小説と映画の微妙な関係 [読書]
「読んでから見るか 見てから読むか」というコピーがありましたが、5月の毎日新聞の書評欄に、菅野昭正『小説と映画の世紀』(未来社)という本が取り上げられていました。評者の川本三郎が<本書は、二十世紀という時代をとらえた壮大な文化誌にもなっている。>と書いていましたので、取り寄せて読んでみました。
20世紀に書かれた小説を原作とする映画 12本について、フランス文学者の著者は原作を時代背景を含めて読み込み、それがどんな風に脚色され映画になっているか、詳細に分析しています。小説にあって映画にない部分、映画にあって原作にない場面など、よく調べているなと感心させられます。原作となった小説は以下の 12作です。
トーマス・マン『ヴェネチアに死す』
F.カフカ『審判』
B.パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』
E.M.フォースター『インドへの道』
P.D.ラ・ロッシェル『ゆらめく炎』
E.ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る』
M.デュラス『愛人』
A.カミュ『異邦人』
G.グリーン『第三の男』
A.バージェス『時計じかけのオレンジ』
M.クンデラ『存在の耐えられない軽さ』
U.エーコ『薔薇の名前』
なんとも魅力的なラインナップです。若い頃に読んだ小説、観た映画、読んだことも観たこともないものもありますが、話題になったものばかりです。
フランス文学者である著者は邦訳の『ドクトル・ジバゴ』以外は原作をフランス語、英語またはフランス語訳で読んだというのは驚きです。文章は誠実ですが、やや高踏的で、少し持って回った言い方が多く、授業を拝聴している気分になります。読み終えて、勉強になったなァという思いです。
<ルキーノ・ヴィスコンティ監督の演出による『異邦人』が公開されたのは、一九六七年のたしか秋も深い頃だった。当時、私はパリで暮らしていたが、これは見逃してはならないと思って、さっそくモンパルナッス駅近くの映画館へ出かけた日のことは、半世紀以上も経ったいまでもよく覚えている。>
本邦での公開は 1968年で、わたしはその頃、地方都市の大学生で、カミュの『異邦人』がマストロヤンニ主演で、映画でどんな風に表現されるのだろうかと、興味を持って街中の映画館に入りました。
<映画の表現性の特質を生かした変奏をいくつか加えながら、ヴィスコンティの演出が小説への忠実さを基本にしていたのは疑う余地がない。しかしながら、それはテクストの表層への忠実さの域に留まっていて、もっと深いところまで届いているかどうか、疑問としなければならない。(後略>
わたしは映画を観終わって、「これはちがう・・・」という感想が湧いてきたのを思い出します。何か残念な、物足りない気持ちになりました。本書の著者の記述を読みながら、「そうだよなァ」と相槌をうちます。
映画にしろ本にしろ音楽にしろ、他人の感想を聞かせてもらうのは、大きな楽しみです。また、戦争や革命に彩られた20世紀という時代を 12作の原作小説と映画化で振り返るというのは、趣向を凝らした試みです。