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一句を読み解く [読書]

   何ヶ月かまえ、毎日新聞の書評欄で渡辺保(演劇評論家)が「斬新な日本文化論が現れた」として、恩田侑布子『渾沌のラマン恋人 北斎の波、芭蕉の興』(春秋社)という本を紹介していたので、取り寄せてみました。渡辺さんの書評はだいたいにおいていつも興味深く読んでいます。”斬新な日本文化論”とはどんなものだろう?


 著者は 1956年、静岡生まれの俳人・文芸評論家とあります。一読、元気な、すこしヤンチャなおばさんといった感じで、やや思弁的ですが、日頃の思いをまとめて書き綴ったという熱量の高さを感じました。今回は、文化論はさておき、取り上げられていた俳句の解釈がおもしろかったので、いくつか抜き出してみます。


 プロローグでは、< 芭蕉は女のひとを恋したことがあったのかしら。 > と書き出していました。そして、芭蕉が尾張で出会った杜国との別れにおくった・・・


    白げしにはねもぐ蝶の形見哉 (芭蕉)


・・・について、< 白げしの花びらに分け入って蜜を吸っていた蝶が、みずから白い翅(はね)をもぎ、わたしを忘れないでと黙(もだ)し与える。(中略)もうあなたのいない空など飛べない。飛びたくないという激情が潜む。杜国二十七歳、芭蕉四十一歳の恋である。> と読み解いています。< 芭蕉は精神的にも深い衆道(しゅうどう)を好み、市井の女性に燃えることはなかったと思われる。 > と解説しています。



   命二ツの中に生(いき)たる桜哉 (芭蕉)


 < 芭蕉は郷里の伊賀で俳諧の手ほどきをして二十年前に別れた、かつて九歳の少年であった土芳(どほう)と、近江の水口でゆくりなき再会を果たした。いま、ふたりの前にはひともとの桜が咲きほこっている。不思議なことが起こる。見下ろす大桜の黒々とした幹にも枝にも、満開の花という花にも、鏡像のように二人のいままでの歳月が脈打ち、息づきはじめるのであ。枝もたわわに花びらはさざめき交わす。互いを思う気持ちは憑りうつり、なりかわり、芭蕉・土芳・桜木という三者三様の入れ子構造となって、花明かりのなかに変幻し合うのである。(後略) >



   ゆめにみし人のおとろへ芙蓉咲く (久保田万太郎)


 < 夢にみた恋しいひとに、歳月を隔ててゆくりなくも再会した。だが、そのひとははっとするほど年を召されていた。(中略)/芙蓉は一日花である。夕べには、絵巻を丸めたような姿で地に落ち、色を深める。しかしいま秋気(しゅうき)のかすかに通う日差しに、花のあどけないかんばせは、わずらいの影もなく風にたゆたう。忘れられないあの日の頰のように。ひとの世の何十年が、芙蓉の一日に凝縮され、目の前に咲きゆらぐ。(後略)>



   短夜のあけゆく水の匂かな (久保田万太郎)


 < あっけなく明ける夏の夜、あっけなく終わるひとの一生を暗示する興の俳句である。いのちのはかなさは季語の「短夜」に託され、万人の五体に染み付いたなつかしい「あけゆく水の匂(にほひ)」にとかしこまれる。ほのかにやさしい人肌のようなやまとことばの調べにのせて無常をそこはかとなく嘆いている。(後略)>


 やや過剰ぎみですが、こんな風な解釈を読んでいると、一句から世界が広がります。ふだん何気なく眺めている言葉に豊かな情感が立ち昇ってきます。本書の帯に詩人の荒川洋治が「詩歌の全貌を知るための視角と、新しい道筋を、鮮やかな絵巻のように描き出す。重点のすべてにふれてゆく、大きな書物だ。」と推薦文を寄せているのも、ある程度、納得できました。




渾沌の恋人(ラマン): 北斎の波、芭蕉の興

渾沌の恋人(ラマン): 北斎の波、芭蕉の興

  • 作者: 恩田 侑布子
  • 出版社: 春秋社
  • 発売日: 2022/04/19
  • メディア: 単行本

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