冬・新年の句歌から [雑感]
1月も 10日ともなると日が永くなって来たのが分かります。地震や飛行機事故で始まった新年ですが、北陸は雪の季節となり、被災された人たちの健康や復興の遅れが危惧されます。無常の世の中ではありますが、穏やかな日常が戻って欲しいものです。
老妻の叱咤(しった)の声にて年明けぬ
一家といふはかくて保つか (筏井嘉一)
なんとなく、何処にでもある光景と思われますが、ユーモラスに表現しています。わたしも後期高齢者となり身に沁みます。
すずなすずしろなつかしきものみなむかし (林原耒井)
解説で山本健吉は< 春の七草(ななくさ)の中に数えられた蕪、大根。野草としての昔の称呼が「すずな」「すずしろ」。こういう句は、ほのぼのと暖く、文句なくよい。 *>と記しています。「すずな、すずしろ」の実物を知らなかったわたしは、なるほどと納得します。
松すぎのをんなの疲れ海苔(のり)あぶる (渡辺桂子)
年末から正月と何かと仕事の多かった女性の松の内を過ぎたころの雰囲気が捉えられています。お疲れさまでしたと声をかけたくなります。
毛糸帽わが行く影ぞおもしろき (水原秋桜子)
最近、わたしも外では毛糸の帽子を被っています。何か違和感がありますが、防寒には最適です。
吾が影の吹かれて長き枯野かな (夏目漱石)
明治40年の作のようです。『坊っちゃん』を書き終え、朝日新聞社に入社し、職業作家となった年です。
水涕(みづばな)や鼻の先だけ暮れ残る (芥川龍之介)
山本健吉は<・・・『鼻』の作者は、顔の真中の隆起した部分に、何となく動物的なものの名残りを意識することが多かったのか。・・・>と解説しています。ちなみに芥川も水原秋桜子も明治25年の辰年生まれでした。
『句歌歳時記 冬・新年』から目にとまったものを挙げてみましたが、今年の年始めの気分を反影しているのか、あまり晴れやかにはならなかったようです。梅が咲き、桜が開花する頃には明るい気持ちになれればいいのですが・・・。
*山本健吉『句歌歳時記』(新潮社)・・この本も著者が「週刊新潮」に昭和31年から30年間連載したコラムを「春」「夏」「秋」「冬・新年」の4冊に編集したものです。
空の名残 [雑感]
10月も中旬になって、急に季節が進んでいるようです。昨日は雨が降って肌寒く、つい暖房を入れました。冷房を止めてまだ 2週間ほどしか経っていません。なんとも変な気持ちです。
清少納言は「秋は夕暮」と書いていますが、清々しい秋晴れの陽光も気分の良いものです。楽しかった一日が終わって、ふと夕焼けの空を見るのは、あぁ一日が過ぎてゆくと、少し淋しい気持ちにもなります。
兼好法師は< なにがしとかやいひし世捨人の、「この世のほだし持たらぬ身に、たゞ空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、まことにさも覚えぬべけれ。(徒然草第二十段)*>と綴っています。「ほだし」とは心をひきつけ束縛するもの、「空の名残」はいろいろ解釈できるようですが、わたしには夕映えとも感じられます。「空の名残」という言葉に現代人は惑いますが、兼好には、普通に、さもありなんと深く共感できたのでしょう。
秋はスポーツに相応しいですが、先日は愛知県に住む 3歳の孫の運動会でした。天気も良かったようで、写真や動画が送られてきました。本人は運動会というものがまだよく分からないようで、とまどっているようでした。こうして集団の中での自分の位置や振舞い方を学習してゆくのでしょう。
そういえば今日は母の命日です。もう 40年になります。わたしは 34歳でした。やっぱり秋晴れの日だったと思い出します。今から思えば、いろいろもっと聞いておけばよかったと悔やまれますが、際限のないことでしょう。
今年は猛暑が続きましたが、どんな秋になるのでしょう。天高く、わたしも肥える秋であってほしいものです。
*『 新潮日本古典集成 徒然草 木藤才蔵 校注』(新潮社)
秋の句歌でも [雑感]
いつの間にか、秋がやって来ました。10月になって、日暮れが早くなり、慌てて外灯を点けたりします。早朝に目覚めても、まだ外は暗いままです。庭には萩の小花が揺れています。
白露(しらつゆ)や茨(いばら)の刺(とげ)に一つづゝ (与謝蕪村)
蕪村の繊細で技巧の鮮やかさには、今更ながら驚かされます。涼しくなった朝の空気が白露に結晶しています。
芋(いも)の葉にこぼるる玉のこぼれこぼれ
小芋は白く凝(こ)りつつあらむ (長塚節)
子供のころ、祖母の作っていた畑の里芋を思い出します。大きな葉にころがる玉の露にみとれたものです。 いまだに小芋の煮付けはあまり好物ではありませんが・・・。
鶏頭の十四五本もありぬべし (正岡子規)
たしか中学か高校の教科書で知った句だと思いますが、以来六十年、ずっと頭にこびり付いたままです。以前、根岸の子規庵を訪れたおり、狭い庭を見てまず思ったのは、ここに鶏頭が植っていたのかということでした。そういう意味では、この鶏頭は立石寺の蝉と同じ程に存在感が在ります。
こほろぎのこの一徹の貌(かほ)を見よ (山口青邨)
言われてみれば、鳴いているコオロギの顔は頑固そうです。一夜、いちずに鳴き続ける虫の性を思います。目の付けどころが面白い。
さわやかに流れて来てはひるがへり
風にい向ふ蜻蛉(あきつ)の群(むれ)は (中村三郎)
湿度の低い秋風が感じられ、トンボの群れを目で追う楽しさにひたります。こうなれば秋本番です。中村三郎は若山牧水の門下の歌人だそうです。言葉による表現も上手くできた手品のような一面もあります。今年の秋ははどこか高原にでも出かけられればいいのですが。
爛漫亭も10年目 [雑感]
今月でブログを始めて、まる9年になりました。そもそも 2014年7月に小学校の同窓会があり、かっての同級生が自分のブログに小学生のわたしが写った写真を upしたので、了承してほしいとのことでした。見るとタブレットに見覚えのある写真が出ていました。
帰宅後、仕事に余裕が出来た時期だったので、ふと、わたしもブログをやってみようかとこころが動き「爛漫亭日誌」を始めました。とりあえず読んだ本などの感想を記録しておこうと思いました。
爛漫亭というのは、自宅のあたりに桜の木が多いので、「らんまん」としました。第1回は 2014年8月9日で、「イェルサンのこと」と題し、P.ドゥヴィル『ペスト&コレラ』辻由美訳(みすず書房)を取り上げました。ペスト菌の発見者であるA.イェルサンの評伝でした。読み直してみると、初回ということで緊張したのか、とても硬い文章になっていました。
以来、週1回位のペースで upしてきましたが、年とともに視力が落ち、読書のペースが遅くなり、わたしが読むものとは別に、家内が文庫本などを朗読してくれるようになりました。幸い家内は読書好きで、1日30分ほどの朗読は苦痛ではないようです。おかげで、島崎藤村『夜明け前』、司馬遼太郎『坂の上の雲』、瀬戸内寂聴訳『源氏物語』、河口慧海『チベット旅行記』、谷崎潤一郎『細雪』などを飽きることなく聴き通すことができ、ブログの題材となりました。
いつの間にか9年も過ぎたのかと驚きますが、この間、義母や同僚、隣人、かっての同級生、兄たちが他界し、孫が二人増えました。わたしも2020年に仕事を辞め、転居し、ちょうど新型コロナ騒動と重なって、病気と付き合う歳月になりました。身辺の出来事はいろんな感慨をもたらしました。
自由で気ままな生活に、句読点を打つように、週1回ブログを書くのが習慣になったようです。折にふれてよみがえる記憶も含め、「聴いたこと見たこと読んだことしたこと感じたことの記録」を、つれづれにまかせ、綴っておこうと思っています。
麦わら帽子の夏 [雑感]
猛暑が続いています。朝から室温が28℃もあり、雨戸を開けると蝉の大合唱です。熱中症が身近に感じられ、脱水がないか、つい皮膚をつまんでみます。子供のころ、夏には麦わら帽子を被り、虫取網を持って蝉取りをしたり、午後には家から海水パンツひとつで海水浴に出かけたりしましたが、今ほど暑くはなかったように思います。
先日、作家の森村誠一さんが亡くなられましたが、わたしは読んだことがないのですが、昔、「人間の証明」という小説の映画化のテレビ宣伝に、西條八十の「ぼくの帽子」*という詩が使われていたのを思い出しました。
ー 母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谿底へ落としたあの麦稈帽子ですよ。
(後略)
「麦稈」というのは麦わらを真田紐のように編んだもので、麦わら帽子の材料なのだそうです。喪失したものへの愛惜、それには母への追慕がひそんでいるとも感じられ、いっとき感傷にとらわれます。
1976年から始まった角川映画の第2作でしたが、「読んでから見るか、見てから読むか」など宣伝がキャッチーでした。この西條八十の詩句も多くの人の耳底に残っていることでしょう。
今年は暑くて長い夏になりそうです。このままでは甲子園球児も消耗することでしょう。観客も麦わら帽子をかぶる程度で観戦できる天候であってほしいものです。
*題および詩句は初出雑誌、詩集、全集によって異同があるようです。(追記)
雑誌が消えた [雑感]
6月に「週刊朝日」が休刊し、 101年の歴史を閉じたと思えば、「レコード芸術」も7月号で 71年の幕を降ろしました。雑誌という形態が時代に合わなくなっているようです。そういえば、わたしもここ数年、雑誌を買った覚えがないのに気づきます。
「週刊朝日」はこどものころ親が定期購読していたので、身近にあり、遠藤周作の対談記事を楽しみにしていました。スヌーピーやチャーリー・ブラウンの漫画も谷川俊太郎の気の利いた訳で愉快でしたし、岡部冬彦の「アッちゃん」という漫画もほのぼのとした味がありました。荻野昌弘の映画紹介も記憶に残っています。後年には司馬遼太郎「街道をゆく」や山藤章二「ブラック・アングル」もありました。
親元を離れてからは、「週刊朝日」とは縁が薄くなりました。定期的に週刊誌を買うこともなく、「少年マガジン」などはどこかから回って来たように思います。20歳ごろは月刊誌の「群像」と「現代詩手帖」を数年間購読していました。「群像」に掲載された清岡卓行「朝の悲しみ」、丸谷才一「中年」、大庭みな子「三匹の蟹」などの小説は印象に残っています。吉行淳之介が「暗室」を連載していました。
1960-70年代は現代詩が盛んで、「現代詩手帖」には西脇順三郎、田村隆一、大岡信などの新作が載っていました。《詩》が光輝を放っていた一時期でした。
1974年に仕事についてからは、職業に関わる雑誌に囲まれて暮らすようになりましたが、40歳を過ぎたころから音楽を聴くようになり、「レコード芸術」を数年間、定期購読しました。その月に国内で発売されたクラシックの CDについて、評論家たちが批評し、推薦したりする記事が中心で、次にどの CDを買うかの参考になりました。宇野功芳という評論家の断定的な書き振りが人気でした。吉田秀和の評論も読みごたえがありました。
今回の雑誌の休刊を知り、淋しい気持ちになるとともに、時代の変化を感じました。紙媒体の衰退と価値観の変化が進行しているようです。心機一転、出版社には媒体は何であれ、つい買いたくなるような面白い雑誌を発刊してほしいものです。
洪水の記憶 [雑感]
6月2日の大雨は、よく降り続くなと思っていました。突然、携帯電話がけたたましく鳴って高齢者避難を勧告してきたり、外から救急車やパトカーの走り回る音が聞えてきたりしました。これはなにか被害が出ているのだろうかと不安に感じていましたが、翌日になって近隣の市町村で川の氾濫、浸水などが発生していたことが分かりました。
被害が出る時の雨の降り方は異様で、強い雨が間断なく長時間続きます。2011年9月4日もそうで、当時、わたしは紀南に住んでいましたが、家内と降り続く雨に不安な気持ちになりました。結局、熊野川や十津川の氾濫、深層崩壊、土石流など、那智勝浦を中心に大きな災害となりました(紀伊半島大水害)。
和歌山県は大洪水の記録が何回かあります。わたしがまだ幼児で淡路島に住んでいたころ、海に箪笥や家財道具がプカプカ浮いていたことがありました。周囲の大人たちが「紀州から流れてきたんや」と話していたのが、異様な光景とともに記憶に残っています。後から知ったのですが、昭和28年7月18日に有田川や日高川流域に大洪水がありました(紀州大水害)。
もちろん洪水は和歌山県だけでなくあちこちでおこります。淡路島の家内の実家は海の近くにあり、家内は子供のころ、何回か浸水被害を経験しているそうです。30年程まえ、ニュースで兵庫県南部で大雨とのことだったので、家内の実家に様子伺いの電話をしましたが、「いま、畳をあげている最中です!」とのことでした。幸いその時は被害はなかったようです。
谷崎潤一郎の小説『細雪』には昭和13年(1938)7月3−5日の阪神大水害のようすが詳しく書かれ、洪水にまきこまれた四女・妙子の人生の変転が描かれます。この洪水は妹尾河童『少年H』にも出てきます。あの時代の大きな出来事だったのでしょう。
最近は梅雨や台風の季節に、毎年のように洪水や土石流が起こっています。今年はどうなることやら・・・冷静に危険性を判断し、身を処していかねばと思うばかりですが、今回も過去に記録のない、思いがけない場所で被害が出ているようなので途方にくれます。
神戸のこと [雑感]
先日、甥の結婚式があって、久しぶりに神戸に出かけてきました。淡路島生まれの人間にとって神戸は県庁所在地であり、買い物や進学、就職など繋がりの強い街です。わたしの母方の曽祖父も家内の父親も神戸で生まれています。わたしの兄たちも家内も阪神間の高校や大学へ進学しています。
わたしがこどもの頃の昭和30年代は神戸の中心は元町で、連れていってもらう百貨店は元町の大丸でした。その後、ひと駅東の三宮が賑わうようになり、昭和40年に三宮に地下街(さんちか)ができました。高校生の時、三宮駅前のそごう百貨店に「太平洋ひとりぼっち」の堀江謙一さんのヨット「マーメイド号」が展示されていたのを憶えています。駅横の新聞会館では「ドクトル・ジバゴ」などの映画を見ました。映画を見終わって島へ帰ろうと港へ行くと、濃霧で船が出ず、翌日の定期試験にまにあわなかったこともありました。
神戸からの来客のお土産は、小学生の頃は亀井堂「瓦せんべい」、高砂屋「きんつば」などが多く、その後は風月堂「ゴーフル」、ユーハイム「バウムクーヘン」、モロゾフのチョコレートなどに変わったように思います。子供のとき食べた「きんつば」が懐かしく、食べたいと思っているのですが、機会が訪れません。
街を歩くと、いろんな思い出が蘇りますが、小学生低学年の頃、両親に連れられて神戸で昼食を食べていたとき、母親が突然、「あなたはいつも、今日はどこそこのレストランでなになにを食べて美味しかったと言ってるのに、なぜ今日はラーメンなの!」と怒りだした光景が記憶に残っています。当時、両親は40代だったのでしょうが、母親としては、久しぶりに神戸に来たのに! という憤慨の気持ちが爆発したのでしょう。どこの夫婦にでもありがちな一幕だろうと、今なら苦笑します。
そんな神戸ですが、1995年の阪神淡路大震災で、ビルが倒壊し、火災が広がり、高速道路が倒れている姿には驚嘆しました。あれから28年がたち、街は表面上、復興していますが、なんとなく以前の活気がなくなっているように感じられます。わたしが高齢になり、街が発散する刺激を受け止める感受性が鈍ってきているせいかもしれませんが・・・。
散髪屋さんのこと [雑感]
久しぶりに理髪店にでかけました。この間、髪が長くなると家内に切ってもらっていました。家内はYouTubeで散髪の仕方を研究していました。コロナが下火になり、来月には甥の結婚式もあるので、そろそろ出かけてもいいかなという気持ちになりました。
この散髪屋さんはわたしが大学生の頃からの行きつけで、もう 50年以上になります。先年ご主人が亡くなり、息子さんに代替わりしています。
わたしが若かった 1960-70年代は、長髪が流行ったので、少々髪が伸びても気にならないせいか、元々、散髪は年に数回しか行きませんでした。わたしの父親は、毎週理髪に通う習慣だったので、学生の頃は帰省のたびに「散髪に行け」と叱られていました。
父親の行きつけの故郷の理髪店には、わたしの小学校の同級生がいて、よく一緒に遊びました。その子の母親はお好み焼き屋をしていて、時にご馳走してくれました。また祖父は興行師のような仕事をしていて、旅回りの劇団などを差配していました。床屋の離れには人形浄瑠璃の女師匠さんが暮らしており、友達の父親もわたしの父親もそのオショハンについて義太夫を習っていました。「日も早や西に傾きしに・・・」などと父親は「一谷嫩軍記」の一節を道を歩きながらよく唸っていました。郷里の島では人形浄瑠璃が盛んでした。
散髪屋の友達は左官さんになったのですが、酒浸りとなり、帰省のおりによくない噂を聞くようになりました。50歳になった年に、故郷で小学校の同窓会が開かれたのですが、幹事をしてくれた同級生が、「あいつが亡くなったので、同窓会ができるようになった」と言っていました。飲んで暴れる状態だったようです。
剛毛であったわたしの髪も年とともに細くなり、柔らかく白くなっています。共に遊び学んだ悪童たちの、その後の生い立ちが知りたいような気がします。
4年ぶりの子どもたち [雑感]
春休みで千葉に住む長男一家が、4年ぶりに帰省しました。成長期の子どもたちは身長が伸び、上の子どもはわたしを見おろすようになっていました。4月から高校生で、大人の冗談にも切り返すようになりました。自分の高校生時代を思い出し、まあ、大人への階段を登り始めているのだろうなと微笑ましく思えました。わたしの本箱にあった英語版のチャーリー・ブラウンの漫画を見つけて、「これ、もらうよ」と抜き出していました。下の子は得意げにトランプ手品を見せてくれました。
長男は年度末で多忙とかで、帰省中も別室でテレビ会議をし、家族より先に帰って行きました。40代で働き盛りなのでしょう。わたしが子どもたちが成長期であった時代も、仕事に熱中していたなと振り返る思いでした。
千葉へ帰る日になって、下の子どもが「のどが痛い」と言い出し、鼻水も出しています。「うむ、熱は?」と聞いても、しんどそうに横になっています。慌てて薬局へコロナ抗原検査キットを買いに走り、神妙に家内と嫁が検査したのですが、陰性で、一同安堵しました。帰るのを1日延期してようすを見ましたが、発熱もなく、痛みも改善して、今日は無事に帰りました。
もう、そろそろ子どもたちだけでも、やって来れそうです。次は夏休みにでも来て、わたしの本箱や CDラックを荒らすようになればと、楽しみにします。4年ぶりの子どもたちの成長に驚いた5日間でした。