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カッケと肉ジャガ [読書]

 日本には江戸時代から、脚気(かっけ)という病気がありました。足がだるく、むくみ、動悸がし、心臓麻痺となる。江戸、大坂などの都会に多く、「江戸わずらい」とよばれました。将軍も家光、家定、家茂が脚気で亡くなったそうです。



 吉村昭『白い航跡』(講談社)は、脚気の原因解明に寄与した高木兼寛(たかきかねひろという人物の伝記小説です。兼寛は嘉永2年(1849)、日向国(宮崎県)に大工棟梁の子として生まれています。鹿児島で蘭方医に学び、幕末には薩摩藩の軍医として戊辰戦争に従軍しています。



 戦争のなかで、蘭方医が銃創などには手をこまねるばかりなのに対し、西洋医が果断に切開、切断などの処置で、戦傷者を救っているのを見て、兼寛に西洋医学への渇望が生まれます。



 帰郷後、鹿児島でイギリス人医師に学び、招かれて東京の海軍病院に勤めることになります。そこで見たのはおびただしい脚気患者でした。明治11年には海軍総兵員数4,518名でしたが、脚気患者数は1,485名にものぼり、兵員の32.79%にもなり、死亡者数32名でした。こんな状態が続いていましたが、西洋には同様の病気はなく、原因不明の日本の風土病と考えられていました。



 明治8年(1875)から5年間、兼寛は推薦されロンドンのセント・トーマス病院に留学しました。イギリスに脚気はありませんでした。



 帰国後、兼寛は脚気の発生状況を調べるうちに、軍艦「筑波」の練習航海の記録に注目しました。「筑波」は明治11年、オーストラリアへ7月間の練習航海に出かけていますが、航海中、乗組員、生徒計146名中47名が脚気になっていました。患者の発生状況を調べてみると、航海中と停泊中にはっきりと差があり、シドニー停泊中には患者は発生していなかったのです。停泊中の行動を聞き調べてみると、乗組員たちは交代で上陸し、名所見物などをし、現地の食物を食べていたのです。



 食事の違いに注目した兼寛は、兵員の食事状況を調べます。当時、海軍では食事代を支給し、白米は一括購入して、各自が分担金を払い、残金で副食物を買うという仕組みになっていましたが、調べてみると雑穀を食べていた地方出身者が多い水兵は、白米が食べられるのに満足し、副食用の金銭を貯蓄したり、故郷へ送金したりしているのでした。



 イギリスで栄養学を学んでいた兼寛は、脚気の原因が炭水化物が主で蛋白質が極端に少ない食事にあるのではないかと考え、兵食の改革に取り組みます。パンと肉類に変えようとしますが、受け入れられず、白米に麦を混ぜ、肉類を副食に供しました。この疫学的な調査から導かれた対策により、海軍では脚気患者は激減しました。



 しかし、陸軍では軍医総監・森林太郎(鷗外)をはじめとして、ドイツ医学が主流で、当時、コッホらが次々と病原菌を発見して脚光を浴びており、脚気も未知の病原菌による伝染病と考えられていました。



 その結果、明治37-8年の日露戦争では、海軍では軽症者が幾分でたものの、重症者は無かったのに対し、陸軍では戦死者約47,000名で、脚気患者211,600余名に達し、27,800名が脚気で死亡するという惨状でした。



 明治43年(1910)に農学者の鈴木梅太郎が、ニワトリ、ハトを白米で飼育すると脚気と同じような症状になり、米ヌカを与えると予防できることを見い出しましたが、注目されませんでした。



 1911年、ポーランドのフンクが米ヌカから有効成分を見つけ、翌年、ビタミンと命名しました。こうして脚気の病因がビタミンB1欠乏症であることが明らかになっていきます。



 疫学的な調査から、脚気の原因が食事にあることを推測し、兵食を変えることで海軍から脚気を撲滅した高木兼寛の業績は案外知られていません。病原菌説に固執した陸軍では日清・日露の戦争で多数の脚気による死者を出しており、傷ましい限りです。現代でも同じようなことがあるのではないかと思われます。吉村昭の小説はよくここまで調べたものだと感心させられます。有名な海軍の「肉ジャガ」はそんな歴史の片鱗だったのかも知れません。



#「お稲を継ぐ人たち」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2021-01-06



白い航跡〈上〉

白い航跡〈上〉

  • 作者: 吉村 昭
  • 出版社: 講談社
  • メディア: 単行本

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