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いい湯だな [読書]

 昔の作家たちはよく温泉宿に長期逗留しています。それというのも、当時は東京の下宿代より宿賃の方が安かったそうです。川端康成などは学校へはあまり出席せず、伊豆湯ヶ島の湯本館に滞在することが多く、大学の仲間からは「伊豆の守」と呼ばれていたそうです(嵐山光三郎『ざぶん 文士放湯記』講談社)。


 そういえば私の学生時代の昭和40年代でも、東北や信州では素泊まりなら700円で泊まれました。下北半島では宿の人が700円の素泊まりなのを忘れて、イカの糸造りを食べさせてくれたことがありました。現在とは宿賃の感覚が違っています。ただ当時、私は温泉にはまったく興味がありませんでした。


 『ざぶん 文士放湯記』は明治・大正の作家たちの温泉や入浴にまつわる逸話を集めています。「あとがき」にはこんなことが書いてあります。


 <晩年の芥川(龍之介)の顔はいつも垢で汚れていた。菊池寛にならって、顔を洗わなかった。そのため髪には雲脂(ふけ)がたまり、細い指先も黒ずみ、躰全体から異臭が漂っていた。芥川が自殺する三日前、内田百閒(ひゃっけん)が訪ねてきたが、芥川は睡眠薬で半醒半酔の状態で、口がよくまわらなかった。百閒は、/「近くの温泉でも行くか」/と芥川を誘った。芥川の躰があまりに臭かったからである。それに、温泉につければ、躰の睡眠薬が少しでもぬけると思ったのである。/「馬鹿、このくそ暑いのに湯などに入れるか。入るのなら海がいい。このまま海に入れば、溺れて死ぬことができる」/と芥川は答えたという。> 龍之介が好んだのは修善寺温泉・新井旅館だそうで、師漱石の影響のようです。


 私が初めて入った温泉はどこだったろうと思い返してみると、こどもの頃に親に温泉へ連れて行かれた覚えはないし、そうすると中学の修学旅行で泊まった箱根・小涌園だったかも知れません。昭和38年だったと思いますが、勿論どんな温泉だったかは記憶にありません。


 大正13年、大学を卒業した川端康成は震災後の東京を避け、湯ヶ島温泉で半年暮らしました。翌年は1年間湯ヶ島に滞在しました。しかし高校時代に出会った旅芸人の踊子には結局、再会できませんでした。康成が『伊豆の踊子』を書き出したのは、この年のことです。当時、2歳年下の梶井基次郎が結核療養のため湯ヶ島に滞在しており、『伊豆の踊子』の校正をしたそうです(嵐山光三郎『文人悪食』マガジンハウス)。






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