SSブログ

今年の「この3冊」 [読書]

 年末になると、新聞の書評欄が楽しみです。この一年に出版された本から、書評担当者が "これは” と思った本を選んで発表しています。毎日新聞では、2週間にわたって 35人の評者が3冊ずつ採り上げ、百語ほどの解説を付けています。選ばれている本は重複がありますので、100冊程になります。



 毎年、この欄を見ながら、来年はどの本を読もうかと参考にします。また、川本三郎、三浦雅士、荒川洋治、養老孟司といったお気に入りの評者が、どんな本を挙げるのかも楽しみです。また、自分が今年読んで面白かった本を、誰かが推薦していないかという興味もあります。



 今年、最も多くの評者に選ばれていた本は、鷲見洋一『編集者ディドロ 仲間と歩く『百科全書』の森』(平凡社)で、4人が採り挙げていました。同書を選んだ評者の一人、文芸評論家の湯川豊は「(前略)『百科全書』とは何か。膨大な資料を駆使してそれを成立させた背景までを書ききっている。(後略)」と述べています。それだけの人に選ばれるからには、文句なしの好著なのでしょうが、約 900頁の大著なので、実物を見ないで取り寄せるのはためらわれます。書店でどんな本か見てみたいものです。



 フランス文学者の鹿島茂と元外交官の佐藤優が、エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか? 上・下』(堀茂樹訳 文藝春秋)を選んでいました。鹿島は「(前略)家族人類学理論の集大成。(中略)人類の歴史が新しい角度から解釈され、未来への展望が披露される。」と書いています。



 また、日本史家の磯田道史は石崎晴己『エマニュエル・トッドの冒険』(藤原書店)という本を採り挙げています。E.トッドが多くの人に関心を持たれていることが分かります。彼は 1976年に、人口統計学的に、10~30年後にソ連邦が崩壊(1991年)すると予想したことで知られており、その後もイギリスの EU離脱やトランプ政権の誕生を言い当てているそうです。



 E.トッドが人類の未来にどんな展望を示しているのか? この本は読んでみたい気がします。2023年がどんな年になるのか、ウクライナ、ロシア、コロナ、北朝鮮、中国、エネルギー、温暖化、円安など不確定な要因が山積しています。



 わたしの蟄居生活も4年目になろうとしています。どんな展望があるのか? トッド先生のご高説を拝聴したいものです。


#「「顔」のでき方」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2022-03-02



nice!(23)  コメント(8) 
共通テーマ:日記・雑感

海舟の語ったこと [読書]

 勝海舟(1823-99)は赤坂区氷川町に住んでいたので、氷川伯と呼ばれていたそうです。彼が 晩年、新聞や雑誌に載せた談話を吉本襄が自分で聞いたのも含め編集して纏めたのが『氷川清話』*です。海舟の肉声を聞くような面白さがあります。



 < おれは今日までに、都合(つごう)二十回ほど敵の襲撃に遭(あ)つたが、現に足に一ヶ所、頭に一ヶ所、脇腹に一ヶ所の疵(きず)が残って居るヨ。>


 < 文久三年の三月(中略)宿屋がどこもかしこも塞(ふさが)つて居るので、致し方なしにその夜は市中を歩いてゐたら、ちやうど寺町通りで三人の壮士がいきなりおれの前へ顕(あら)はれて、ものをも言はず切り付けた。驚いておれは後へ避けたところが、おれの側(そば)に居た土州の岡田以蔵(おかだいぞう)が忽(たちま)ち長刀を引き抜いて、一人の壮士を真つ二ツに斬つた。>



 映画の中のシーンのようです。岡田以蔵といえば 1969年の映画『人斬り』で勝新太郎が演じていました。田中新兵衛を作家の三島由紀夫が演じ、その切腹シーンが話題になりました。



 < 西郷なんぞは、どの位(くらい)ふとつ腹(ぱら)の人だつたかわからないよ。手紙一本で、芝、田町の薩摩屋敷まで、のそのそ談判にやつてくるとは、なかなか今の人では出来ない事だ。(中略)/西郷は庭の方から、古洋服に薩摩風の引つ切り下駄をはいて、例の熊次郎といふ忠僕を従へ、平気な顔で出て来て、これは実に遅刻しまして失礼、と挨拶しながら座敷に通つた。(中略)/さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれのいふ事を一々信用してくれ、その間一点の疑念も挟まなかつた。「いろいろむつかしい議論もありませうが、私が一身にかけて御引受けします」西郷のこの一言で、江戸百万の生霊、その生命と財産とを保つことが出来、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。>



 勝海舟はいろいろな人物についても語っています。維新の群像のひとりとして、< 坂本龍馬。彼(あ)れは、おれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑つて受けたが、沈着(オチツ)いてな、なんとなく冒(おか)しがたい威権があつて、よい男だつたよ。> と懐かしげに語っています。




 明治29年に東北地方に津波(明治三陸地震)が襲った時には、< 天災とは言ひながら、東北の津浪(つなみ)は酷(ひど)いではないか。(中略)おれは実に歯痒(はがゆ)く思ふよ。(中略)/ この様な場合に手温(てぬ)るい寄附金などと言うて、少し計(ばか)りの紙ぎれを遣(や)つた処が、何にもならないよ。昔、徳川時代の遣り口と、今の政府の遣り口とは、丸で違ふよ。(中略)/ イザと言ふこの様な場合になると、直(す)ぐにお代官が被害地に駆け附けて、村々の役人を集め、村番を使うて手宛をするのだ。/ 先づ相当な場所を選んで小屋掛けをするのだ、此処(ここ)で大炊(おおた)き出(だ)しして、誰れでも空腹で堪(た)まらない者にはドンドン惜気(おしげ)もなく喰(く)はせるのだ(後略)> と憤慨しています。



 江戸っ子らしい喋り口で、ドラマで観たり、小説で読んだりして、おなじみな場面を、本人が語るのでリアリティがあります。氷川のご隠居の今昔談を聞かせてもらうようです。




*勝海舟『氷川清話』松浦玲・江藤淳 編(講談社学術文庫)・・吉本襄の編集したものを、初出文献に当って再編集している。


氷川清話 (講談社学術文庫)

氷川清話 (講談社学術文庫)

  • 出版社: 講談社
  • メディア: 文庫

nice!(22)  コメント(4) 
共通テーマ:日記・雑感

坂道の記憶 [読書]

 東京には住んだことがないので、街の構造がなかなか分かりません。用事で出かけた場所を少し覚えているだけで、点が線にならず、面としての東京がイメージできません。


 また京都なら碁盤の目で、位置関係が分かりやすいですが、東京の道は曲がっていて、アップダウンもあります。神戸なら坂があっても、下りはほとんど南向きで、海に通じていますが、東京の坂道はどっち向きか分かりません。


 白洲正子の「東京の坂道」*を読んでいると、< 俗に「山の手の坂、下町の橋」と呼ばれる > と書かれていて、なるほどと思いました。


 そのなかで白州は < 長男が生まれたのも赤坂氷川(ひかわ)町で、今の赤坂六丁目のあたりである。「氷川坂」の崖下の、日当たりの悪い家だった。坂を登った所に、氷川神社があり、よく乳母車をひいて散歩に行った。(中略)/ 氷川神社は、村上天皇の天暦(てんりゃく)五年(九五一年)に一ツ木のあたりに創建され、八代将軍吉宗のとき、現在の地に移されたという。オオナムチノ命(みこと)と、スサノオノ命、クシイナダヒメを祀(まつ)っているのは、出雲(いずも)系の神社であることを示しており、してみると、氷川は出雲の箙(ひの)川から出た名称に違いない。> と記していました。


 そういえば、わたしも十数年前、近くに泊まったことがあり、朝の散歩をしていたとき、氷川神社や「忠臣蔵」の"雪の別れ”の南部坂があったのを思い出しました。その時は勝海舟の談話録『氷川清話』を読んだあとだったので、勝海舟はこのあたりに住んでいたのだと思いながらあたりを眺めました。


IMG_0039.jpeg


 氷川神社というのは関西人にはなじみがありませんが、おおもとは埼玉県さいたま市にあり、武蔵国一帯に約280社もあるそうです。


 さいたま市のあたりは古代に出雲族が住みついた土地なのだそうで、氷川神社の祭神のオオナムチノ命とは因幡の白兎の話で知られる大国主神のことです。


 それぞれの土地には個人的な思い出やら、人々の暮らして来た歴史やらが地層のように積み重なっています。坂道ひとつにもいろんな人の思いがこもっていることでしょう。


*白洲正子『夢幻抄』(世界文化社)

#「大国主神の国譲り」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2017-05-13

nice!(21)  コメント(6) 
共通テーマ:日記・雑感

人間らしくやりたいナ [読書]

 自伝というのはあるていど齢がいってから書けば、余裕をもって若かった頃が回顧できます。また、登場人物も既に他界していたりして、気兼ねなく描けるという面もあるでしょう。


 開高健は自伝的小説『青い月曜日』を 34歳で書き出しており、戦中・戦後を生きた、まだ生々しい記憶を無理やり言葉で定着させようとする迫力があります。鮮烈な色や鼻をつく臭いに溢れていて、汗や血や分泌物で書かれた文章のように感じられます。


 開高健は昭和5年(1930)に大阪で生まれています。中学生時代は第二次世界大戦の最中で、勤労動員により鉄道の操車場へかり出されています。毎日のようにグラマン P51の機銃掃射がありました。ある日は逃げ遅れ、田んぼに逃げ込みます。


 < その瞬間、頭を削るほど低く”熊ン蜂”が疾過した。薄い泥の膜ごしに目が一瞬に多くのことを見た。(中略)機首には黄や赤や青のペンキでポパイが力こぶをつくっている漫画が描いてあり、機関砲がはためいて火を噴いていた。(中略)防弾ガラスごしに操縦席の男がはっきりと見えた。巨大な風防眼鏡(めがね)にかくされている頬が信じられないほどの薔薇いろに輝き、快活に笑っていた。人は人を殺すときに笑ったりするのだということをはじめて知らされた。>


 < 夜になると空襲がある。サーチライトで蒼白に切り裂かれた乱雲のなかをB29の大編隊がゆうゆうとわたってゆく。爆弾と焼夷弾の大群が落下しはじめる。一筒一筒の爆弾が空から鋼線をつたいおちるような悲鳴をたてて殺到する。(中略)暗い狂騒のなかによこたわり、私はじっと耳を澄ませながら、つぎのやつでやられる、つぎのやつでやられると、考える。>


 延々とこんな話が続きます。「如何にして生き延びて来たか」という記録です。「あとがき」で開高は < 自分の内心によりそって作品を書くことはするまいと決心していた。(中略)けれど、そろそろ私はそのことにくたびれ、飛翔ができなくなって、文体も素材もみつけることができず、(中略)だからこの『青い月曜日』という長篇で私は求心力をつかんで、ずっとふりかえるまいと心に強いてきた自分の内心にはじめてたちむかってみようと考えたのである。 > と書いています。


 開高は、この自伝の連載5回分の原稿を書いて、ベトナムへ取材に出かけます。帰国後、彼は「ある苛烈な見聞と経験のため」一時この自伝を書き継げなくなります。


 やっとの思いで、戦争が終わってからの生活についてを書き継ぎます。< もう三ヵ月近くになるが、誰も私が昼食を食べないことに気がついていない。誰にも洩(も)らしたことがないし、気(け)どられたこともない。誰も知らないうちにこっそり教室をぬけだして水を飲みにいき、なんとなく歩きまわって時間をつぶしてから教室へもどる。誰にもこのことを知られたくなかった。>


 食うために学生ながら仕事を転々とするうち、文学仲間と出会い、女性詩人と関わり、21歳で父親となるまでを書き尽くしています。


 < 私にとっては少年時代と青年時代はいつもとめどない宿酔(ふつかよい)であったように感じられる。《戦争》があってもなくてもそうだったのではあるまいかと思う。あれらの日々の記憶はいまだに私の皮膚に今朝(けさ)のことのように入墨(いれずみ)されて、ヒリヒリしながらのこっている(後略)> と著者は振り返っています。


 「人間らしくやりたいナ」は壽屋(現・サントリー)宣伝部時代の彼の代表的なコピーです。




青い月曜日 (集英社文庫)

青い月曜日 (集英社文庫)

  • 作者: 開高 健
  • 出版社: 集英社
  • メディア: 文庫

nice!(21)  コメント(4) 
共通テーマ:日記・雑感

幻の月山 [読書]

 鳥海山は秋田へ出かけたおり、レンタカーで友人たちと中腹まで行きましたが、山形県の月山は見たことがありません。大学生のころ、奥羽本線の夜行列車の暗い窓を覗き、昼間なら月山が見えるのだろうか? と、口惜しく思った記憶があります。


 森 敦の小説『月山』には < 月山はこの眺めからまたの名を臥牛山(がぎゅうざん)と呼び、臥した牛の北に向けて垂れた首を羽黒山(はぐろさん)、その背にあたる頂を特に月山、尻に至って太ももと腹の間の陰所(かくしどころ)とみられるあたりを湯殿山(ゆどのさん)といい、これを出羽三山と称するのです。> と書かれています。


 そして、夕焼けのの月山を < すべての雪の山々が黒ずんでしまった薄闇の中に、臥した牛さながらの月山がひとり燃え立っているのです。> と描写しています。


 また、元禄2年(1689)、松尾芭蕉は『おくの細道』で、 < 六月三日、羽黒山に登る。(中略)/八日、月山に登る**。木綿注連(ゆふしめ)身に引きかけ、宝冠に頭(かしら)を包み、強力といふものに導かれて、雲霧山気の中に氷雪を踏んで登ることハ里、更に日月行道(じつげつぎやうだう)の雲関に入るかとあやしまれ、息絶え身凍えて頂上に至れば、日没して月あらはる。笹を敷き篠を枕として、臥して明るを待つ。日出でて雲消ゆれば、湯殿にくだる。/ 谷の傍(かたはら)に鍛冶小屋(かぢごや)いふあり。この国の鍛冶、霊水を選びて、ここに潔斎して剣(つるぎ)を打ち、つひに「月山」と銘を切つて世に賞せらる。> としています。そして・・・


   雲の峰いくつ崩れて月の山 


・・・などの句を書き留めています。『芭蕉文集』*の頭注では < 炎天下の入道雲が次々と崩れ去って、夕空には、中天高く聳(そび)え立つ月下の月山の威容だけが眼前に迫って来る。> と解説しています。


 三百年後、芭蕉の全紀行を追いかけた嵐山光三郎は『芭蕉の誘惑』(JTB)で、この句について、< 夜の山道を歩くと、目前に雲の峰が現れては消え、突然雲の峰が崩れて、その奥に月光に照らされる月山が見えた、という動きがある句である。> と解釈していました。


 そして嵐山は、< 私は三十年前にこのコースを歩いたが、かなり険しい山道で、へとへとに疲れたことを覚えている。> とのことで、今回はバスで月山八合目の弥陀ヶ原まで行くことにしたと言い、随行した < 曽良の『旅日記』によると、芭蕉は弥陀ヶ原で昼食をとり、一気に月山に登った。「難所成(なんしょなり)とある。私は弥陀ヶ原を少しばかり登っただけで、引きあげることにした。月山は標高一九八四メートルで、芭蕉が生涯登った山のなかで一番高い。命がけであったろう。> と書いています。


 関西に住んでいると、みちのくは遠く、出かける機会が少ないですが、いつか、わたしも白雪の月山を麓からでも眺めてみたい気がします。


 ちなみに、このあいだ読んだ恩田侑布子の本***では前句について、< 「雲の峯」は積乱雲で夏の季語。男性原理をあらわす。対する「月の山」は、次のような五つの入れ子構造をなしていよう。/ 一つは、現に登拝している月山。二つは、秋季の月に照らされた山。三つは、麓の刀鍛冶の銘「月山」。四つは、天台止観でいう真如の月(羽黒山・月山とも当時、本山は天台宗寛永寺)。五つは、女性原理の暗喩である。> と分析していました。


 どこかに行ってみようと思うのは、その場所になんらかの思い入れが生まれた時なのでしょう。日本海を眺めながら、北へ汽車旅に出かけたいものです。


*『新潮日本古典集成 芭蕉文集 富山奏 校註』(新潮社)

**随行した曾良の『旅日記』では、月山に登ったのは六日で、頂上の角兵衛小屋に泊まったとあります。

***『渾沌のラマン恋人』(春秋社)




月山

月山

  • 作者: 森 敦
  • 出版社: 河出書房新社
  • メディア: 単行本

nice!(21)  コメント(6) 
共通テーマ:日記・雑感

女二人の抱腹絶倒 [読書]

 今は古本屋さんに出かけなくとも、ネットですぐ手に入るので、古い本も簡単に読むことができます。家内が有吉佐和子『女二人のニューギニア』を読んでみたいと、注文しましたが、二日ほどで届きました。1985年出版の文庫本ですが、原本は 1969年に出た古い旅行記です。


 小説家・有吉佐和子が友人の文化人類学者・畑中幸子の誘いにのって、ニューギニアに出かけた話です。


 <「東京は騒がしゅうてかなわん。私はもう疲れてしもうた。早うニューギニアへ帰りたい。ニューギニアは、ほんまにええとこやで、有吉さん。私は好きやなあ」/「そう、そんなにニューギニアっていいところ?」/「うん、あんたも来てみない? 歓迎するわよ」> ということで、有吉佐和子は翌年(1968)、ニューギニアに出かけました。


 ニューギニアはオーストラリアの北側にある熱帯雨林の島ですが、日本国土の約2倍の面積があります。


 ウイワックという島北部の空港で待っていてくれた畑中さんは、< 私を認めると彼女は走ってきて、/「あんた、やっぱり来たわねえ。よう来たわねえ。まさか、まさかと思ってたのに」> と大歓迎してくれます。


 < どのくらい歩くのですか」/「二日です」/「一日にどのくらい歩きますか」/「はい、十一時間です」/(中略)/「誰が歩くの?」/「あんたと私」/(中略)/「あんたが疲れたら、三日にしてもええけどね」> とんでもない話になります。


 畑中さんのフィールド・ワークの拠点のあるヨリアピという所まで、ジャングルの中を、山をいくつも越え、川を渡り、野宿しながら行くのです。


 < これがジャングルか、私は、あらためて周りを見回した。たしかに木がいっぱい生えている。それが次第に深くなって、もう空が見えない。(中略)私は軍手をはめた手を伸ばしては、目の前の枝につかまり、よいしょッと腕に力を入れて這い上るようになっていた。>


 < 「畑中さん、足の爪が痛いの」/頂上に着いてから、私が言い出すと、/「当然よ!」/畑中さんがはたき返すように答えた。/「私なんか一往復する度に指の爪はがれてるわ。今は三度目のんがはえかわりや」/そんなことを東京で一度でも聞いていれば私はニューギニアに決して出て来はしなかっただろう。(後略)>


 <三日目の朝、私は起き上がれなかった。> という訳で、< ものの五分とたたないうちに、二本の手ごろの木が切って運ばれてきて、その間に私を寝かせると蔓草を器用に巻きつけて、私を縛りつけ、つまり仕留めた野豚をかつぐのと同じ要領で、彼らは私をかつぎあげたのである。>


 畑中さんが手配したシシミン族の人たちにかつがれ、著者は畑中さんの小屋があるヨリアピにたどり着きます。シシミン族というのは 1965年に発見された種族で、畑中さんの研究対象です。手に手に弓矢を持ち、首に竹と貝のネックレスを巻きつけている者、鼻に野豚の牙をさしている者、ビーズ玉を頭にも首にも飾っている者、みんな草を腰蓑のようにしているか、ヒョウタンを前にはめています。


 こうして有吉さんのニューギニア滞在が始まります。最初は1週間ほどの予定でしたが、足の爪が剥がれかけており、とても、また空港まで3日間歩き続ける気力も体力もありません。とりあえず爪が治るまでと、女二人、シシミン族の中での日々が続きます。


 畑中幸子さんは 1930年生まれで有吉さんより1歳年長で、和歌山県立田辺高校を卒業しており、ともに和歌山にゆかりがありました。1967年に『南太平洋の環礁にて』という岩波新書を出版し、その稿料でニューギニアにやって来たそうです。


 < 乾パンとコンビーフとトマトしか材料がないのでは、どう知恵を絞っても思いつく料理の数は知れている。(中略)/「シシミンはサツマイモの他に何を食べているの?」/「鳥と野豚やな。釣りの習慣がないからね、それと蛇や」>


 < 私は望郷の念しきりで、子供のことばかり考えていて、吾が子よ、この愚かな母を許せと、そんなことをぶつぶつ呟(つぶや)き、なんとかして歩かずに、あの山々を越す法はないものかと、思えばさらにぐったりして、なんで出て来てしまったのだろう、どうして誰も止めてくれなかったのかと、またしても恨みであった。>


 有吉さんは手に入れた野豚を料理したり、パンツを手縫いしてシシミンに与えたり、女二人の楽しい悪戦苦闘を書き綴っています。


女二人のニューギニア (朝日文庫)

女二人のニューギニア (朝日文庫)

  • 作者: 有吉 佐和子
  • 出版社: 朝日新聞社
  • メディア: 文庫


 帰国のチャンスは突然出現します。上空にヘリコプターが現れたのです。驚いたシシミンたちが奇声をあげ、有吉さんも必死で叫び、手を振りました。地図を作っていた「聖書を各国語に訳す団体」のヘリコプターだったのです。急遽、便乗させてもらいヨリアピ脱出に成功しました。


 やれやれですが、まだ続きがあります。日本に帰国後、有吉さんは高熱発作に襲われ、三日熱マラリアと診断され入院するはめになります。後日、学会出席のため一時帰国した畑中さんは < 「なんでやろなあ。私は、なんともないのに、あんただけなんでマラリアになったんやろか」/不思議でならないと首を傾(かし)げていた。> そうです。


 1984年に有吉さんは他界されましたが、畑中さんは 2013年に『ニューギニアから石斧が消えていく日 人類学者の回想録』(明石書店)を出版しています。


「紀伊半島の一隅で」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2022-05-19

nice!(23)  コメント(10) 
共通テーマ:日記・雑感

一句を読み解く [読書]

   何ヶ月かまえ、毎日新聞の書評欄で渡辺保(演劇評論家)が「斬新な日本文化論が現れた」として、恩田侑布子『渾沌のラマン恋人 北斎の波、芭蕉の興』(春秋社)という本を紹介していたので、取り寄せてみました。渡辺さんの書評はだいたいにおいていつも興味深く読んでいます。”斬新な日本文化論”とはどんなものだろう?


 著者は 1956年、静岡生まれの俳人・文芸評論家とあります。一読、元気な、すこしヤンチャなおばさんといった感じで、やや思弁的ですが、日頃の思いをまとめて書き綴ったという熱量の高さを感じました。今回は、文化論はさておき、取り上げられていた俳句の解釈がおもしろかったので、いくつか抜き出してみます。


 プロローグでは、< 芭蕉は女のひとを恋したことがあったのかしら。 > と書き出していました。そして、芭蕉が尾張で出会った杜国との別れにおくった・・・


    白げしにはねもぐ蝶の形見哉 (芭蕉)


・・・について、< 白げしの花びらに分け入って蜜を吸っていた蝶が、みずから白い翅(はね)をもぎ、わたしを忘れないでと黙(もだ)し与える。(中略)もうあなたのいない空など飛べない。飛びたくないという激情が潜む。杜国二十七歳、芭蕉四十一歳の恋である。> と読み解いています。< 芭蕉は精神的にも深い衆道(しゅうどう)を好み、市井の女性に燃えることはなかったと思われる。 > と解説しています。



   命二ツの中に生(いき)たる桜哉 (芭蕉)


 < 芭蕉は郷里の伊賀で俳諧の手ほどきをして二十年前に別れた、かつて九歳の少年であった土芳(どほう)と、近江の水口でゆくりなき再会を果たした。いま、ふたりの前にはひともとの桜が咲きほこっている。不思議なことが起こる。見下ろす大桜の黒々とした幹にも枝にも、満開の花という花にも、鏡像のように二人のいままでの歳月が脈打ち、息づきはじめるのであ。枝もたわわに花びらはさざめき交わす。互いを思う気持ちは憑りうつり、なりかわり、芭蕉・土芳・桜木という三者三様の入れ子構造となって、花明かりのなかに変幻し合うのである。(後略) >



   ゆめにみし人のおとろへ芙蓉咲く (久保田万太郎)


 < 夢にみた恋しいひとに、歳月を隔ててゆくりなくも再会した。だが、そのひとははっとするほど年を召されていた。(中略)/芙蓉は一日花である。夕べには、絵巻を丸めたような姿で地に落ち、色を深める。しかしいま秋気(しゅうき)のかすかに通う日差しに、花のあどけないかんばせは、わずらいの影もなく風にたゆたう。忘れられないあの日の頰のように。ひとの世の何十年が、芙蓉の一日に凝縮され、目の前に咲きゆらぐ。(後略)>



   短夜のあけゆく水の匂かな (久保田万太郎)


 < あっけなく明ける夏の夜、あっけなく終わるひとの一生を暗示する興の俳句である。いのちのはかなさは季語の「短夜」に託され、万人の五体に染み付いたなつかしい「あけゆく水の匂(にほひ)」にとかしこまれる。ほのかにやさしい人肌のようなやまとことばの調べにのせて無常をそこはかとなく嘆いている。(後略)>


 やや過剰ぎみですが、こんな風な解釈を読んでいると、一句から世界が広がります。ふだん何気なく眺めている言葉に豊かな情感が立ち昇ってきます。本書の帯に詩人の荒川洋治が「詩歌の全貌を知るための視角と、新しい道筋を、鮮やかな絵巻のように描き出す。重点のすべてにふれてゆく、大きな書物だ。」と推薦文を寄せているのも、ある程度、納得できました。




渾沌の恋人(ラマン): 北斎の波、芭蕉の興

渾沌の恋人(ラマン): 北斎の波、芭蕉の興

  • 作者: 恩田 侑布子
  • 出版社: 春秋社
  • 発売日: 2022/04/19
  • メディア: 単行本

nice!(25)  コメント(6) 
共通テーマ:日記・雑感

マンボウになるまで [読書]

 北杜夫といえば「どくとるマンボウ」シリーズがよく知られていますが、大学生のころ父親の看病をしながら、『楡家の人びと』を読んだ憶えがあります。夜中に「背中をさすれ」などと何回も起こされ、看病は一晩で根をあげましたが、小説はおもしろくて読みふけりました。


 その後、5年ほどして『木精』という回想記のようなものを読み、20年ほど経って父親・斎藤茂吉の評伝・四部作を読みました。また、確か大学生のころ、北杜夫が当地へ講演に来たことがありました。楽しみに聞きに出かけましたが、彼は登壇して何かぼそぼそと喋ったかとおもうと、そのまま引っ込んでしまい、それでおしまいで、唖然とした記憶があります。


 わたしは北杜夫(1927-2011)の愛読者というわけではありませんが、若いころ友人が彼の『幽霊』がいいと言っていたのが頭に残っていたので、先日、読んでみました。「ある幼年と青春の物語」という副題がついていました。著者が 23-4歳の頃の最初の長篇小説で、昭和 29年に自費出版しています。昭和 35年になって中央公論社から刊行されました。


 < 人はなぜ追憶を語るのだろうか。/どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うように見える。ーーーーだが、あのおぼろな昔に人の心にしのびこみ、そっと爪跡を残していった事柄を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻しつづけているものらしい。 >


 ういういしく抒情的な書き出しです。現在の自分を育ててきた心に残る事柄を見つめなおしてみようという思いが語られています。作家としての出発点に立っている雰囲気が感じられます。


 < 広い原っぱを、雑草の生い茂ったなかを歩いていた。どの草も異様に背が高く、手足にふれてこぼれおちる露も酸漿(ほおずき)くらいの大きさに感じられた。靄がかかっていて、空の光は夢像のようにぼんやりしていた。(後略) > 幼児期の原っぱの記憶です。夢を思い出そうとしているような筆致です。


 < そのうちに、僕はふと上を見あげた。僕の背後におおきな樹木があり、その枝がちょうど僕の頭上におおいかぶさっていた。枝葉の隙間から斑らにこぼれおちてくる日光に気をとられた僕は、しばらくのあいだそのまま仰向いていたのだ。それはあたかもなにかの啓示のようであった。なぜなら、次の瞬間、くらい枝葉の繁みのあたりから、キラキラする、ちいさなまばゆい物体が僕の目の前にとびおりてきたからだ。(後略)> 少年期の蝶々との出会いの場面です。少年は昆虫採集にのめりこむようになります。


 少年には手品に凝っている叔父さんがいた。< 「ほうれ、見ろ」と彼は言い、ものものしい身ぶりと共にさっと腰をひねると、もう彼は何色もの色つきハンカチを手にして得意げにうちふってみせるのだった。 > 親とは違う大人の存在が少年の視界を拡げます。誰にとっても後から思えば、そんな大人が成長の触媒になっていたことに気づくかも知れません。


 少年は信州の学校に進み、青年となっていきます。 < その当時ーーー破滅にちかい戦局のさなかにひとり信州にきて間もなく、終戦から食糧難の秋冬にかけて、ずっと僕は<病気>であった。(中略)ようやく青年期にはいろうとする僕をおそったこの不安定な症状は、純粋に精神の病いと呼んでよかったろう。 > 彼は虚ろな心で重い足をひこずって、夜の街を歩きさまよう・・・。


 < とある街角で僕は足をとめた。背すじを、ほとんど痛みにちかい慄えが走りすぎたのである。僕は耳を傾けて、ごく微かながらも一軒の家のなかから流れてくる旋律を聴いた。> それは「牧神の午後への前奏曲」との再会いで、それは心の眩暈のように彼を捉え、夢のような光景へと誘う。


 <・・・一匹の綺麗なタテハチョウが、ひとしきり僕の頭上を飛びまわっていたが、やがて苔むした木株のうえに羽を休めた。静かに息づくように翅を開閉させると、濃紺の地に隠されていた瑠璃いろの紋が燐光のように燃えたった。僕は憶いだした。たしかその蝶はずっと以前、はじめて僕が捕虫網を買ってもらった時分、山の道ばたで見つけた魔法の蝶にちがいなかった。 > 精神の回復の過程がつずられています。


 < 太陽はめくるめく輝きを収め、島々谷の左方の稜線にかかっている。立ちならぶアルプスの尾根尾根の立体感はうすらぎ、平面的に夢幻的に、きびしさを消しさった表情にかわりはじめた。(中略)大地の静寂のなかに、僕は自分のたましいに呼びかける山霊のこえを聴いたように思った。そして、稚い肉体にしばしばおとずれる圧倒的な憧憬におののきながら、憑かれたようにこう心に語りかけた。/『僕はこの世の誰よりも<自然>と関係のふかい人間だ。僕は自然からうまれてきた人間だ。僕はけっして自然を忘れてはならない人間なのだ』> こうしてーーある幼年と青春の物語ーーは終焉へと向かいます。


 著者の成長と脱皮の物語です。50年ほどまえ、友人が『幽霊』がいいと言っていた時、彼自身が脱皮の季節にあったのだろうと思い返します。人は青年のある時、みずからの来し方を眺め、何らかの決着をつけて、大人になっていくのでしょう。


「カロッサは振り返る」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2022-01-21


幽霊 ある幼年と青年の物語

幽霊 ある幼年と青春の物語

  • 作者: 北杜夫
  • 出版社: 中央公論社
  • メディア: 単行本



nice!(24)  コメント(9) 
共通テーマ:日記・雑感

ことばの由来 [読書]

言葉の由来や成り立ちを知るのはおもしろいものです。意外であったり、ビックリしたりします。「あかんべ」と下まぶたを指先で下方に押さえ、まぶたの裏の赤い部分を出すしぐさは「あかめ(赤目)」が変化した言葉だそうです。


 堀井令以知『語源をつきとめる』(講談社現代新書)は日本語の言葉の由来が俗説やこじつけ、当て字などに埋もれていることを例示し、日本語にはラテン語とフランス語のような同族の言語が不明なため、語源探索が困難であることを述べています。そして、先人の研究の足跡をたどり、時代による言葉の変化や方言の比較などによって言葉の根源を突きとめる過程を記しています。


 当て字や俗説にまみれた言葉の例として「あんばい」を挙げています。漢字で塩梅とか按配と書かれますので、< 塩と梅酢で味を付けるのでアンバイというなどのこじつけ説が流行(はや)った。また、アンバイは塩梅=エンバイの変化した形だなどという説もある。/しかし、実は、アンバイは漢語ではなくて和語のアワイからの語なのである。「間」という意味に近い語であった。> と解説しています。


 物の名前にも由来があります。「じゃがいも」がジャカトラ(ジャカルタ)芋から、「かぼちゃ」がカンボジアからきていることはよく知られていますが、「ほうれん草」がペルシャの漢語訳「頗陸 ポーロン」「菠薐 ポーレン」に由来しているとは驚かされます。

 

 言葉にはそれを使う人びとの歴史や習俗などが積み重なっています。語源をつきとめることによって日本人の暮らしが見えてきます。


「「だらしない」と「ふしだら」」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2019-12-12


語源をつきとめる (講談社現代新書)

語源をつきとめる (講談社現代新書)

  • 作者: 堀井 令以知
  • 出版社: 講談社
  • メディア: 新書

nice!(23)  コメント(2) 
共通テーマ:日記・雑感

淀川のほとりで [読書]

 大阪弁というのは肌にまとわりつくような、ぬるま湯につかっているような語感があります。岩阪恵子『淀川にちかい町から』(講談社)は淀川の左岸、大阪市旭区を舞台にした短篇小説集です。戦後から昭和を生きた人々の暮らしがスケッチ風に描写されています。30年近く前に買った本ですが、読んだのかどうか思い出せず本箱から取り出しました。


 < 猫がやっと通れるくらいにあいた襖の隙間から、鶴子は隣の部屋をのぞいた。/「あれ、鶴子ちゃん、いたん。またおなか痛(いた)か、よう痛(いと)なるねんなあ」/松田の細君が呆れたように言った。/「あんたはお嬢さんやさかい、おなかもお上品にでけてはるねんやろ。うちの子ォら、ちょっとくらいおかしいかな思うもん食べたかて、どうもならへんけどなあ」/口に出して言わなくても、松田の細君は腹のなかで鶴子を「あかんたれ」と思っているのは明らかだった。 > 少女時代の洋服店を営む家庭風景です。鶴子のゆかたが職人・松田の娘に譲られ、子どもたちは祭りに出かけます。


 < 彼は、残っていたビールを一口啜る。/珍しく、ひとりで食卓に向かっていた。四歳下の同じく年老いた細君は、裏のおばあさんの通夜に行っていた。おばあさんに先立たれたおじいさんを、"気の毒になァ"とさかんに同情しながら彼女は、"今月はこれでもう三軒目ですわ、この町内だけで"と続けた。> 老夫婦の会話の一コマです。おじいさんは補聴器をつけたりはずしたりし、吉野川で遊んだ子ども時代や、大阪に出てきてからの洋服店での年季奉公の思い出を回想します。


 著者は小説の冒頭で、< 日々の生活のなかで生じる些細なこと、つまらないこと、変哲もないことどもが、時を経て、ふいにまざまざと脳裏に甦ってくることがある。事件などとはほど遠いそれらの過去の断片が、よくも記憶の井戸の底で生きながらえてきたものよ、と思うほどだ。 > と書いています。


 坦々と大したことも起こらない、日常風景が十篇の小説に描きだされています。まるで単調な日々こそ意味があるとでもいった書きっぷりで、大阪弁の会話が心地よく耳に残ります。


 岩阪恵子は 1946年、奈良県に生まれ、大阪市旭区で育っています。関西学院に学び、詩を書き始めます。24歳で詩人・小説家の清岡卓行と結婚し、東京に転居しています。ここにまとめられた短編小説は 1990-93年に雑誌に発表されたものですから、著者は40歳代だったことになります。淀川のそばで暮らした幼少期への愛惜が文章の背後に窺えます。


 < 芝でおおわれた堤のところどころに設けられた階段を登るにつれ、眼下にひろがるのは淀川とその河川敷だ。鶴子を惹きつけているのは堤防というよりは、堤防の彼方にゆったり展開されるこの光景であった。>  手術した父親を見舞いに久しぶりに帰郷した娘は父の散歩につきあう。< 下流から規則的なエンジンの音をたて、艀が上ってくる。切れ目なく五艘連なってきたと思ったら、間隔をおいてまた三艘やってきた。/「そうか、あんたも四十六歳になったか」/出し抜けに父が呟いた。>


 著者は淀川の流れに時の移ろいを重ねているのかも知れません。この本を買った時は、娘の年齢に近かったのですが、今では父親のほうが近くなっています。本を読む視点が変わります。




淀川にちかい町から

淀川にちかい町から

  • 作者: 岩阪 恵子
  • 出版社: 講談社
  • メディア: 単行本


 


nice!(21)  コメント(4) 
共通テーマ:日記・雑感