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記憶のミルフィーユ [雑感]


 このあいだから読んでいた『映画の木洩れ日』*の「あとがき」で、著者・川本三郎はこんなことを書いていました。< ミルフィーユというお菓子がある。「千枚の葉」の意で、薄いパイを何層にも重ねた菓子。私の文章は、このミルフィーユに似ている。/ 二〇二二年に七十八歳になった。この年齢になると、映画体験がいくつも層になって作られている。一九五〇年代から六〇年代の、十代の頃に見た映画。二十代に見たアメリカン・ニューシネマの時代の映画。評論家として、批評を書くようになった七、八〇年代の映画。そして現代の映画。/ さまざまな時代の映画が、まさにミルフィーユのように重なり合っている。現代の映画を語っているうちに次第に下の層の十代の頃に見た映画にたどり着く。>



 なるほどと思います。わたしのように長いあいだ映画を見ていない人間にも、彼の映画の本がおもしろいのは、近い世代として、1950-60年代という共通の基盤の上で生きて来たからなのでしょう。



 こんなことは映画に限ったことではなく、流行歌やファッション、事件、災害の記憶でもそうでしょう。今回の能登半島地震の映像は、熊本城の崩れた石垣の映像に重なり、東北の津波に重なり、阪神・淡路の横倒しになった高速道路の映像に重なり、地震の記憶を重層化させます。そして、社会人になった年に能登半島に旅行し、土産に輪島塗の茶匙を母親に渡した時、母は嬉しそうでしたが、「私の流儀とは違うのよ」と笑っていた記憶も蘇ります。



 人が生活している限り記憶は増え続けます。そして記憶を共有する度合いによって、親しみが深まります。「同じ釜のメシを食う」といった言葉で、人はその辺の事情を表現してきたのでしょう。



 新しい映画を観れば、昔の映画を思い出すように、何につけても過去と比較できるのは長く生きて来た者の特権です。記憶はミルフィーユのように何層にもなり、味わい深いものになっています。


*川本三郎『映画の木洩れ日』(キネマ旬報社)2023年刊




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