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人のやちまた [読書]


 3月ほど前、山田稔『メリナの国で』という旅行記を読んだおり、同書を出版した「編集工房ノア」というのが気になって調べていると、足立巻一という名前に出会いました。足立巻一(1913-85)は 1982年に『虹滅記』(朝日新聞社)という自らの祖父である漢詩人・敬亭のことを書いた本を出しており、大変面白かった印象が残っていました。



 そういえば足立巻一には『やちまた』(河出書房新社1974年刊)という大著があって、当時、書店で見かけましたが、太い本だなと素通りしたのを思い出しました。ためしに「日本の古本屋」で検索してみると、新装版というのが手頃な値段で有りました。(上・下)2巻で 893頁でした。少しひるみましたが、『虹滅記』の著者なので間違いは無いだろうと読み始めました。



 『やちまた』は本居宣長の長男で盲目の国学者・春庭(1763-1828)を中心として、伊勢・松阪を舞台として宣長、妻・壱岐、妹・美濃などを配し、平田篤胤の動きなど江戸時代後期の国学界の動きや、研究課題が史伝として記述されると同時に、著者が春庭に生涯にわたる関心を持つに至った神宮皇學館での学生生活などが、級友や教師との交わりを通してほのぼのと描かれていました。



  < 白江教授の文法学概論の時間であった。(中略)/黒板には「本居春庭もとをりはるには)」「詞(ことば)の八衢(やちまた)」「詞(ことば)の通路(かよひぢ)」という文字が、三行に書かれていた。(中略)/「・・・二十九歳(寛政三年)のころから眼病を患い、悪くなるいっぽうであった。尾張馬島の眼科医をたずねて治療を受けたが、はかばかしくなかった。当時における宣長の心痛は『本居宣長翁書簡集』に見えている。(中略)三十二歳(寛政六年)のときにはまったく失明した。(後略)」> 



 盲目の春庭がどのようにして日本語における四段活用とか下二段活用といった「動詞活用の法則」や「動詞の自他の区別」という文法上の発見をなし、『詞の八衢』、『詞の通路』という二書に纏められたのかが探られていきます。当時の書簡のやりとりの分析から国学者たちの動静や意見を分析したり、資料を整理している過程で、屏風の下張りから草稿が見つかったり、大量の語彙カードが発見されたりするなど、探究の道筋が詳細に記載されます。その間には著者の戦争体験や戦後の教師生活などが織り込まれ、物語は複合的に展開してゆきます。



 足立巻一は 1913年東京生まれですが、早くに父を失い母が再婚したため、祖父母に引き取られます。祖母も他界し、8歳の時、漂泊のなか祖父・敬亭も長崎の銭湯で急逝し、神戸に住む母方の叔父に育てられました。関西学院中学での恩師の母校である神宮皇學館への進学、そこでの本居春庭との出会いへと継ながってゆきます。



 ちなみに「やちまた」とは、道が多岐に分かれている所」といった意味で、「詞の八衢」は言葉が活用によって変化する様を表したものでしょう。また、足立巻一の「やちまた」という書名は著者の春庭に関わった人生の日々への感慨が込められているのでしょう。



 大部な本ですが、春庭をめぐる歴史上の人々や、足立巻一に関わる友人や研究者がそれぞれ彫り深く描かれ印象的で、春庭の史伝と著者の個人史が織物のように織り込まれた読み応えのある書物でした。





やちまた(上) (中公文庫プレミアム)

やちまた(上) (中公文庫プレミアム)

  • 作者: 足立 巻一
  • 出版社: 中央公論新社
  • メディア: 文庫

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詩人のたそがれ [読書]


 若い頃からときに詩集を読むことがありましたが、詩集にはたいてい 20~30篇ほどの詩が載っていますが、気に入る詩篇は一冊に1〜2篇あればいいほうで、ほとんどはただ読むだけです。、120ページほどの詩集で、印象に残るのはほんの数ページです。



 これは誰の詩集でも大差なく、そんなもので、詩人が一生に何冊の詩集を出すかはそれぞれですが、詩人が一生に書く詩のなかで、人のこころに残るのは、ほんの数篇でしょう。そういう意味で詩集というのはコスト・パフォーマンスの悪い書物です。名篇とされるものを集めたアンソロジーが編まれるのにはそれなりの理由があります。



 しかし詩集には詩人が一定の時期に書いた詩を集めたという特色があります。気になる詩人の最新の詩が読めるという期待、また後では「あの詩人は 60代のころこんな詩を書いていたのか」という興味など、アンソロジーとは違った楽しみもあります。



 この間から田村隆一(1923-98)の手持ちの詩集を読んでいますが、買った時にも見たはずですが、全くと言っていいほど、記憶に残っている詩句には出会いません。彼の初期の研ぎすまされたような言葉は強く脳裏に刻まれているのですが・・・。



 『生きる歓び』(集英社)は 1988年刊行で、田村隆一は 65歳でした。



      沈黙の音

    北米中西部の秋は淋しい

    淋しいという言葉さえ浮んでこないくらい

    淋しい


    ある日

    ニレの木の

    カシの木の

    大きな葉がいちどきに落ちる

    人の足は枯葉色の枯葉のなかに埋もれ


    数百万の渡り鳥が南の空に消えると

    地平線の彼方に

    いつまでも夕陽は釘づけになったまま


    夜は古い酒場でバーボンを飲みながら

    日本の秋にぼくは手紙を書く

    「沈黙の音サウンド・オブ・サイレンス」が流れていた十五年まえ



 詩は多く青年の産物ですが、老詩人として詩作を続けた人もいます。もちろん青年時代の詩が代表作として記憶されますが、老人になってからの詩にも、また違った面白さに出会うことがあります。室生犀星などはその一人です。田村隆一も 70代まで詩集を出し続けましたが、そんなことを思いながら彼の詩集を繰っています。

 


#「詩人の食べものhttps://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2021-03-21


生きる歓び

生きる歓び

  • 作者: 田村 隆一
  • 出版社: 集英社
  • メディア: 単行本

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言葉の錬金術師たち [読書]


 文字数の多い本は暑くるしいので、本箱の奥から田村隆一『ワインレッドの夏至』(集英社)という詩集を取り出しました。余白が多くて涼しげです。


   「おれ」を表現するためには

   沈黙を創り出す以外にない

   樹木の枝からたわわに垂れさがる果実 

   のごとき沈黙* 


 こんな詩句が目に止まります。いかにも手なれた、老詩人の手品のような表現です。この詩集は 1985年に出版され、田村隆一は 62歳でした。



 「アンライセツとは どういう祝日ですか」

 八十八歳でこの世を去った

 詩人の西脇順三郎が

 ある夏の日

 教え子の英文学者に真面目な顔をしてたずねたそうだ

 「アンライセツ? 紀元節、天長節、明治節なら、ぼくにだって分

 りますけど どういう字をかくのでしょう」

 四十男の英文学者は、キョトンとした顔でききかえす

 「平安の安に、未来の来です やすらかな世が到来するのを祈願す

る祝日 じつにひ'び'き'がよろしい」


 このエピソードを聞いて

 ぼくが小学生時代に父につれられて

 浅草の花屋敷で観た「どじょうすくい」を思い出す

 昭和五年あたり

               (中略)

   父は農家の次男坊だったから

   休日に「安来節」を聞くのが超現実主義の詩を読むよりも

   詩的歓びだったにちがいない**

      (後略)



 西脇順三郎はこの詩集の出る3年前の6月に亡くなっていますので、これは田村隆一の西脇への追悼詩集とも感じられます。そもそも、この詩集の「ワインレッド」という言葉は、西脇の詩集『Ambarvalia』の表紙の色に由来しています。




 西脇は戦時中、イギリス人の夫人とともに鎌倉に疎開し、詩の題材にもしていますが、鎌倉をカマキューラと発音したそうです。



 鎌倉でいちばん高い山

 標高一四〇・八メートルの天台山にのぼって

 明るくておだやかな冬がゆっくりとしのびよってくる

 カマキューラの山波と町を眺める

   七口(ななくち)

   七つの切通しにかこまれた中世の町の

   光と影の小道

   その表皮の

   けばけばしい変化にもかかわらず

   生きとし生けるものの哀歓と夢が

   四季の移り変り

   星座の運行とともに

   生れかわり

   語りつがれ

   深い沈黙のなかで呼吸しているくせに


 バード・ウオッチングの双眼鏡でいくら探してみても

 J・Nの背中は見えない***



 見えないのは西脇順三郎ばかりではなく、1998年には田村隆一も消え、詩人たちの姿は見えにくくなっています。今はチョット規格外れの言葉の錬金術師たちは何処にいるのでしょう。



*  「寒気(さむけ)」

** 「安来節」

***「夏至から冬至まで」




ワインレッドの夏至―田村隆一詩集

ワインレッドの夏至―田村隆一詩集

  • 作者: 田村 隆一
  • 出版社: 集英社
  • メディア: 単行本

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時代の変わり目 [読書]


 久世光彦『昭和恋々 Part II』(清流出版)は月刊誌「清流」に久世光彦が1998-2003年に連載したエッセイと写真をまとめたものです。前作の共著者であった山本夏彦は 2002年に他界しています。今回は久世光彦(昭和10年東京生まれ)、川本三郎(昭和19年東京生まれ)、俵万智(昭和37年大阪生まれ)の鼎談が巻末に付いています。鼎談から読み始めましたが、なるほどと思った話題がいくつかありました。



久世 僕は一九六〇年にテレビ会社に入りましたが、家にはテレビがなかった。でもそれが当たり前でした。



 我が家にもテレビはなかったので「月光仮面」は祖父の家で観せてもらっていました。そして、昭和34年(1959)6月25日の長嶋が阪神・村山実からサヨナラ・ホームランを打った天覧試合は叔父の家で観戦しました。調べてみると、同年7月12日に始まった「豹(ジャガー)の眼」は自宅で観たように思うので、我が家にテレビが来たのは 1959年6月26日から7月12日の間だったのかも知れません。わたしは小学5年生でした。電気炊飯器で「かまど」がなくなり、洗濯機、冷蔵庫が家庭に入り、電灯以外は江戸時代と大差なかった日常生活が一変した時期でした。 




 私が小学生のころは、教室に石炭ストーブがありました。当番で石炭を石炭小屋から運んでいました。私たちの年代が石炭ストーブを使った最後くらいかも知れません。中学生のときはもう石油ストーブでしたから・・・。



 昭和40年代のことでしょう。あのころ確かに石油ストーブが普及したように思います。昭和30年代は火鉢で暖をとり、風呂も薪か石炭で沸かしていました。炭鉱事故があったり、炭鉱の労働争議もありました。石炭が斜陽になり、石油がエネルギーの主流になっていった時期でした。



川本 私の子供のころは犬は放し飼いが住宅地でも許されていました。それが東京オリンピックのころから、つないで飼うようになった。/(中略)私の中学時代までは、その辺りを犬が走り回っていました。忠犬ハチ公の物語は昭和の八年ごろの話ですが、放し飼いでないと成り立ちません。



 なるほどこどもの頃は、犬があちこちでウロウロしていました。首輪に鑑札の付いているのが飼い犬で、無いのが野良犬ということで、ときどき野犬狩りの車がやって来て、何匹も捕まえていきました。我が家の犬も間違えて捕獲され、引き取りに行った記憶があります。犬が自由に行き来できた生垣が、ブロック塀に変わり、街の景観が殺風景になりました。



 三人の話を読んでいると、いろんなことを思い出します。普段は記憶の底に沈んでいる事柄が浮上して、こどもの頃には分からなかった謎が解けたりします。振り返れば「あのころ 」がひとつの時代の変わり目だったと気づきます。



#「平成の壁と崩壊」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2019-04-03

#「あのころの暮らしhttps://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2023-08-13


昭和恋々〈パート2〉

昭和恋々〈パート2〉

  • 作者: 久世 光彦
  • 出版社: 清流出版
  • メディア: 単行本

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あのころの暮らし [読書]


 昔の写真を見ると、今では見かけなくなった物が写っています。そういえば風呂敷も最近は見なくなりました。どこかのお家へ菓子箱を包んで持参したり、書籍をくるんで持ち歩いたり、スイカを運んだり・・・用途によって絹と木綿を使い分けました。1970年代ごろに丈夫な手提げ紙袋が普及して、風呂敷は廃れたのでしょう。



 風呂敷は子供の暮らしにも必需品で、股旅ものの合羽になったり、月光仮面のマントになり、鞍馬天狗の頭巾にもなりました。



 山本夏彦・久世光彦『昭和恋々 あのころ、こんな暮らしがあった』(清流出版)は左ページに古い写真を載せ、そこに写った”物”についてのエッセイを付けていますが、前半は「戦前を見に行く」と題して、山本夏彦が担当し、後半は「過ぎ行く季節のなかで」として久世光彦が分担しています。最後に二人の対談が付いています。



 左ページの写真を眺めると、二人のエッセイとは別に、写っている物にまつわる個人的な思い出や感慨が浮かんできます。山本夏彦は大正4年東京生まれ、久世光彦は昭和10年東京生まれ、わたしは昭和23年兵庫県生まれなので、「あのころ」といっても、思い浮かべる時代も場所もそれぞれ違っています。



 二人の対談の始めに久世も、<(前略)先生が言う「あのころ」と私の「あのころ」では、かなり違うと思います。先生は昭和十年から遡って関東大震災(大正十二年)のころまで。私は(中略)昭和十五年ごろから、東京オリンピック(昭和三十九年)の前あたりが私の「あのころ」だと思っています。> と語っています。わたしにとって「あのころ」とはいつだろう? 昭和30年ごろから1970年代でしょうか。山本夏彦の「あのころ」の話はわたしには知らなかった事柄が多く、啓蒙的でした。



 駄菓子屋の写真に山本夏彦は、< 広い東京だから駄菓子屋の五軒や十軒はまだ残っているだろうが、雑司ヶ谷の鬼子母神(きしぼじん)境内の店を駄菓子屋の代表として写してもらった。創業は元禄のころの由、店も建ててから二百年はたっていると九十九まで生きていた先代のばあさんから伝え聞いたと、いま十三代目に当たる女房が言うから本当だろう。> と写真を説明し、続けて駄菓子屋に類した店が舞台になった樋口一葉の「たけくらべ」の世界を取り上げていました。



 一方、久世光彦は別のページで別の駄菓子屋の写真を載せ、< 東京・赤坂の一等地一ツ木通りから少し入ったところに、高そうなレストランやクラブの入ったビルに埋もれるように、間口二間ばかりの駄菓子屋が一軒、冗談か嘘みたいに、ポツンとある。(中略)/ 何度、中へ入って、いつからとか、どうしてとか、訊ねてみたいと思ったかしれない。しかし、その度に思い止まる。それを訊いてしまったら、あくる日から、忽然とこの店が消えてしまいそうで、怖いのである。> と久世光彦的に記しています。



 こんな調子で、この本には下宿屋、蕎麦屋、割烹着、足踏みミシン、蚊帳、物干し台、七輪、虚無僧・・・など60葉以上の写真がエッセイとともに掲載されています。出版されたのが 1998年なので、それからまた四半世紀が過ぎているので、写真はもう夢、幻の世界のようになっています。お盆の時期に、写真を見ながら、人それぞれの「あのころ」を思い出してみるのもいいかも知れません。




#「映画の中の風景」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2019-09-03

#「時代の変わり目」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2023-08-20


昭和恋々―あのころ、こんな暮らしがあった

昭和恋々―あのころ、こんな暮らしがあった

著者:山本夏彦・久世光彦

  • 出版社: 清流出版
  • メディア: 単行本

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唄をめぐるエッセイ [読書]


 唄の好きな人にとって、和田誠『いつか聴いた歌』(文藝春秋)は古い本ですが、座右に置いて時々眺めて楽しむのに好都合な本です。わたしも 20年ほど前、「日本の古本屋」に注文して入手しました。1977年に出た本で、ちなみに発行者は半藤一利となっています。



 これは和田誠がスタンダードといわれるアメリカなどの唄 100曲について、それぞれにまつわるエッセイを書き、関連者の似顔絵を付けたものです。「ビギン・ザ・ビギン」に始まり、「歌は終われど」が最後になっています。



 「やさしく歌って Killing Me Softly with His Song 」では、< 75年、ロバータ・フラックが初めて来日した時、ぼくはパンフレットに似顔絵を描いた。それが彼女の気に入って、原画が欲しいと言う。ぼくは公演後の楽屋でロバータ・フラックに会って、絵を手渡したのだった。そしたら彼女は喜んで「キスしていい?」と言い、ぼくのほっぺたにチュウをしたのであります。なれぬことゆえ、いささかたじろいだ。ぼくの方も「あなたの歌は素敵です」とか言って彼女にキスすべきかとも考えたが、妻がそばにいたこともあって、見あわせたのだった。> と残念そうに書いています。もちろん妻というのは、テレビの料理番組でよく拝見する平野レミさんのことで、その数年前に結婚したばかりでした。



 それはさておき、<「やさしく歌って」という日本語の題が定着しているようだが、Killing Me Softly なのだから直訳すれば「やさしく殺している」になってしまう。もちろんそんな物騒な歌ではないので「やさしく苦しめている」といった意味に解釈すればよいであろうか。> つまり、彼の唄は私の人生を歌っているようで、私の苦しみをかき鳴らしている・・・というような唄なのだそうです。



 「On the Sunny side of the Street」は去年だったか、朝のテレビ・ドラマでよく流れていましたが、 1930年に発表された唄だそうです。<・・・道の両側にある歩道、その陽のあたる側がサニー・サイド・オブ・ザ・ストリートである。だから、どうせ歩くなら暗い側じゃなく明るい側を、という歌である。/コートをつかみ、帽子をかぶり、心配事は戸口に捨てて、まっすぐ陽の当たる通りに出よう。スタスタというのは幸せな足音。陽の当たる通りでは、人生はすばらしい。/ぼくは陽かげを歩いていた。けれど今は違う。1セントもなくても、ロックフェラーのような気分。(後略)>



 この唄が発表された前年は、ウオール街株価大暴落、世界恐慌の始まった年でした。不景気を明るく笑いとばそうというのが、この唄の背景なのだそうです。唄には歴史が影を落としている・・・。



 こんなエッセイがそれぞれの唄に付いていて、どこを開いても話題が豊富で時間を忘れます。読んで改めて唄を聴くと、また違った味わいが生まれます。



#「似顔絵という世界」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2019-11-05


いつか聴いた歌 (文春文庫)

いつか聴いた歌 (文春文庫)

  • 作者: 和田 誠
  • 出版社: 文藝春秋
  • メディア: 文庫


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本を書くひと作るひと [読書]


 新聞の書評欄で川本三郎が山田稔『メリナの国で 新編 旅のなかの旅』(編集工房ノア)という本を紹介していました。フランス文学者の山田稔が若い頃に書いた旅行記をまとめたものです。彼の本は以前に『コーマルタン界隈』(河出書房新社)というパリの話を読んでいて、面白かった記憶があったので、Amazonで取り寄せました。



 山田稔は 1930年、門司に生まれ、長年、京都大学でフランス語を教え、フランス文学の翻訳も多数あるようで、現在も 92歳で健在です。若い頃から「VIKING」という関西に拠点を置く同人雑誌に関わってきたそうです。「VIKING」といえば同人に富士正晴、島尾敏雄、庄野潤三、山崎豊子、高橋和巳などがいたので知られています。



 また「編集工房ノア」という出版社の本を買ったのは初めてのような気がします。本にはさまれていた出版案内などを見ると、鶴見俊輔、天野忠、杉本秀太郎、足立巻一といった名前が並んでいて、ちょっと手に取ってみようかと思う本もあります。



 調べてみると「編集工房ノア」というのは大阪・中津にある大阪では珍しい文芸書専門の出版社です。1975年、涸沢純平という人が創業し、奥さんと二人で営んでいるそうです。自分の気に入った人の本を出版して暮らすというのは、書物好きの人間には楽しい仕事のように思えますが、この出版不況の中、そんなに多くは売れそうもない本を出し続けて、よくやっていけるものだと感心します。



 「メリナの国で」は 1980-81年に京都新聞夕刊に連載されたギリシャへの旅行の話です。安ホテルでの停電や水騒動などよくある話題をはさみながら、現地で出会った人たちが小説風に描かれ、ツアーの同行者やホテルの主人などが陰影をもって記憶に残ります。"メリナ"というのは『日曜はだめよ』という映画で知られる著者好みのギリシャの女優、メリナ・メルクーリのことで、またアテネで出会うことになった女性の名前でもあります。



  次に「太陽の門をくぐって」はスペイン・アンダルシアの旅、そして「ローマ日記」と続きます。旅行で出会った人たちが物語の中の人物のようにスケッチされているので、ロード・ムーヴィーのような感じです。やはり旅行記の面白さは、景色ではなく、人間が紙面の中で生きていることだと思われます。


#「都市に紛れこむ」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2015-11-19


メリナの国で 新編旅のなかの旅

メリナの国で 新編旅のなかの旅

  • 作者: 山田稔
  • 出版社: 編集工房ノア
  • 発売日: 2023/05/01
  • メディア: 単行本

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何を考えていたのか? [読書]

 名前は知っていても、その人が具体的にどんな考えの人だったのかは、案外分からないものです。『11人の考える日本人 吉田松陰から丸山眞男まで』(文春新書)は音楽評論でも知られる思想史研究家の片山杜秀が、幕末から戦後までの11人を取り上げて、その人の考えたことを分かりやすく解説した本です。



 2月程まえ新聞の書評欄で見かけ、興味がわいたので読んでみました。著者の片山杜秀という人も話題になる著書が目についていましたし、選ばれている11人・・吉田松陰、福沢諭吉、岡倉天心、北一輝、美濃部達吉、和辻哲郎、河上肇、小林秀雄、柳田國男、西田幾多郎、丸山眞男・・にも多少関心がありました。いずれにせよ手軽にこれらの人々のエッセンスが片山流に剔出されるのを読めるのは、新書本の醍醐味です。



 山口県・萩に出かけたおり、松下村塾は見学しましたが、さて吉田松陰という若者が幕末に、何を考えていたのかについては定かではありませんでした。松陰は高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋らを育てた教育者ですが・・・


松下村塾.jpeg

                              (萩・松下村塾)


 <軍事を担っているのは武士ですが、それは人口の数パーセントにすぎません。脅威は海の外から来ます。島国日本の長い長い海岸線を守るのに、外国に立ち向かう兵力は武士だけ。そんな話は数量的にも現実的ではない。もっと多くの人々を兵士として動員しなければならない。そのためには、あらゆる階級に対しての教育が必要だ。そう考えたのです。>・・・こういう考えが長州の身分を問わない奇兵隊という組織へと繋がっていくのでしょう。



 福沢諭吉といえば来し方を振り返った『福翁自伝』は、とらわれの無い快活な書きっぷりで自由な精神が感じられ楽しい本でした。今ではお札の代名詞になっていますが・・・



<福沢にとって、お金について語ることは決してみっともないことではなかったし、むしろ真っ先にお金の話をすべきであるとさえ考えていました。さらには、もったいないと思ってお金使わないことは、資本主義の健全な発達を阻害するものであると考えていたように思います。つまり「みっともない」と「もったいない」という、江戸以来続いてきた儒教的な規範、武家道徳を打破したのが福沢諭吉なのではないでしょうか。>・・・お札の顔に相応しい人だったのでしょう。



 こんな調子で各人につき20数頁ずつで紹介されています。名前は知っていても、著書を手にしたことのない人が何人もありますが、手際よくまとめられて、何となく分かった気にしてくれます。いかにも新書的な楽しみを満たしてくれる本です。







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落語家の世界 [読書]

 落語の実演といえば、20年以上前に新宿末廣亭に入ったことがあるのと、桂米朝・小米朝の落語会に行った憶えがあるだけです。こどもの頃はラジオやテレビで、落語や浪曲、講談をよく聴きました。金馬、円生、小さんなどのほか名前も忘れた多くの芸人が出演していました。



 こどもにとって「いかけ屋」とか「饅頭こわい」などは分かりやすく、人間の生態が生々と捉えられていて愉快でした。八っつあん、熊さんの世界は破天荒で、それでいて楽園のようで、枕元のラジオから聞こえてくる話芸の楽しさに浸りました。



 立川談春『赤めだか』(扶桑社)は、”いかにして落語家になったか”という落語のようなお話です。立川談春は昭和41年、東京生まれで、子供のころから父親について戸田競艇場に通っていたそうです。競艇選手になりたかったのですが、養成所へは身長170センチ以下でなければ入れず断念したそうです。


 

 中学生のとき図書室で落語全集を読み興味を持ち、卒業間近のころ、上野鈴本へ行き、立川談志を聴き魅せられます。高校では落研を作り、人前で話す楽しさを覚えます。そして、国立演芸場で談志の「芝浜」を聴きショックを受けたそうです。



「芝浜」というのは、裏長屋住まいの魚屋が、芝の河岸で革の財布を見つけるというところから始まる人情噺です。談志の「芝浜」の評判を聞き、わたしも CDを買って聴いた覚えがあります。まだYouTubeなどなかった昔です。



 佐々木少年(談春)は談志の家を訪れ、弟子入りを乞う。



 < 君の今持っている情熱は尊いものなんだ。大人はよく考えろと云うだろうが自分の人生を決断する、それも十七才でだ。これは立派だ。断ることは簡単だが、俺もその想いを持って小さんに入門した。小さんは引き受けてくれた。感謝している。経験者だからよくわかるが、君に落語家をあきらめなさいと俺には云えんのだ。(後略)」/「(前略)弟子になる覚悟ができたら親を連れ、もう一度来なさい。」>



 生きていくうえで、誰でもが何らかの判断をしたり、また、できなかったりしながら、日々を暮らしていくものですが、佐々木少年と立川談志の出会いには、その後の生き方を決めるような輝きがあります。



 新聞配達をしながらの前座生活、築地場外の焼売屋での修行などが面白おかしく語られます。無茶苦茶を耐え、受け入れる暮らしから落語家が生まれるようすがおぼろげに垣間見られます。そういえば、わたしの大学時代の先生が「教育とは無茶苦茶であります」と口癖のように言っていたのを思い出しました。





赤めだか

赤めだか

  • 作者: 立川 談春
  • 出版社: 扶桑社
  • メディア: ハードカバー

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カッケと肉ジャガ [読書]

 日本には江戸時代から、脚気(かっけ)という病気がありました。足がだるく、むくみ、動悸がし、心臓麻痺となる。江戸、大坂などの都会に多く、「江戸わずらい」とよばれました。将軍も家光、家定、家茂が脚気で亡くなったそうです。



 吉村昭『白い航跡』(講談社)は、脚気の原因解明に寄与した高木兼寛(たかきかねひろという人物の伝記小説です。兼寛は嘉永2年(1849)、日向国(宮崎県)に大工棟梁の子として生まれています。鹿児島で蘭方医に学び、幕末には薩摩藩の軍医として戊辰戦争に従軍しています。



 戦争のなかで、蘭方医が銃創などには手をこまねるばかりなのに対し、西洋医が果断に切開、切断などの処置で、戦傷者を救っているのを見て、兼寛に西洋医学への渇望が生まれます。



 帰郷後、鹿児島でイギリス人医師に学び、招かれて東京の海軍病院に勤めることになります。そこで見たのはおびただしい脚気患者でした。明治11年には海軍総兵員数4,518名でしたが、脚気患者数は1,485名にものぼり、兵員の32.79%にもなり、死亡者数32名でした。こんな状態が続いていましたが、西洋には同様の病気はなく、原因不明の日本の風土病と考えられていました。



 明治8年(1875)から5年間、兼寛は推薦されロンドンのセント・トーマス病院に留学しました。イギリスに脚気はありませんでした。



 帰国後、兼寛は脚気の発生状況を調べるうちに、軍艦「筑波」の練習航海の記録に注目しました。「筑波」は明治11年、オーストラリアへ7月間の練習航海に出かけていますが、航海中、乗組員、生徒計146名中47名が脚気になっていました。患者の発生状況を調べてみると、航海中と停泊中にはっきりと差があり、シドニー停泊中には患者は発生していなかったのです。停泊中の行動を聞き調べてみると、乗組員たちは交代で上陸し、名所見物などをし、現地の食物を食べていたのです。



 食事の違いに注目した兼寛は、兵員の食事状況を調べます。当時、海軍では食事代を支給し、白米は一括購入して、各自が分担金を払い、残金で副食物を買うという仕組みになっていましたが、調べてみると雑穀を食べていた地方出身者が多い水兵は、白米が食べられるのに満足し、副食用の金銭を貯蓄したり、故郷へ送金したりしているのでした。



 イギリスで栄養学を学んでいた兼寛は、脚気の原因が炭水化物が主で蛋白質が極端に少ない食事にあるのではないかと考え、兵食の改革に取り組みます。パンと肉類に変えようとしますが、受け入れられず、白米に麦を混ぜ、肉類を副食に供しました。この疫学的な調査から導かれた対策により、海軍では脚気患者は激減しました。



 しかし、陸軍では軍医総監・森林太郎(鷗外)をはじめとして、ドイツ医学が主流で、当時、コッホらが次々と病原菌を発見して脚光を浴びており、脚気も未知の病原菌による伝染病と考えられていました。



 その結果、明治37-8年の日露戦争では、海軍では軽症者が幾分でたものの、重症者は無かったのに対し、陸軍では戦死者約47,000名で、脚気患者211,600余名に達し、27,800名が脚気で死亡するという惨状でした。



 明治43年(1910)に農学者の鈴木梅太郎が、ニワトリ、ハトを白米で飼育すると脚気と同じような症状になり、米ヌカを与えると予防できることを見い出しましたが、注目されませんでした。



 1911年、ポーランドのフンクが米ヌカから有効成分を見つけ、翌年、ビタミンと命名しました。こうして脚気の病因がビタミンB1欠乏症であることが明らかになっていきます。



 疫学的な調査から、脚気の原因が食事にあることを推測し、兵食を変えることで海軍から脚気を撲滅した高木兼寛の業績は案外知られていません。病原菌説に固執した陸軍では日清・日露の戦争で多数の脚気による死者を出しており、傷ましい限りです。現代でも同じようなことがあるのではないかと思われます。吉村昭の小説はよくここまで調べたものだと感心させられます。有名な海軍の「肉ジャガ」はそんな歴史の片鱗だったのかも知れません。



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白い航跡〈上〉

白い航跡〈上〉

  • 作者: 吉村 昭
  • 出版社: 講談社
  • メディア: 単行本

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