歌謡曲の歴史 [音楽]
中公新書に『昭和歌謡史』というのが出たので読んでみました。著者は刑部芳則という近代史家です。日本でレコードが作られるようになった昭和初期から中森明菜までの流行歌/歌謡曲の歴史を、レコード会社の資料や証言を集めて分析しています。
ちなみに「流行歌」という言葉はレコード会社が作った用語で、一方「歌謡曲」は日本放送協会がラジオで使った言葉で、流行り廃りのない歌という意識だったそうです。
わたしは昭和20年代の生まれなので、戦前に活躍した藤山一郎、東海林太郎や淡谷のり子の歌声も記憶に残っていますが、昭和52年生まれの著者が戦前の唄について、よくこれだけ調べたものだと感心しました。唄の本といえば、たいてい関係者の思い出話なのですが、この本の前半は学者が資料を漁って歴史として記述した趣きです。
大正時代の「カチューシャの唄」の作曲家・中山晋平から古賀政男、古関裕而、服部良一、船村徹などへと続く流行歌/歌謡曲の流れと、それぞれの作曲家の特徴について書き、歌手としては音楽教育を受けていた藤山一郎、芸者の小唄勝太郎、東海林太郎などをエピソードをまじえて紹介しています。
そして昭和12年に日中戦争が始まり、戦時歌謡、軍歌、国民歌謡などが作られた状況を詳述し、一方で、映画『愛染かつら』の主題歌「旅の夜風」(作詞 西條八十 作曲 万城目正)が大ヒットし、289,291枚のレコードが売れた世相を記述しています。昭和18年8月〜19年8月では、最も売れた唄は「若鷲の歌(予科練の歌)」(作詞 西條八十 作曲 古関裕而)で233,000枚だったそうです。
戦後になると、世相を踏まえた「星の流れに(こんな女に誰がした)」や、戦災孤児を扱った「東京キッド」、「ガード下の靴みがき」といった唄も流行りましたが、真珠湾攻撃の記憶もまだ生々しい時に、「憧れのハワイ航路」と歌う感覚とか、戦時中に「別れ船」を唄った田端義夫が復員船を思わせる「かえり船」を唄いヒットさせると、次々「・・船」シリーズを出す商魂など、レコード業界の逞しさも捉えられています。
昭和25年に朝鮮戦争が起こり、日本は軍需景気で経済復興へと歩み出し、地方から大都会への労働力の集中が始まりました。昭和30年代には「リンゴ村から」、「チャンチキおけさ」、「南国土佐を後にして」、「僕は泣いちっち」といった地方から大都会へ行った人たちに関わる唄が多数作られ、ヒットしました。その時代を代表する歌手・三橋美智也はレコード総売上げ一億枚を突破し、これは美空ひばりも成しえなかった記録だそうです。
昭和33年にウエスタンカーニバルが開催され、昭和34年に渡辺プロダクションの企画で『ザ・ヒットパレード』がテレビ放送され、同年から始まったレコード大賞では永六輔作詞、中村八大作曲の水原弘「黒い花びら」が受賞しました。昭和36年にはザ・ピーナッツなどが出演したテレビ・バラエティ『夢であいましょう』や『シャボン玉ホリデー』が始まりました。戦後から高度経済成長の時代へと変わってゆきます。
以後、歌謡曲は多様化し、和製ポップス、青春歌謡、ムード歌謡、フォーク、グループサウンズ、演歌、ニューミュージックなどと分かれてゆきます。子供から老人までが同じ唄を口ずさむような光景は少なくなりました。昭和45年に作詞家・西條八十が他界し、その頃には阿久悠や作曲家・筒美京平などが頭角を現し、百歌繚乱とでもいうような時期を迎えます。
しかし 1989年、昭和の終焉とともに、レコードは CDに変化し、小室哲哉などの J-POP と呼ばれるジャンルが隆盛を極めるようになり、歌謡曲は衰退しはじめました。
日本で最初のレコード歌手となった佐藤千夜子の「波浮の港」から、1980年代までは、ジャンルは分かれても、日本人に好まれる音の並び方の傾向が続いていたようですが、その後は不明瞭になっているようです。
昭和という時代に興亡した歌謡曲の歴史がまとめられていて、読みながらほとんどの唄が耳底に響く気がしました。子供のころ、訳もわからず、♫死んだはずだよお富さん♫、とか口走っていた時から、成長と伴にあった流行歌/歌謡曲が、世相の移り変わりの記憶と共に蘇ります。
元禄の秋 [読書]
『古句を観る』という文庫本があります。柴田宵曲という人が、江戸時代・元禄期(17世紀末頃)の有名でない人の、有名でない俳句を集め、歳時記風に並べて、一句ごとに思うところを書き付けたものです。
夕すゞみ星の名をとふ童かな (一徳)
元禄の子供も星の名前に興味があったのかと驚きます。平安時代の『枕草子』に・・星は すばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。・・とあるくらいですから、いくつかの星に名前が付いていたのでしょう。
庭砂のかわき初(そめ)てやせみの声 (北人)
雨がやんで、土が乾きはじめると、一斉にセミがなき出す。近代俳句の観察を先取りしたような趣きがあります。
深爪に風のさはるや今朝の秋 (木因)
目にはさやかにみえねども、深爪の傷にさわる風に、秋を感じるという訳です。元禄の人はどんな道具で爪を切ったのでしょう?
木犀(もくせい)のしづかに匂ふ夜寒かな (賈路)
「しずかに匂ふ」という言葉は平凡そうで、なかなかしっくりとした表現です。秋の深まりが感じられます。ここに出てくる作者の名前は聞いたことも見たこともない名前ばかりです。
秋の日や釣する人の罔両 (雲水)
「罔両」は「かげぼうし」と読むのかと著者は記しています。魑魅魍魎(ちみもうりょう)の魍魎です。辞書には山川木石の精霊のこと、うっすらとした影などとあります。鮎釣りでもしているのか、秋の空気を際立たせています。
手のしはを撫(なで)居る秋の日なたかな (萬子)
<人生の秋に遭遇した者の経験しやすい心持なのかも知れぬ > と著者は書いています。この本は昭和18年に出ているので、柴田宵曲は45歳くらいだったはずです。わたしも最近、手や腕に細かいシワが増えたなぁと眺めることがあります。
こうして本を繰っていると、300年前の人々の感性が身近に感じられます。芭蕉、其角、去来といった有名な俳人とはまた違った親しみやすさがあります。柴田宵曲は正岡子規門に連なる人なので、彼の目にとまった句を集めているので、選択にはそれなりにバイアスがかかっているのでしょうが、元禄のころの人々の雰囲気が味わえる一冊です。
夢と世界 [読書]
眠りが浅いせいか、夢をよく見ます。たいてい困った事態に陥り、どうしようという時に目が覚めます。
それでふと思ったのですが、カフカの小説『変身』は、ある朝、夢から目を覚ますと、自分が一匹の巨大な虫に変わっていた、と始まります。つまりこれは夢と日常を入れ替えた仕掛けになっています。目が覚めて夢が始まる。あるいは、夢の続きを生きる。そういえばカフカの小説は『審判(訴訟)』も『城』も夢の世界に迷い込むような雰囲気です。
カフカ(1883-1924)はチェコで生まれたドイツ語系のユダヤ人です。当時、お隣りのオーストリア・ウィーンには、夢判断や精神分析を始めたフロイト(1856-1939)がいましたが、彼もユダヤ人でした。
夢に意味を見つけ、夢の世界に入り込むことで人の現況を理解しようという素地が、彼らの社会に根付いているのでしょうか?
わたしの場合、夢はそんなに長いものではなく、一幕物のようです。思いがけない昔の知人が出てきたり、どこか行ったことがあるような場所が舞台です。仕事に関係した状況が多いようで、しかも事がうまく運ばないのが定番です。カフカとは違って、目覚めたとき、夢で良かったと安堵します。途中覚醒して、また眠ると、夢の続きは見ないようです。
目が覚めてから、夢のような事態が起これば、困り果てます。カフカの小説の主人公のように途方にくれることでしょう。先日読んだのは彼の『流刑地にて』という短篇でした。何処か島にある流刑地で、特殊な装置による処刑に立ち会うことになる旅行者の話でした。思わぬ事態の進展で、いつ誰が処刑されるのか、だんだん不安になります。
カフカの小説のような夢は願い下げです。しかし、世界は理不尽な事が多く、カフカの小説のようだと感じれば、やはり虫にでも変身するしかないのかも知れません。
音楽のトラウマ [音楽]
昼下がり、午睡の BGMにチャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」をかけてみました。チョン・キョンファのヴァイオリン、シャルル・デュトワ指揮、モントリオール交響楽団による1981年の演奏です。これは何年か前、チャイコフスキーに「ピアノ協奏曲第二番」というのがあり、聴いてみようと買った2枚組 CDに入っていたものです。
普通、チャイコフスキーのピアノ協奏曲といえば、テレビコマーシャルにも使われる「第一番」が知られていますが、小説家の宮城谷昌光さんは『クラシック千夜一曲』(集英社新書)で、中学生の時の、こんなエピソードを書いていました。
< あるとき音楽の授業で先生が/「これからピアノ協奏曲を二つかけます」/と、おっしゃって、レコードを聴かせてくれました。演奏がおわってから、/「どちらの曲がよかったですか。(後略)>
1曲目が良いとクラスの全員が挙手し、2曲目は宮城谷さん一人だけだったというのです。< だれもいいと感じなかった曲にひとり手をあげました。なんともいえない妙な空気がながれたのをいまでもはっきりとおぼえています。>
あとでの先生の説明では、1曲目はグリーグの「ピアノ協奏曲」、2曲目はチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第二番」だったのです。< 先生は、グリーグのピアノ協奏曲がいちおう名曲ということになっっているとおっしゃいました。> 生徒を傷つけまいとする気持ちが感じられたそうです。
しかし、自分は名曲が分からないのではないかとトラウマになったそうです。大学生になった頃、グリーグを聴いて、いい曲だ、なぜ中学生の時には分からなかったのかと、毎日のように聴いたそうです。しかしいつか、やっぱりこの曲はつまらないと思うようになったとのことです。
一方、チャイコフスキーの「第二番」は聴く気になれなかったそうですが、最近になって聴いてみると、<第一番と第二番ではあきらかに第二番のほうが品格が高い >と思ったそうです。
わたしはチャイコフスキーの「第二番」は聴いたことがなく、また高校生の時、ラジオから流れてきたグリーグの「ピアノ協奏曲」に魅せられた思い出があったので、チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第二番」というのに興味が湧き、先ほどの CDを取り寄せたのでした。
何回か聴いたのですが、「第二番」がそんなにいい曲だとは思えず、いつの間にか忘れていました。今回、たまたま同じ CDに入っている「ヴァイオリン協奏曲」を聴いて、演奏のすばらしさに眠気も無くなってしまいました。
そして翌日、何年かぶりに「第二番」を聴いてみたのですが・・・中学生のわたしも、この曲の方には、やはり手を挙げなかっただろうな・・と思いました。
そして、中学生の時の、「名曲が分からないのではないか」というトラウマが、宮城谷さんをクラッシック音楽の世界へ引きずり込んだのではないかと感じました。わたしもまた、いつか「第二番」がいいと思う時が来るのでしょうか?
#「宮城谷昌光の小説でない本」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2015-07-02
(チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第二番)