海舟の語ったこと [読書]
勝海舟(1823-99)は赤坂区氷川町に住んでいたので、氷川伯と呼ばれていたそうです。彼が 晩年、新聞や雑誌に載せた談話を吉本襄が自分で聞いたのも含め編集して纏めたのが『氷川清話』*です。海舟の肉声を聞くような面白さがあります。
< おれは今日までに、都合(つごう)二十回ほど敵の襲撃に遭(あ)つたが、現に足に一ヶ所、頭に一ヶ所、脇腹に一ヶ所の疵(きず)が残って居るヨ。>
< 文久三年の三月(中略)宿屋がどこもかしこも塞(ふさが)つて居るので、致し方なしにその夜は市中を歩いてゐたら、ちやうど寺町通りで三人の壮士がいきなりおれの前へ顕(あら)はれて、ものをも言はず切り付けた。驚いておれは後へ避けたところが、おれの側(そば)に居た土州の岡田以蔵(おかだいぞう)が忽(たちま)ち長刀を引き抜いて、一人の壮士を真つ二ツに斬つた。>
映画の中のシーンのようです。岡田以蔵といえば 1969年の映画『人斬り』で勝新太郎が演じていました。田中新兵衛を作家の三島由紀夫が演じ、その切腹シーンが話題になりました。
< 西郷なんぞは、どの位(くらい)ふとつ腹(ぱら)の人だつたかわからないよ。手紙一本で、芝、田町の薩摩屋敷まで、のそのそ談判にやつてくるとは、なかなか今の人では出来ない事だ。(中略)/西郷は庭の方から、古洋服に薩摩風の引つ切り下駄をはいて、例の熊次郎といふ忠僕を従へ、平気な顔で出て来て、これは実に遅刻しまして失礼、と挨拶しながら座敷に通つた。(中略)/さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれのいふ事を一々信用してくれ、その間一点の疑念も挟まなかつた。「いろいろむつかしい議論もありませうが、私が一身にかけて御引受けします」西郷のこの一言で、江戸百万の生霊、その生命と財産とを保つことが出来、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。>
勝海舟はいろいろな人物についても語っています。維新の群像のひとりとして、< 坂本龍馬。彼(あ)れは、おれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑つて受けたが、沈着(オチツ)いてな、なんとなく冒(おか)しがたい威権があつて、よい男だつたよ。> と懐かしげに語っています。
明治29年に東北地方に津波(明治三陸地震)が襲った時には、< 天災とは言ひながら、東北の津浪(つなみ)は酷(ひど)いではないか。(中略)おれは実に歯痒(はがゆ)く思ふよ。(中略)/ この様な場合に手温(てぬ)るい寄附金などと言うて、少し計(ばか)りの紙ぎれを遣(や)つた処が、何にもならないよ。昔、徳川時代の遣り口と、今の政府の遣り口とは、丸で違ふよ。(中略)/ イザと言ふこの様な場合になると、直(す)ぐにお代官が被害地に駆け附けて、村々の役人を集め、村番を使うて手宛をするのだ。/ 先づ相当な場所を選んで小屋掛けをするのだ、此処(ここ)で大炊(おおた)き出(だ)しして、誰れでも空腹で堪(た)まらない者にはドンドン惜気(おしげ)もなく喰(く)はせるのだ(後略)> と憤慨しています。
江戸っ子らしい喋り口で、ドラマで観たり、小説で読んだりして、おなじみな場面を、本人が語るのでリアリティがあります。氷川のご隠居の今昔談を聞かせてもらうようです。
*勝海舟『氷川清話』松浦玲・江藤淳 編(講談社学術文庫)・・吉本襄の編集したものを、初出文献に当って再編集している。