や砂糖を入れたのも作られます。1月末頃になると火鉢の上の金網で焼いたカキモチがオヤツになります。丸餅には少し青カビ、赤カビが付いています。包丁でカビを削り落として焼きます。


 もういくつ寝るとお正月、子供の頃は本当に正月が待ち遠しかったものです。一年の特別な時期という気持ちを持ったものです。「寒い、寒い北風にオバンとこ行ったら、イモの焼いたの隠して、大根の焼いたの突き出した」と子供たちは大声で歌いながら親戚の家々を回ったものです。


#「いとこというおかしみ」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2018-10-09

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音楽の捧げもの [音楽]

 ドイツの作曲家 J.S.バッハ(1685-1750)は日本でいえば、徳川八代将軍吉宗(1684-1751)と同じ時代を生きた人です。松尾芭蕉や近松門左衛門より一世代下になります。赤穂浪士の討ち入りの時、芭蕉はもう居ませんでしたが、バッハは 17歳でした。


 バッハは「黄金の国・ジパング」を知っていたでしょうか? マルコ・ポーロがアジアを旅したのはバッハより400年も前のことです。吉宗の当時、オランダとは長崎・出島での交易が続いていました。


 バッハの曲で最初に惹きこまれたのは、「ヴァイオリン・ソナタ第1番」でした。こんなに高貴で厳粛で妖艶な音楽があるのかと驚嘆しました。V.ムローヴァ(Vn)とB.カニーノ(P)の演奏でした。名作といわれる「マタイ受難曲」には「確かにこれはたまらんなァ」と一回聴いて、以後、近づいていません。日常的によくかけるのは「パルティータ」とか「フーガの技法」などです。


 「フーガの技法」はバッハの最後の曲で未完成で、演奏楽器の指定がないので、パイプオルガン、チェンバロ、ピアノ、弦楽四重奏、弦楽合奏など種々の演奏形態があり、それぞれ楽しめます。一つの旋律を次から次へと追いかけながら変転していき、突然、未完で終わります。


 こんなことを文案として考えているところに、友人から電話があり、いろんな話の最後に「最近、バッハのカンタータを聴いている」と言い出したのには驚きました。「ウムゥ、カンタータねえ、ぼくは聴いたことないな・・・。」そういえば若い頃、同僚でカンタータ全集を買ったとうれしそうに言っていた人が居たのを思い出しました。バッハにはいろんな楽しみ方があるようです。


 吉宗は病気の人に音楽を聴くのを勧めたそうですが、吉宗がバッハの「音楽の捧げもの」を聴いているというのも絵になる光景かも知れません。





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ベルツの遺産 [読書]

  来週からは本格的な寒さになるそうです。北の地方では雪が降り始めるかもしれません。寒くなると手足が荒れます。昔はアカギレが踵などによくできました。子供のころ実家では、膏薬を作っていましたので、少し火で温め軟らかくして患部に貼りました。


 肌荒れ用にはベルツ水というのがあります。グリセリン、水酸化カリウムなどが成分です。明治9年に来日したエルウィン・ベルツ(1849-1913)というお雇い外国人が処方したものです。ベルツは東京医学校(のちの東大医学部)で内科を教え、明治38年にドイツへ帰国するまで30年近く勤務しました。


 森まゆみ『明治東京畸人傳』(新潮社)はベルツの話から始まります。 <子どものころ、かかりつけの酒井医院におヒゲの外国人の肖像画がかかっていた。畳敷に火鉢の置いてある待合室で、何度、そのひとの立派な顔を眺めたことだろう。> ベルツは 27歳で日本に招聘され、以来、日々の見聞を日記に記載しており、外国人による明治の記録として貴重なようです。渡辺京二『逝きし世の面影』にもその日記が数ケ所引用されています。


 ベルツは最初、加賀屋敷十二番館という所に住んでいましたが、一番館にはフェノロサ、五番館にモース、九番館にナウマンといったお雇い外国人が住んでいました。ベルツは結婚して官舎を出て池之端茅町に住みました。後年の花夫人の回想では <「その頃のあの辺は原でございまして、狐や蛇が平気で遊んで居たり、弁天様のあたりに雁が降り、それが宅の台所などによく遊びに来て餌を拾つたものです。(後略)」> というような雰囲気だったそうです。


 ベルツの日記、明治22年4月27日には <上野公園から、その真下にある競馬場ーー公園とわが家との中間にあたり、不忍池に沿っているーーへ車で行く。競馬は池をめぐって行われる。> という記述があるそうです。当時、不忍池を回る競馬が行われていたようです。


 森さんに、花夫人の伝記を書いているという人から連絡があり、一緒に関係した場所を探索したそうですが、空襲などで焼失し、昔をしのぶよすがは少なかった。そのことを森さんが地域雑誌「谷根千」に載せると、二つの反応があったそうです。


 一つは、ベルツの帰国とともにドイツへ渡っていた花は、夫の他界後、日本に帰っていたのですが、花の従弟の娘が家事手伝いをしていたという身寄りからの情報です。花は昭和12年、74歳で亡くなっています。


 もう一つは、「谷根千」を置いてもらっている根津の天ぷら屋「天豊」のご主人からで、 <「うちのひいじいさんはベルツの人力車夫をしていたんですよ」という電話をもらった。さっそくうかがうと、明治十二年生まれのその三浦友吉という人は、元は芝愛宕山下にいた侠客で、木戸孝允邸に出入りしていたらしいが、ベルツから青い目の子を預かり、吉次郎と名付けて育てた。/「吉次郎が私の祖父さんてわけです。彼を預かるときに政府の要人板垣退助かなんかに二百円もらって(後略)」> 天ぷら屋を開いたというのです。「天豊」のご主人は、ベルツのひ孫かもしれない? 後日、ベルツの孫が来日したおり、「天豊」をたずね、ご主人を見て、父に似ているといったそうです。


 ドイツに帰ったベルツは幕末に日本で活躍したシーボルトの次男・ハインリヒと交流を続け、主治医をしていたそうです。日本の近代医学はシーボルトやベルツなどドイツ人の薫陶をうけ根付いていったようです。


#「はやり病の今昔」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2020-04-25


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新型コロナ・ワクチンの可能性 [雑感]

  いよいよアメリカ、イギリス、ロシアなどで新型コロナ・ワクチンが投与され始めるようです。日本でも投与に向けての法整備が整ったようです。今度のワクチンは病気の出現からほぼ1年で実用化されるという猛スピードの開発で、今までにない発想や技術が用いられているようです。


 アメリカのファイザー社のはメッセンジャー(m)RNAワクチンと呼ばれるもので、コロナウイルスの表面突起をウイルスの目印に利用し、突起を作る「設計図の鋳型(mRNA)」をワクチンとするものです。ワクチンを投与された人はその設計図に従って自分の体でコロナウイルスの「突起成分」を合成します。


 その結果、ワクチンを打った人には変な「突起成分」が体の中に出現するので、それを外敵・異物として排除しようとする働きが生まれ、突起を持つコロナウイルスへの防御となります。


 設計図(DNA)または設計図の鋳型(mRNA)を人体に投与して、人に物質を作らせようという技術は、とてつもなく応用範囲の広いものです。ワクチンの設計図は一時的で、分解されてしまいますが、分解されないようにすれば、人体改造ができます。


 たとえばアルコールが飲めない人に分解酵素を作る設計図を投与すれば、その人は自分で分解酵素を作るようになり、アルコールが飲めるようになります。糖尿病のインスリンのように病気には何かが足りないことで起こるものが無数にあります。自分に足りないものを自分で作るという画期的な治療法になります。また免疫を作るという面では癌治療にも応用できそうです。農業や畜産にも利用できそうです。


 新型コロナウイルスへのワクチンという大義名分のもと、一気に遺伝子(設計図)を使う治療が一般化し、何億人という人たちに投与され、効果が検証されます。今回のワクチン開発に用いられた発想や技術、経験はポスト・コロナ時代の「新しい治療薬」の開発への製薬会社の戦いの武器となることでしょう。短期的および長期的にどの程度の副作用が出るのかも億人単位の規模で調査可能です。


 では今、国産のワクチンはどうなっているんでしょう? 食料の自給率と同じように、ワクチンの自給も生き抜いていくためには必要だと思われます。中国はワクチンを外交の取引に使おうとしているようです。


#「ネアンデルタール人の面影」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2020-10-24

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