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計算がきり開く世界 [読書]

 先月の始め頃、毎日新聞の書評欄で養老孟司が森田真生『計算する生命』(新潮社)という本を取り上げ、<読み終わって、評者自身はまことにすがすがしい思いがあった。純粋にものを考えるとは、なんと気持ちのいいことか。> と書いていたので、どんな本だろうと取り寄せて読んでみました。


 著者の森田真生は 1985年生まれの在野の数学研究者で、2015年、『数学する身体』という著書で小林秀雄賞を受賞しています。今回の本は、<指を折って数えるところから、知的にデータを処理する機械が偏在する時代まで> の計算の歴史をたどり直すという内容です。


 数学とか計算といっても、若い頃の受験勉強や実験結果の統計処理くらいで、長いブランクがあります。この間、計算といえば専ら電卓のお世話になるばかりです。乏しい数学の知識を補充し、21世紀の計算の片鱗でも窺えればいいかと読み始めました。


 紀元前300年頃のギリシャのユークリッド幾何学が、 (1) a=b  (2) b=c  (3) ゆえにa=c という証明の論理とともに、12世紀になって、ルネサンスの西欧にもたらされたそうです。この演繹的証明法はカトリック教会の神聖な秩序の規範として、その世界観にも合致したようです。


 そもそも「数」とは何か?、は時代によって変化するようです。17世紀、フランスのパスカルは『パンセ』の中で「ゼロから4を引いてゼロが残ることを理解できない人たちがいる」と苦言を呈しているそうです。彼には「負数」という考えがなかったようです


 <パスカルの時代に数は、物の個数や長さ、面積などの「量」を表すという常識があった。そこではたとえば、「0−4=ー4」や「2−4=ー2」のような式は「無意味」だった。>そうです。 


 <数が「量」を表すと考える代わりに「位置」を表すとみなし、負数に幾何学的な解釈を与えるのが「数直線」のアイデアである。/0の右に向かって正数が一列に並び、0の左に向かって負数が並んでいく。こうして数が一直線上に整然と並ぶ「数直線」のアイデアが、ヨーロッパの書物に現れるのは意外なほど遅い。> 1685年の『代数学』という J.ウォリスの書だそうです。負数(マイナス)が受け入れられるようになりました。ちなみに代数とは数を記号に代えるという意味です。


 同じころ、もともと幾何学は定規とコンパスを用いて解くものであったのが、デカルトなどにより、代数学的に方程式で解くという新しい局面が開かれたそうです。


 また16世紀には「10を二つに分割し、その積が40になるようにするにはどうすればよいか」という問題に対する、(5+√(-15))と(5-√(-15))に分けるという解答や、三次方程式の解から「虚数(2乗すると負になる)」という新たな数が出現しました。しかし、虚数は数直線の上には居場所がありません。


 19世紀になってガウスらは、実数と虚数を合わせて「複素数 complex number」とし、複素数は x+yi(xとyは実数、i=√(-1) )と表せるとしました。


 これによって、複素数は実数を横軸、虚数を縦軸とする座標平面上の一点として場所を得ることになります。数は数直線上だけでなく二次元平面上にあることになり、数学は人間に新しい認識領域を示すことになりました。


 ここから以後はだんだん難しくなります。変数xを横軸に、関数の値 y=f(x) を縦軸に描けば、関数の様子を「グラフ」として平面に描き出すことができます。では、数が複素数のときにはどうなるか? 複素数は線上ではなく平面上にあるので、平面と平面をかけあわせた四次元空間に浮かぶ「グラフ」になるのだそうです。そうなのか、と虚空を見つめる気分になります。


 いずれにしても、「計算」というのはあらかじめ決められた規則に従って記号を操作して行われます。1936年、チューリングは「計算可能性 computability」の概念を体現する仮想的な機械として「チューリング機械」を考案しました。 <計算の秘めるとてつもない可能性は、その後、チューリング機械がコンピュータとして実装されたことで、誰の目にも明らかになっていく。>


 そして、「認知とは計算である」という仮説から人工知能の探求が始まります。結果、今では多くの人が手のひらの上にコンピュータをのせ、メールをチェックし、6時間後の天気を調べ、1ヶ月後のコロナ患者数予測を知り、10年後の平均気温を教えられています。足元では人を避けながら掃除ロボットが動き回っているかも知れません。


 著者は最後にこう書いています。 <人はみな、計算の結果を生み出すだけの機械ではない。かといって、与えられた意味に安住するだけの生き物でもない。計算し、計算の帰結に柔軟に応答しながら、現実を新たに編み直し続けてきた計算する生命である。>


 計算によって示された人類の余命を、人類の行いによって変更することはできるのか? そんなことが問われるのも、もうそんなに遠くはないかも知れません。


#「ホモ・サピエンスの嘆き」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2017-08-07






 

 

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