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幻の月山 [読書]

 鳥海山は秋田へ出かけたおり、レンタカーで友人たちと中腹まで行きましたが、山形県の月山は見たことがありません。大学生のころ、奥羽本線の夜行列車の暗い窓を覗き、昼間なら月山が見えるのだろうか? と、口惜しく思った記憶があります。


 森 敦の小説『月山』には < 月山はこの眺めからまたの名を臥牛山(がぎゅうざん)と呼び、臥した牛の北に向けて垂れた首を羽黒山(はぐろさん)、その背にあたる頂を特に月山、尻に至って太ももと腹の間の陰所(かくしどころ)とみられるあたりを湯殿山(ゆどのさん)といい、これを出羽三山と称するのです。> と書かれています。


 そして、夕焼けのの月山を < すべての雪の山々が黒ずんでしまった薄闇の中に、臥した牛さながらの月山がひとり燃え立っているのです。> と描写しています。


 また、元禄2年(1689)、松尾芭蕉は『おくの細道』で、 < 六月三日、羽黒山に登る。(中略)/八日、月山に登る**。木綿注連(ゆふしめ)身に引きかけ、宝冠に頭(かしら)を包み、強力といふものに導かれて、雲霧山気の中に氷雪を踏んで登ることハ里、更に日月行道(じつげつぎやうだう)の雲関に入るかとあやしまれ、息絶え身凍えて頂上に至れば、日没して月あらはる。笹を敷き篠を枕として、臥して明るを待つ。日出でて雲消ゆれば、湯殿にくだる。/ 谷の傍(かたはら)に鍛冶小屋(かぢごや)いふあり。この国の鍛冶、霊水を選びて、ここに潔斎して剣(つるぎ)を打ち、つひに「月山」と銘を切つて世に賞せらる。> としています。そして・・・


   雲の峰いくつ崩れて月の山 


・・・などの句を書き留めています。『芭蕉文集』*の頭注では < 炎天下の入道雲が次々と崩れ去って、夕空には、中天高く聳(そび)え立つ月下の月山の威容だけが眼前に迫って来る。> と解説しています。


 三百年後、芭蕉の全紀行を追いかけた嵐山光三郎は『芭蕉の誘惑』(JTB)で、この句について、< 夜の山道を歩くと、目前に雲の峰が現れては消え、突然雲の峰が崩れて、その奥に月光に照らされる月山が見えた、という動きがある句である。> と解釈していました。


 そして嵐山は、< 私は三十年前にこのコースを歩いたが、かなり険しい山道で、へとへとに疲れたことを覚えている。> とのことで、今回はバスで月山八合目の弥陀ヶ原まで行くことにしたと言い、随行した < 曽良の『旅日記』によると、芭蕉は弥陀ヶ原で昼食をとり、一気に月山に登った。「難所成(なんしょなり)とある。私は弥陀ヶ原を少しばかり登っただけで、引きあげることにした。月山は標高一九八四メートルで、芭蕉が生涯登った山のなかで一番高い。命がけであったろう。> と書いています。


 関西に住んでいると、みちのくは遠く、出かける機会が少ないですが、いつか、わたしも白雪の月山を麓からでも眺めてみたい気がします。


 ちなみに、このあいだ読んだ恩田侑布子の本***では前句について、< 「雲の峯」は積乱雲で夏の季語。男性原理をあらわす。対する「月の山」は、次のような五つの入れ子構造をなしていよう。/ 一つは、現に登拝している月山。二つは、秋季の月に照らされた山。三つは、麓の刀鍛冶の銘「月山」。四つは、天台止観でいう真如の月(羽黒山・月山とも当時、本山は天台宗寛永寺)。五つは、女性原理の暗喩である。> と分析していました。


 どこかに行ってみようと思うのは、その場所になんらかの思い入れが生まれた時なのでしょう。日本海を眺めながら、北へ汽車旅に出かけたいものです。


*『新潮日本古典集成 芭蕉文集 富山奏 校註』(新潮社)

**随行した曾良の『旅日記』では、月山に登ったのは六日で、頂上の角兵衛小屋に泊まったとあります。

***『渾沌のラマン恋人』(春秋社)




月山

月山

  • 作者: 森 敦
  • 出版社: 河出書房新社
  • メディア: 単行本

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