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「からだ」はどう扱われたか [読書]


 世の中は、ますますヴァーチャル・リアリティが幅を利かせ、AIがいろんな分野に浸透しています。人間の脳が作り出した産物が人間を支配しつつあるようです。身体もデータに置き換えられ、画像化されます。思い通りにはならない自然の身体は見えにくくなっているようです。



 『身体の文学史』(新潮社)は、解剖学者の養老孟司が明治以降の小説において、身体がどう扱われてきたかを考察した本です。わたしなりに要約すれば、江戸時代以来の日本社会は隅々まで制度で管理され、本来、肉体的な兵士である武士も、行政職となり、身体は流派の型や所作として管理された。著者はそれを「脳化社会」と呼んでいます。



 明治になっても、森鷗外や夏目漱石には自然としての身体は意識されることなく、テーマは”こころ”であった。



 < 意識的なものとして、身体の役割が最初に文学に登場するのは、芥川[龍之介]であろう。(中略)/ 芥川に登場する身体は、ある特徴を持っている。それは主人公を引きまわすのである。『鼻』および『好色』は、その好例であろう。(中略)身体という主題に関して、芥川自身の態度を示すのは、『羅生門』である。ここに登場する下人は、死人の髪を抜いてかつらを作る老婆をけ倒して、いずこともなく去る。この下人の気持ちは、芥川の気持ちであろう。この芥川の感情は一般的な日本人の感情であり、脳死臓器移植問題の議論に、そのままの形で、いまだに表現され続けている。>





 昭和になると戦争が始まる。「腹が減っては戦はできぬ」というのが人間の自然ですが、「軍隊はシャバとは違う」として身体は規則に縛られる。戦場の身体として、ここでは大岡昇平の『野火』、『俘虜記』が取り上げられています。



< 比島のジャングルで死にそうな目にあっても、俘虜になっても、大岡昇平は折り目正しい。その規矩は無意識的に世間によって涵養された。(中略)『野火』の主題は人肉食であり、主人公は自分個人の決断で人肉を食べない。その背後にあるのは大岡昇平の規矩なのだが、私にはそんなものはないというしかない。(後略)>



 そして、深沢七郎と三島由紀夫が取り上げられます。深沢七郎は『楢山節考』について、「残酷だと言われたのも意外だが、異色だと言われたのも意外だ。もっと意外なことは、何か、人生観というようなことまで聞かされたのは意外だった。あんなふうな年寄りの気持ちが好きで書いただけなのに、(変だな?)と思った。」と書いているそうです。この小説が中央公論新人賞に選ばれた時の審査員であった三島由紀夫は『楢山節考』について、「ゆうべは怖い小説を読まされて、眠れなかった」と言い、選評でも、耐えがたく怖いと述べる。



 養老孟司は、< そこに歴然と表れるのは、深沢七郎の世界ではなく、むしろ三島が住む世界である。(中略)/ 三島はきわめて論理的な作家のはずだが、その論理は人工の世界を前提に構築されている。要するに「つくりもの」なのである。われわれ自身が抱えており、それで当然であるはずの生老病死が、『楢山節考』という形をとったときに、饒舌なはずの三島が言を喪う。(中略)三島は典型的な脳化社会の人である。(後略)>と分析しています。



 ここまでくると、三島由紀夫が自分の内の自然である身体を、ボディービルで管理しようとし、私設軍隊の規律を課し、結局、身体を滅ぼしてしまうことになった意味が透けて見える気になります。



 三島由紀夫事件からは半世紀以上が経っていますが、この間、脳化社会の様相はますます進展しています。身体という自然を生々と動かし、全人的に生きたいものです。


#「会話を聞く楽しみ」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2023-03-06


身体の文学史

身体の文学史

  • 作者: 養老孟司
  • 出版社: 新潮社
  • メディア: 単行本

nice!(23)  コメント(2) 
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コメント 2

そらへい

三島の
>その論理は人工の世界を前提に構築されている
確かにそう思いますね。
だから深沢の肉体的な話が怖かったのだと思います。
AIとか脳化という物には、感覚とか感情がありません。
どちらに偏っても無理があり、
私たちはバランスの中で生きているのだと思います。
by そらへい (2023-04-05 20:10) 

爛漫亭

 そらへいさん、「腹が減っては戦はできぬ」というのは
名言で、この本の内容を一言で示しています。「からだ」の
言葉を大切にしたいものです。
by 爛漫亭 (2023-04-05 20:39) 

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