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フィンランドのドラマ [音楽]

  静かな正月なので、音楽を聴いて過ごしています。今日はシベリウスの交響曲第3番を H.ブロムシュテット指揮、サンフランシスコ交響楽団の演奏で聴きました。こじんまりした曲で、春の訪れを待つような穏やかなこころの弾みが感じられました。


 フィンランドの作曲家、シベリウス(1865-1957)には交響曲が7曲ありますが、よく知られているのは第2番です。他に交響詩「フィンランディア」とかヴァイオリン協奏曲が CDでよく見かけます。第3番以降の交響曲については好みが分かれるようです。


 『クラシックCDの名盤 大作曲家篇』(文春新書)で著者のひとりの宇野功芳は <「ヴァイオリン協奏曲」や「交響曲第一番」でシベリウス入門を果たしたら、次は駄作の(にも拘らず、演奏回数は最も多い)「交響曲第二番」などに寄り道せず、いきなり「第三番」か「第六番」に進むべきであろう。> と率直に書いています。


 一方、同じ本で共著者の中野雄は <一九〇二年から〇三年にかけて「交響曲第二番」と「ヴァイオリン協奏曲」を完成するが、北欧からの火を噴くような創作のメッセージはそこで途絶える。異論もあろうかと思われるが、シベリウスという作曲家の創作力の頂点は一九〇五年の「ヴァイオリン協奏曲・改訂版」までだったのではなかろうか。> とこれまた思い切ったことを書いています。


 シベリウスの交響曲について、なぜこんなに嗜好が分かれるのでしょう。たとえば小説家の宮城谷昌光は第3番について <私はこの曲を永遠に聴いてゆきたいと思うほど好きである。第二楽章を聴くと涙が湧いてくる。> と記述しています(『クラシック私だけの名曲1001曲』新潮社)。


 また吉田秀和はシベリウスの曲について <私が無理にえらぶとすれば、まあ、『交響曲第二番』ということになろうか。> とシベリウスなんかどうでもいいような言い方をしています(『吉田秀和コレクション 名曲三〇〇選』ちくま文庫)。


 第3〜7番の交響曲については、わたしも思い出しては時に聴きますが、どこがいいのかなぁ〜と憮然とした気持ちになることがあります。ヴァイオリン協奏曲や交響曲第1〜2番で聴こえるエネルギーの集中と発散が感じにくいからです。なにかリビドーが下がっているのかな・・といった気分になります。しかし、その時のこちらの状態によるのか、時によって、こころに沁みる時があります。


 1904年、シベリウスは放蕩生活の結果、経済的な困窮、精神的な不安定状態に陥り、パトロンや妻の支援によって、ヘルシンキから郊外に転居し、生活を改め田舎生活を始めます。交響曲第3番はその後の 1907年の作曲です。その頃に作風が変化したようです。それを創作力の枯渇とみるか、精神性の深化とするか、その時々の、こちらの状態によって聴こえ方が変わります。今日の CDは、寒い中で春の訪れへの待望がしみじみと感じられ、ドラマチックなところはありませんが時節柄、気持ちよく聴くことができました。


#「消しえないもの」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2020-05-23



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