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女二人の抱腹絶倒 [読書]

 今は古本屋さんに出かけなくとも、ネットですぐ手に入るので、古い本も簡単に読むことができます。家内が有吉佐和子『女二人のニューギニア』を読んでみたいと、注文しましたが、二日ほどで届きました。1985年出版の文庫本ですが、原本は 1969年に出た古い旅行記です。


 小説家・有吉佐和子が友人の文化人類学者・畑中幸子の誘いにのって、ニューギニアに出かけた話です。


 <「東京は騒がしゅうてかなわん。私はもう疲れてしもうた。早うニューギニアへ帰りたい。ニューギニアは、ほんまにええとこやで、有吉さん。私は好きやなあ」/「そう、そんなにニューギニアっていいところ?」/「うん、あんたも来てみない? 歓迎するわよ」> ということで、有吉佐和子は翌年(1968)、ニューギニアに出かけました。


 ニューギニアはオーストラリアの北側にある熱帯雨林の島ですが、日本国土の約2倍の面積があります。


 ウイワックという島北部の空港で待っていてくれた畑中さんは、< 私を認めると彼女は走ってきて、/「あんた、やっぱり来たわねえ。よう来たわねえ。まさか、まさかと思ってたのに」> と大歓迎してくれます。


 < どのくらい歩くのですか」/「二日です」/「一日にどのくらい歩きますか」/「はい、十一時間です」/(中略)/「誰が歩くの?」/「あんたと私」/(中略)/「あんたが疲れたら、三日にしてもええけどね」> とんでもない話になります。


 畑中さんのフィールド・ワークの拠点のあるヨリアピという所まで、ジャングルの中を、山をいくつも越え、川を渡り、野宿しながら行くのです。


 < これがジャングルか、私は、あらためて周りを見回した。たしかに木がいっぱい生えている。それが次第に深くなって、もう空が見えない。(中略)私は軍手をはめた手を伸ばしては、目の前の枝につかまり、よいしょッと腕に力を入れて這い上るようになっていた。>


 < 「畑中さん、足の爪が痛いの」/頂上に着いてから、私が言い出すと、/「当然よ!」/畑中さんがはたき返すように答えた。/「私なんか一往復する度に指の爪はがれてるわ。今は三度目のんがはえかわりや」/そんなことを東京で一度でも聞いていれば私はニューギニアに決して出て来はしなかっただろう。(後略)>


 <三日目の朝、私は起き上がれなかった。> という訳で、< ものの五分とたたないうちに、二本の手ごろの木が切って運ばれてきて、その間に私を寝かせると蔓草を器用に巻きつけて、私を縛りつけ、つまり仕留めた野豚をかつぐのと同じ要領で、彼らは私をかつぎあげたのである。>


 畑中さんが手配したシシミン族の人たちにかつがれ、著者は畑中さんの小屋があるヨリアピにたどり着きます。シシミン族というのは 1965年に発見された種族で、畑中さんの研究対象です。手に手に弓矢を持ち、首に竹と貝のネックレスを巻きつけている者、鼻に野豚の牙をさしている者、ビーズ玉を頭にも首にも飾っている者、みんな草を腰蓑のようにしているか、ヒョウタンを前にはめています。


 こうして有吉さんのニューギニア滞在が始まります。最初は1週間ほどの予定でしたが、足の爪が剥がれかけており、とても、また空港まで3日間歩き続ける気力も体力もありません。とりあえず爪が治るまでと、女二人、シシミン族の中での日々が続きます。


 畑中幸子さんは 1930年生まれで有吉さんより1歳年長で、和歌山県立田辺高校を卒業しており、ともに和歌山にゆかりがありました。1967年に『南太平洋の環礁にて』という岩波新書を出版し、その稿料でニューギニアにやって来たそうです。


 < 乾パンとコンビーフとトマトしか材料がないのでは、どう知恵を絞っても思いつく料理の数は知れている。(中略)/「シシミンはサツマイモの他に何を食べているの?」/「鳥と野豚やな。釣りの習慣がないからね、それと蛇や」>


 < 私は望郷の念しきりで、子供のことばかり考えていて、吾が子よ、この愚かな母を許せと、そんなことをぶつぶつ呟(つぶや)き、なんとかして歩かずに、あの山々を越す法はないものかと、思えばさらにぐったりして、なんで出て来てしまったのだろう、どうして誰も止めてくれなかったのかと、またしても恨みであった。>


 有吉さんは手に入れた野豚を料理したり、パンツを手縫いしてシシミンに与えたり、女二人の楽しい悪戦苦闘を書き綴っています。


女二人のニューギニア (朝日文庫)

女二人のニューギニア (朝日文庫)

  • 作者: 有吉 佐和子
  • 出版社: 朝日新聞社
  • メディア: 文庫


 帰国のチャンスは突然出現します。上空にヘリコプターが現れたのです。驚いたシシミンたちが奇声をあげ、有吉さんも必死で叫び、手を振りました。地図を作っていた「聖書を各国語に訳す団体」のヘリコプターだったのです。急遽、便乗させてもらいヨリアピ脱出に成功しました。


 やれやれですが、まだ続きがあります。日本に帰国後、有吉さんは高熱発作に襲われ、三日熱マラリアと診断され入院するはめになります。後日、学会出席のため一時帰国した畑中さんは < 「なんでやろなあ。私は、なんともないのに、あんただけなんでマラリアになったんやろか」/不思議でならないと首を傾(かし)げていた。> そうです。


 1984年に有吉さんは他界されましたが、畑中さんは 2013年に『ニューギニアから石斧が消えていく日 人類学者の回想録』(明石書店)を出版しています。


「紀伊半島の一隅で」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2022-05-19

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