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淀川のほとりで [読書]

 大阪弁というのは肌にまとわりつくような、ぬるま湯につかっているような語感があります。岩阪恵子『淀川にちかい町から』(講談社)は淀川の左岸、大阪市旭区を舞台にした短篇小説集です。戦後から昭和を生きた人々の暮らしがスケッチ風に描写されています。30年近く前に買った本ですが、読んだのかどうか思い出せず本箱から取り出しました。


 < 猫がやっと通れるくらいにあいた襖の隙間から、鶴子は隣の部屋をのぞいた。/「あれ、鶴子ちゃん、いたん。またおなか痛(いた)か、よう痛(いと)なるねんなあ」/松田の細君が呆れたように言った。/「あんたはお嬢さんやさかい、おなかもお上品にでけてはるねんやろ。うちの子ォら、ちょっとくらいおかしいかな思うもん食べたかて、どうもならへんけどなあ」/口に出して言わなくても、松田の細君は腹のなかで鶴子を「あかんたれ」と思っているのは明らかだった。 > 少女時代の洋服店を営む家庭風景です。鶴子のゆかたが職人・松田の娘に譲られ、子どもたちは祭りに出かけます。


 < 彼は、残っていたビールを一口啜る。/珍しく、ひとりで食卓に向かっていた。四歳下の同じく年老いた細君は、裏のおばあさんの通夜に行っていた。おばあさんに先立たれたおじいさんを、"気の毒になァ"とさかんに同情しながら彼女は、"今月はこれでもう三軒目ですわ、この町内だけで"と続けた。> 老夫婦の会話の一コマです。おじいさんは補聴器をつけたりはずしたりし、吉野川で遊んだ子ども時代や、大阪に出てきてからの洋服店での年季奉公の思い出を回想します。


 著者は小説の冒頭で、< 日々の生活のなかで生じる些細なこと、つまらないこと、変哲もないことどもが、時を経て、ふいにまざまざと脳裏に甦ってくることがある。事件などとはほど遠いそれらの過去の断片が、よくも記憶の井戸の底で生きながらえてきたものよ、と思うほどだ。 > と書いています。


 坦々と大したことも起こらない、日常風景が十篇の小説に描きだされています。まるで単調な日々こそ意味があるとでもいった書きっぷりで、大阪弁の会話が心地よく耳に残ります。


 岩阪恵子は 1946年、奈良県に生まれ、大阪市旭区で育っています。関西学院に学び、詩を書き始めます。24歳で詩人・小説家の清岡卓行と結婚し、東京に転居しています。ここにまとめられた短編小説は 1990-93年に雑誌に発表されたものですから、著者は40歳代だったことになります。淀川のそばで暮らした幼少期への愛惜が文章の背後に窺えます。


 < 芝でおおわれた堤のところどころに設けられた階段を登るにつれ、眼下にひろがるのは淀川とその河川敷だ。鶴子を惹きつけているのは堤防というよりは、堤防の彼方にゆったり展開されるこの光景であった。>  手術した父親を見舞いに久しぶりに帰郷した娘は父の散歩につきあう。< 下流から規則的なエンジンの音をたて、艀が上ってくる。切れ目なく五艘連なってきたと思ったら、間隔をおいてまた三艘やってきた。/「そうか、あんたも四十六歳になったか」/出し抜けに父が呟いた。>


 著者は淀川の流れに時の移ろいを重ねているのかも知れません。この本を買った時は、娘の年齢に近かったのですが、今では父親のほうが近くなっています。本を読む視点が変わります。




淀川にちかい町から

淀川にちかい町から

  • 作者: 岩阪 恵子
  • 出版社: 講談社
  • メディア: 単行本


 


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コメント 4

そらへい

大阪弁の作品というと
野坂昭如とか、田辺聖子などを思い浮かべます。
私は関西人なので違和感ないですが
関東の人たちにはどう感じられているのでしょうね。

by そらへい (2022-09-07 20:32) 

爛漫亭

 そらへいさん、そういえば以前、私と叔母が
雑談しているのをそばで関東生まれの人が聞いて
いて、後で「漫才を聞いてるみたいですね」と
言われたのにはビックリしました。普通の会話
だったのですが・・・
by 爛漫亭 (2022-09-07 21:06) 

tai-yama

関東だと大阪弁と言うよりは「関西弁」でひとくくりしてしまう
ことが多かったり。でも、おかしい感覚かもしれませんが、京都弁は
関西弁に入っていないイメージが(笑)。
by tai-yama (2022-09-08 00:09) 

爛漫亭

 tai-yamaさん、関西弁といってもいろいろですね。
大阪弁、河内弁、和歌山弁など・・・アクセントが
関東とは違うのは一致していますが。京都は別格です。
京都の言葉が日本語で他はすべて方言です。
by 爛漫亭 (2022-09-08 08:28) 

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