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詩人の思い出 [読書]

   青年のころに詩に興味をもった人は多いかも知れません。立原道造の詩もよく読まれていました。『我が愛する詩人の伝記』(講談社文芸文庫)で室生犀星は、< 立原道造の思い出というものは、極めて愉しい。 > と書いています。追分で暮らしていた立原は軽井沢の犀星の家によく来ていたそうです。


 < 私の家を訪れる年若い友達は、めんどう臭く面白くない私を打っちゃらかしにして、堀辰雄でも津村信夫でも、立原道造でも、みんな言いあわせたように家内とか娘や息子と親しくなっていて、余り私には重きをおかなかった。茶の間で皆が話をしている所に、突然這入ってゆくと皆は私の顔を見上げ、面白いところに邪魔者がはいって来た顔付をして、お喋りをちょっとの間停めるというふうであった。 >


 < 立原道造は、顔の優しいのとは全然ちがった、喉の奥から出る立派な声帯を持っていた。話し声や笑い声はすでに大家の如き堂々たる声量を持っていて、時々、私はその立派やかな太い声に、耳を立て直すことがあった。 > 立原はその詩語の繊細さや、写真で見る細面の顔つきとは、少しイメージの違う声だったことが知られます。


   「のちのおもひに」 立原道造


  夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に

  水引草に風が立ち

  草ひばりのうたひやまない

  しづまりかへつた午さがりの林道を


  うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた

  ーーーそして私は

  見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を

  だれもきいてゐないと知りながら語りつづけた・・・

                      (後略)


 ある夏の日の朝、立原が女の人を連れて、犀星の家にやって来ました。戸隠にいる津村信夫を訪ねがてら、しばらく戸隠に滞在するのだとのことでした。< 私は毛布二枚を抱えて、離れに立原と、娘さんとをあんないし、障子をぴたりと締め切り、女中に茶の盆と鉄瓶とをはこばせた。(中略)/女の人は立原の言うことにうなずくだけで、話らしい話はしなかった。どの程度の深さがつきあいにあるのかも、わかりにくかった。ただ、この小がらで地味な、人のこころをすぐに捉えそうに見えるすがたは、立原がたくさんに示さなくともよい愛情を、全部うけとめているふうだった。 >


   「序の歌」


  しづかな歌よ ゆるやかに

  おまへは どこから 来て

  どこへ 私を過ぎて

  消えて 行く?

      (後略)


 < この長躯痩身の詩人がたった二十六歳で死んだことは、死それ自身もあまりに突飛で奇蹟的だ、絶えず微笑をもらし、軽い大跨に歩いた立原がつねに死に対(むか)ってからかい乍ら歩いたものに思えた。 > あの娘さんが、< 中野療養所で昭和十四年三月に亡くなるまで、立原に付添って看護をしてくれた。 >


 #「想いはめぐる」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2019-01-15

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