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お稲を継ぐ人たち [読書]

  ここしばらく巣ごもり生活が続いています。たまに出かけるのは定期的な病院受診くらいです。待合の長椅子に座っていると、若い女性医師をよく見かけます。調べてみると医師全体では女性の割合は 20%位ですが、 20歳台では 36%にもなるそうです。


 コロナ禍の時節、感染の危険性の中で育児・子育てと仕事を両立している医療従事者の大変さは察して余りあります。夜間の当直業務や急変患者さんによる病院からの呼び出しなど、24時間、365日、ストレスにさらされ続けています。


 コロナの患者さんが、今の調子で増えれば、元々過酷な時間外勤務が常態化している医療現場ではシステムが崩壊し、働く人々のこころは燃え尽きてしまいます。緊急事態宣言のこの1ヶ月が正念場なのでしょう。


 ところで、日本で初めて西洋医学を学んで女医となったのは楠本お稲という人です。幕末にオランダ商館付きの医官として長崎に来たドイツ人・シーボルトが、遊女・其扇(そのおうぎ)との間にもうけた子供です。


 吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘(上・下)』(新潮文庫)は文政6年(1823)のシーボルトの来日から、明治36年(1903)のお稲の死までを、幕末から明治にかけての動乱の歴史の中に描ききっていて読み応えがあります。シーボルトが日本地図を国外へ持ち出した罪で国外追放になったとき、お稲は2歳半でした。母の其扇(本名 お滝)がその後、商人の時治郎と結婚し、お稲も引き取られ、育てられます。


 成長につれお稲はハーフとして美しく、向学心にとんだ娘になり、父と同じ医学を志すようになり、シーボルトの高弟で宇和島藩領卯之町に住む蘭方医・二宮敬作について学ぶため、長崎から卯之町に赴きます。


 二宮敬作のもとで5年間学び、医学の基礎を身につけたお稲は、敬作の勧めもあり産科医となるべくシーボルトの弟子で、岡山で産科をしている石井宗謙のもとに赴き修業しました。


 事情により石井宗謙との間に女児をもうけ、お稲は志なかばで長崎に帰郷します。長崎ではまたポンペや国外追放を解かれて再来日したシーボルトなどに学びます。


 明治4年、お稲は東京で産科医院を開く決心をし、イギリス公使館附通訳官をしていた異母弟のアレキサンデル・シーボルトの助けを受け、築地の外国人居留地で開業しました。


 明治6年、お稲は福沢諭吉の推挙により宮内省からよびだされ、明治天皇の第1子の誕生にむけ御用掛を申附けられます。


 楠本お稲の一生を眺めてみると、学業への弛まぬ努力、行動力、意志の強さが印象的です。幕末に混血児として生まれ、それなりの苦労の中、目的に向かって進む姿には悲壮ささえ感じられます。


 現代の女性医師たちが、結婚・育児などを乗り越えて、医師として学術や技術での大成ができるよう十分な制度的な支援が望まれます。患者にとって、医師の4割近くが女性となる時代がそこまでやってきています。




ふぉん・しいほるとの娘(上) (新潮文庫)

ふぉん・しいほるとの娘(上) (新潮文庫)

  • 作者: 吉村 昭
  • 出版社: 新潮社
  • メディア: 文庫


 

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