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読み比べも楽し [読書]

 本箱をひっくり返していると、以前に買ったウィリアム・サロイヤン『わが名はアラム』(清水俊二訳 晶文社)が出てきました。いつ買ったのか見てみると、1983年8月でした。大学生の頃に読んだと思っていましたが、どうもこれではなかったようです。


 先日来読んでいる『僕の名はアラム』(2016年 柴田元幸訳 新潮文庫)と読み比べてみました。例えば「サーカス」という短篇の冒頭を並べてみます。


 < サーカスが町にやって来るたび、僕と僕の長年の友だちジョーイ・レンナはもう豚みたいに駆け回った。塀や空っぽの店のウィンドウに看板を見ただけで二人ともまるっきり見境なくなって、勉強も放り出した。(柴田元幸訳) >


 < サーカスが私たちの町へ始終やってきたころ、私と私の仲間のジョーイ・レナの二人はサーカスがやってきたということだけでもう夢中になってしまった。板塀や空家にはられたビラを見ただけで、私たちは学校へ行くことを忘れて、不良児童の仲間にはいった。(清水俊二訳 >


 原文を見ていないので、二人の訳語の違いがどこから来ているのかは不明です。柴田訳はきっちり過不足なく訳している感じで、清水訳は簡潔で分かり易いようです。


 清水俊二(1906-88)は映画字幕の草分けで、約2000本の映画に字幕を付けたそうです。字幕は観客に一瞬で理解されなければなりません。そんなテクニックが彼の訳文には仕組まれているのかも知れません。彼はレイモンド・チャンドラー『長いお別れ』などの翻訳でも知られています。


 「スーパー字幕と漢字制限」*というエッセイで、清水俊二は、< スーパー字幕はたいてい一行が十字から十一字ということになっている。一行をぜんぶつかった字幕、あるいは二行にわたっている字幕になると、文字を一字ずつ読まないと意味がわからないが、七、八字ぐらいまでの字幕なら、文字を読まないでも、字幕を見ただけでどんなことがかいてあるかがわかる。 > など字幕の苦労や技術を書いています。彼の翻訳にはどうしたら分かり易くなるかという職業的な習性が染みついているのでしょう。


 柴田元幸と清水俊二の翻訳には 75年の時間が経っています。読み比べていると「牧師」が「司祭」になっていたり、「校長」が「おやじ」に変わっていたり、時代の変化など種々の違いが発見されます。翻訳の達人たちの工夫を読み解くのも読書の楽しみといえるかも知れません。


  *清水俊二『映画字幕は翻訳ではない』(戸田奈津子・上野たま子[編]早川書房)



「わが名はアラム」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2017-02-21


わが名はアラム (ベスト版 文学のおくりもの)

わが名はアラム (ベスト版 文学のおくりもの)

著者:ウィリアム・サロイヤン


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