幕末から明治への物語 [読書]
若い頃、「面識のない人との会話では、政治とスポーツの話題は避けること」という話を聞いて、なるほどと思った記憶があります。お互いの支持政党やひいきチームを知らないで、迂闊な事を言うと相手の気分を害することがあります。
そういう意味では先週末から、野球の日本シリーズとワールド・シリーズが始まり、総選挙があったり、扱いにくい話題が続いています。
それはさておき、今年は秋になっても、曇ったり雨が降ったり不順な天気が続いています。先日は晴れ間をぬって、散歩のついでに、和歌山城の隣の公園にある陸奥宗光の銅像を見学してきました。今ちょうど、辻原登『陥穽 陸奥宗光の青春』(日本経済新聞出版)という本を読んでいるところです。
幕末から明治にかけてを生きた紀州人・陸奥宗光の伝記小説で、勝海舟、坂本龍馬、桂小五郎、横井小楠などとの交流が政情の変転とともに、詳細に興味深く描かれています。小説による近代史といった趣きがあり、歴史に疎いわたしには勉強になります。
和歌山に住んでいると、以前から「陸奥宗光」という名前は銅像ばかりではなく、生誕地とかいろいろな所で目にしていたのですが、あまり興味もなく、何年か前に岩波新書で名前を見かけた時にも、読んでみようかとも思ったのですが、そのままになっていました。
今回、物語りの上手な辻原登が取り上げたので、これは読んでみようとすぐに思い、読み始め、まだ半分ほどしか進んでいませんが、なかなか良く出来た小説だと毎日の読書を楽しみにしています。
物事に対する関心も、何かの”きっかけ”が必要なようです。ワールド・シリーズも山本由伸投手や大谷翔平選手が居なければ、テレビ観戦することも無かったでしょう。
鹿は見ている [雑感]
最近、奈良公園で鹿に攻撃されて怪我をする人が増えているそうです。秋はオスの気が荒くなっているので、角で突かれると大変です。鹿は春日大社の使いとされていますが、飼育されている訳ではなく、野生ですのでそれなりの注意が必要なのでしょう。
鹿は 森のはずれの
夕日の中に じっと立っていた
彼は知っていた
小さい額が狙われているのを
けれども 彼に
どうすることが出来ただろう
彼は すんなり立って
村の方を見ていた
生きる時間が黄金のように光る
彼の棲家である
大きい森の夜を背景にして
(「鹿」村野四郎)
中学か高校の教科書に載っていた詩なのでしょうが、鹿というと思い出します。額を狙われているのが自分であるような恐怖と孤独を感じます。
昔、大台ヶ原へ行ったとき、周辺の樹木が鹿に樹皮を食べられ、大量に立ち枯れていて驚きました。山村では鹿は作物を食い荒らす害獣です。何ヶ月かまえ、熊野古道の山村で鹿肉のハンバーグを食べました。脂っ気のない素朴な味でした。グルテン・フリーの店だったので予約しておいたのです。
狸、狐、猿、鹿、猪、熊などは人間社会に近い野生動物です。狸や狐、猿は昔話に、鹿、猪は花札に、熊は金太郎の遊び相手に出てきます。お互いの領域を荒らさず、古来の付き合いを続けたいものです。
昨日はどんな日 [音楽]
「Yesterday」はビートルズですが、スタンダードには「Yesterdays」という唄が有ります。辞書をみると、「昨日」の複数形なので「過ぎ去った日々/過去」という意味になります。1933年のミュージカル『ロバータ』で歌われたもので、作詞オットー・ハーバック、作曲ジェローム・カーンです。
和田誠さんの本*では歌詞は、<過ぎ去りし日々。幸せで甘く秘密だった日々。古き日々。金色の日々。狂おしい恋の日々。若さも真実も私のものだった。幸せで自由で燃えるような生活も、たしかに私のものだった。悲しいにつけ嬉しいにつけ、今日私は昨日を夢に見ている。>と要約しています。
ビートルズの「Yesterday」では突然起こった困り事を前に、何も無かった昨日が良かったと唄っています。” 彼女は何も言わないで行ってしまった。僕が何かいけないことを言ったせいだろうか "・・・ポール・マッカートニーは14歳で母親を亡くした時、そんなふうに思ったのしょう。1965年のアルバム『HELP!』に入っています。
どちらもよく知られた唄で、どうしても互いに連想されるので歌手のアニタ・オデイには2曲をメドレーで歌ったレコードがあるそうです*。そういえば、その後 1973年には「Yesterday Once More」という唄も流行りました。人によって、昨日にはいろいろな想いがからまっています。
*和田誠『いつか聴いた歌』(文藝春秋)
#「唄をめぐるエッセイ」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2023-07-10
ながい魚 [食物]
先週は所用で淡路島へ2泊3日の帰郷をしてきました。天気が雨模様で、高速道路が速度規制されたり、快適なドライブではありませんでしたが、淡路 SAでタコの唐揚げを食べると、島へ帰った気分になります。
今年は6月にも行ったので、叔母や兄、義姉にそう変わりはありませんでしたが、4年ぶりだった姪夫婦がすっかり初老の感じになっていて驚きました。そういえば、わたしも 50歳ごろから急に白髪が増えたのを思い出しました。この子も、こんな挨拶が言えるようになったのかと感心しました。
姪は以前から長い物が食べられないのですが、わたしは今回はアナゴを意識的に食べました。淡路島ではウナギは見かけないですが、ハモとアナゴはよく食べます。
アナゴは穴子と書くように、岩の割れ目に身をひそめているのですが、ハモとは違って、浅海の砂泥にもいて、体の大部分を砂に埋め、首だけを出し、金色の目を光らせ、小魚やエビを狙っているそうです*。旨いものをたっぷり食べているので美味しいのでしょう。
以前、京都の錦市場を見ていると、穴子の白焼が店先にぶら下がっていたので、買おうかと思ったのですが、淡路産と書かれていたので、京都で淡路の魚を買うこともないかと止めたことがあります。夏の京都のハモも淡路島から運んでいるようです。
長い魚といえば、和歌山の紀南地方ではウツボ(ウミヘビ)の唐揚げが名物になっていました。わたしは1度しか食べたことがありませんが、案外、淡白な味だったように思います。咬まれると大変ですが、日本のウツボには毒はないそうです*。
雨でドライブの気分にもならなかったですが、今回は瀬戸内海の魚がたくさん食べられ、得心しました。ただ、わたしも含め、皆んな老いてゆくのは寂しいかぎりです。
*末広恭雄『魚の履歴書 上』(講談社)
ドン・キホーテって誰? [読書]
7月中旬から『ドン・キホーテ』を読んでいましたが、先日、前篇を読了しました。ここまでは半世紀前、大学生の頃にも読んでいたのですが、今回は後篇も読み通すつもりだったのですが・・・やっぱり、ここで止まってしまいました。
読み出して覚えていたのはドン・キホーテが風車に挑みかかる場面くらいで、あとは全く記憶にありませんでした。そもそも物語は二重構造になっていたのでした。
中世の騎士道物語を読みすぎて、物語の世界に入り込んでしまったドン・キホーテが、サンチョ・パンサを従え、遍歴の旅に出かけ、行く先々でトラブルを引き起こすドタバタ喜劇(現実的なサンチョ・パンサとの掛け合いが絶妙)の間に、旅先で出会った人びとが中心となる恋愛話や冒険譚が劇中劇のように挟まれています。一見、ドン・キホーテは劇中劇のための狂言回し役とも言えます。
400年も前の小説ですが、イスラム教徒とキリスト教徒の諍いや、地中海の海賊など現代につながる話題もあります。そしてこれは、妄想に取り憑かれた人が惹き起こす喜劇ですが、周りの人々にとっては悲惨な災難であり、また一面、理想を実現しようと奮闘する人の悲劇とも読むことができます。
また、今の生活から抜け出したい一心で、ドン・キホーテに従う ”世知に長けた” 近代人サンチョ・パンサの滑稽と悲惨も心に残ります。
こうして眺めてみると、例えば「寅さん」が小型のドン・キホーテのようにも見えてきたりします。子供から大人まで、いろいろに読め、楽しめる多面的な物語です。
しかし、やっぱり長い、いくら時間があるといっても 400年前のペースに半年付き合うのは息が続きませんでした。後篇はまたの機会に致しましょう。