SSブログ

ユートピアの住人たち [読書]

 W.サロイヤン『人間喜劇』(小島信夫訳 晶文社)を読んでみました。第二次世界大戦中の 1943年に発表された小説です。舞台はカリフォルニア州イサカという架空の町で、主人公のホーマー・マコーレイは 14歳の高校生で、電報配達の仕事を始めたばかりです。


 < ホーマーは中古自転車に乗っかっていた。自転車は田舎道の埃と勇敢にも格闘しているような恰好ですすんでいた。ホーマー・マコーレイは電報配達の制服の上衣をきていたが、これはやたらに大きすぎ、制帽の方はどうも十分な大きさとはいえなかった。 >


 この童話のような世界に登場する人物たちは、夢のような言葉をしゃべりあいます。たとえば、高校の老女性教師は差別的な暴言を吐く体育教師に激怒するイタリア移民の生徒にこう語りかけます、< バイフィールドさんに謝らしてあげなさい。バイフィールドさんはあなたと同じようにイタリアからきた人たちに謝るのではありません。わたしたちの祖国に謝るのです。もう一度アメリカ人になろうとする権利をあたえてやりなさい」/「そうですとも」と校長はいった。「ここはアメリカですぞ。そしてここで他者(よそもの)は、ここがアメリカであるということを忘れた人たちだけです」校長はまだ地面にノビている男にいった。「バイフィールド君」と校長は命令した。 > かってのアメリカの夢が語られているかのようです。


 放課後、ホーマーは電報局にでかけ、配達する電報がないか確認します。ホーマーが部屋を出て行くと、電報局長と老電信士は語りあいます。< 「あの子をどう思うかね」/「いい子ですな」とグローガンさんはいった。/「ぼくもそう思う」とスパングラーはいった。/「サンタ・クララ通りの、立派な貧しい家庭の子なんだ。父親はいない。兄は兵隊にいっている。母親は夏の間は、罐詰工場で働いている。姉は州立大学の学生だ。あの子はここの仕事をするには二つばかり年がたらん、ま、そんなところだ」/「わたしは二つばかり、年が多すぎますから」とグローガンさんはいった、「うまくやって行けますよ」 >


 < 電報配達はローザ・サンドヴァル夫人の家の前で自転車から下りた。彼は玄関のドアのところにいき、やさしくノックした。(中略)/「誰にきた電報?」とこのメキシコ人の女の人はいった。 > 英語が読めないメキシコ人はホーマーに電文を読んでくれと言います。< 「誰が電報を打ってきたのーー息子のファン・ドミンゴかい?」/「いいえ」とホーマーはいった「陸軍省からの電報です」/「陸軍省?」とメキシコ人の女の人はいった。/「サンドヴァルさん」とホーマーはせきこんでいった。「息子さんはなくなられたんです。たぶん間違いですよ。誰だって間違いはします。サンドヴァルさん。たぶんあなたの息子さんじゃないです。たぶん誰かほかの人です。電報にはファン・ドミンゴと書いてあります。でも、たぶん電報が間違ってるんです」/メキシコ人の女の人は、まるでそれがきこえない様子だった。 >


 ホーマーは自分に責任がある気がし、また、< ぼくはただの電報配達です。サンドヴァルの奥さん。こんな電報を持ってきて、ほんとにすみません。でも、それはただ、ぼくのしなくちゃいけない仕事ですから > と言いたい気持ちにおそわれる。


 こんな風に、心地よく、同時に哀切でもある話が始まります。訳者の小島信夫は後書きで < この人間喜劇という意味は、人間悲劇に対する人間喜劇ではない。人間の営みを人間喜劇と見るという意味で、悲劇を含んでしまった喜劇の意味である。 > と記しています。


 ウクライナの戦況が日々伝えられる中で、物語を読み進めていると、ホーマー少年の心情が生々しく感じられます。


 ホーマーの弟・ユリシーズは踏切で通り過ぎる汽車に手を振っています。< 「故郷(くに)にかえるとこだよ、坊やーーーおいらのところにかえるんだ!」/ちいさな坊やと黒人は、汽車がほとんど見えなくなるまで、お互いに手をふりあった。 >


イサカという架空の街は、アルメニア移民の子として少年時代を孤児院で過ごしたサロイヤンが、叶えられなかった夢を描く舞台となっているのかも知れません。



「読み比べも楽し」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2022-04-08


人間喜劇 (ベスト版 文学のおくりもの)

人間喜劇 (ベスト版 文学のおくりもの)

著者:ウィリアム・サロイヤン

  • 出版社: 晶文社
  • メディア: 単行本

nice!(23)  コメント(4) 
共通テーマ:日記・雑感