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ベルツの遺産 [読書]

  来週からは本格的な寒さになるそうです。北の地方では雪が降り始めるかもしれません。寒くなると手足が荒れます。昔はアカギレが踵などによくできました。子供のころ実家では、膏薬を作っていましたので、少し火で温め軟らかくして患部に貼りました。


 肌荒れ用にはベルツ水というのがあります。グリセリン、水酸化カリウムなどが成分です。明治9年に来日したエルウィン・ベルツ(1849-1913)というお雇い外国人が処方したものです。ベルツは東京医学校(のちの東大医学部)で内科を教え、明治38年にドイツへ帰国するまで30年近く勤務しました。


 森まゆみ『明治東京畸人傳』(新潮社)はベルツの話から始まります。 <子どものころ、かかりつけの酒井医院におヒゲの外国人の肖像画がかかっていた。畳敷に火鉢の置いてある待合室で、何度、そのひとの立派な顔を眺めたことだろう。> ベルツは 27歳で日本に招聘され、以来、日々の見聞を日記に記載しており、外国人による明治の記録として貴重なようです。渡辺京二『逝きし世の面影』にもその日記が数ケ所引用されています。


 ベルツは最初、加賀屋敷十二番館という所に住んでいましたが、一番館にはフェノロサ、五番館にモース、九番館にナウマンといったお雇い外国人が住んでいました。ベルツは結婚して官舎を出て池之端茅町に住みました。後年の花夫人の回想では <「その頃のあの辺は原でございまして、狐や蛇が平気で遊んで居たり、弁天様のあたりに雁が降り、それが宅の台所などによく遊びに来て餌を拾つたものです。(後略)」> というような雰囲気だったそうです。


 ベルツの日記、明治22年4月27日には <上野公園から、その真下にある競馬場ーー公園とわが家との中間にあたり、不忍池に沿っているーーへ車で行く。競馬は池をめぐって行われる。> という記述があるそうです。当時、不忍池を回る競馬が行われていたようです。


 森さんに、花夫人の伝記を書いているという人から連絡があり、一緒に関係した場所を探索したそうですが、空襲などで焼失し、昔をしのぶよすがは少なかった。そのことを森さんが地域雑誌「谷根千」に載せると、二つの反応があったそうです。


 一つは、ベルツの帰国とともにドイツへ渡っていた花は、夫の他界後、日本に帰っていたのですが、花の従弟の娘が家事手伝いをしていたという身寄りからの情報です。花は昭和12年、74歳で亡くなっています。


 もう一つは、「谷根千」を置いてもらっている根津の天ぷら屋「天豊」のご主人からで、 <「うちのひいじいさんはベルツの人力車夫をしていたんですよ」という電話をもらった。さっそくうかがうと、明治十二年生まれのその三浦友吉という人は、元は芝愛宕山下にいた侠客で、木戸孝允邸に出入りしていたらしいが、ベルツから青い目の子を預かり、吉次郎と名付けて育てた。/「吉次郎が私の祖父さんてわけです。彼を預かるときに政府の要人板垣退助かなんかに二百円もらって(後略)」> 天ぷら屋を開いたというのです。「天豊」のご主人は、ベルツのひ孫かもしれない? 後日、ベルツの孫が来日したおり、「天豊」をたずね、ご主人を見て、父に似ているといったそうです。


 ドイツに帰ったベルツは幕末に日本で活躍したシーボルトの次男・ハインリヒと交流を続け、主治医をしていたそうです。日本の近代医学はシーボルトやベルツなどドイツ人の薫陶をうけ根付いていったようです。


#「はやり病の今昔」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2020-04-25


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