年をとると子どもの頃のことが思い出されます。わたしは昭和30年(1955)に小学校に入っていますので、昭和30年代はちょうど成長期です。わたしは左利きですので、入学後、担任の女性教諭に右手に鉛筆を紐で括り付けられました。木造校舎で、窓の外に橙色のカンナの花が咲いていました。4年生のとき、鉄筋コンクリートの校舎に移転しました。初めて水洗トイレを見、レバーに触れ、急に大量の水が流れ出し、どうしたら止められるのかと焦った記憶があります。



 4年生から野球部に入りました。長嶋茂雄が巨人に入団した年です。最初は投手で、藤田元司のまねをしたオーバースローでした。その後は一塁手になりました。映画「瀬戸内少年野球団」のように淡路島では野球が盛んでした。ちなみに原作者の阿久悠は近隣の村の駐在さんの息子さんでした。大相撲では千代の山、栃錦、若乃花の時代で、子どもたちもよく相撲を取っていました。プロレスも大流行りで力道山の空手チョップは無敵でした。



 その頃はよく頭痛をおこし、「スピード」という置き薬を飲んで寝ていました。熱が出れば氷枕と氷嚢で頭部を冷やすのが普通でした。氷は魚屋で買いました。6年生で近視になりました。かまどで薪で炊いていたご飯が電気炊飯器に変わり、洗濯機、冷蔵庫、テレビが我が家にもやって来ました。



 小学校では講堂や運動場で映画が上映されることがありました。嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」などの時代劇でした。母や兄に連れられて隣町の映画館で観たのは梅若正二の「赤胴鈴之助」、「にあんちゃん」、加藤大介の「大番」、「「お茶漬の味」などでした。わたしが一人で映画館に行ったのは中学1年になってからで、特撮の「モスラ」でした。幕間に美空ひばりの「港町十三番地」が流れていました。



 村には一軒、貸本屋があって、よく漫画本を借りていました。「少年サンデー」、「少年マガジン」が発刊されたのは5年生の時だったようですが、近くに本屋がなく、見るようになったのは中学生になってからだった気がします。小遣いは1日10円でした。



 道に舗装はなく、算盤のようにガタガタで、バスは常に揺れていました。家にはハエが多く、ハエ取り紙が食卓の上に吊り下げられていました。夏は蚊を避け蚊帳の中で寝ました。冬の暖房は炬燵と火鉢くらいで、そのうちに石油ストーブが普及しました。子どもたちは霜焼けとアカギレに悩まされました。鼻汁を垂らした子、目やに、ハタケなど、いろいろでした。小学校の修学旅行まで、島から出たことのない子が何人かいました。



 中学校へ行くのにバスで1時間余の町に下宿しました。週末には洗濯物をカバンに詰めて自宅に帰ります。親元を離れた暮らしの始まりでした。早くから他人の中で過ごし、下宿のおばさんに世話になったので、今だに下宿人のように暮らしているのかも知れません。



 中学1年の夏休み、海水浴に行った夜、右耳が痛みだし、中耳炎になりました。その後、扁桃腺を摘出しました。初めての入院でした。



 「高校三年生」という唄が流行ったのは、わたしの中学3年の時でした。その頃は勉強しながらラジオを聞いていました。リクエスト番組に人気がありました。最近、家内はまた寝ながらラジオを聞いているようです。そういえば子どもの頃はラジオで落語、浪曲、講談などがよく放送されていました。小学生でも広沢虎造のまねとかで浪曲の一節を唸る子がいたものです。




 そして、昭和39年(1964)、名神高速道路ができ、東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されました。わたしは高校1年生になっていました。将来、何になるかを考え始めたころです。それから 60年が経っています。思い返せば、両親や祖父母が健在で、きょうだい、叔父、叔母やいとこたちに囲まれたあの時代は、わたしが育った苗床だったと感じます。そして、次の 10年はわたしの青年時代でした。やれやれ、いろんなことがあったなぁと過ぎ去った時間の回想を一時停止させます。年頭の雑感です。



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