訳者が変われば [読書]
以前、ラ・ロシュフコオ『箴言と考察』(内藤濯 訳)を読んだとき、なかなか面白いと思ったのですが、どうも意味が分からない所が散見され気になっていました。原文がそうなのか、訳文のせいなのか、フランス語も分からないのでそのままになっていました。
訳者の内藤濯は『星の王子さま』の訳で知られた人で、『箴言と考察』も1948年に岩波文庫に入り1983年に絶版になるまで三十数刷を重ねた本です。
1989年、同じ岩波文庫でラ・ロシュフコー『箴言集』(二宮フサ 訳)が出版されています。本屋で見かけるたびに何となく気になって、あの意味の取りにくい所はどうなっているんだろうと思い、読み比べてみることにしました。
例えばこんな風に違っていました。
内藤訳「よい結婚はある。がしかし、食いつきたいほど美しい結婚はない。」
二宮訳「よい結婚はあるが楽しい結婚はない。」
家内に感想を聞くと二宮フサさんは女性なので「これは訳者の男女の差が出ているのだ」とのことです。二宮さんの簡単明瞭な訳文には感心します。
内藤訳「偽善は、悪徳に向かってささげる讃辞である。」
二宮訳「偽善は悪徳が美徳に捧げる敬意のしるしである。」
捧げる相手が反対になっていますが、原文はどうなんでしょう?
内藤訳「青年の多くは、垢ぬけもせず、しかもぶざまな人間であるにすぎないのに、自然な人間だと思い込んでいる。」
二宮訳「大多数の若者は、単にぶしつけで粗野であるに過ぎないのに、自分を自然だと思いこんでいる。」
40年経って青年は若者に変わっています。小説の翻訳でも主人公が「わたし」だったのが訳者が違うと「ぼく」になり、それだけでイメージが変わったりします。
内藤訳「育ちのよい女で、育ちのよさにあきていない女は稀だ。」
二宮訳「貞淑であることに飽き飽きしていない貞淑な女は稀である。」
女性について女性のほうが観察が深いようです。
内藤訳「情熱こそは、二六時中、説得を事とする無類な弁士である。自然の芸術ともいうべきで、その法則はいささかも謬(あやま)るところがない。どんなに単純な人でも、かりにも情熱を抱いている人が他を説得するとなったら、もっとも雄弁な人で情熱をもっていない人などの及ぶところではない。」
二宮訳「情熱は必ず人を承服させる唯一の雄弁家である。それは自然の技巧とも言うべく、その方式はしくじることがない。それで情熱のある最も朴訥(ぼくとつ)な人が、情熱のない最も雄弁な人よりもよく相手を承服させるのである。」
内藤訳に比べ二宮訳の方が頭に入り易いようです。この40年で翻訳術とでもいうものが進歩しているのが分かります。それだけに内藤訳でラ・ロシュフコオに親しんだ世代の悪戦苦闘が偲ばれます。文章の意味を理解するために何度も読み直し、ため息をつき、自分の理解力の足らなさを嘆いたかも知れません。
翻訳本の場合、文章の意味が分かりにくい時は、訳文に原因があるのだと考えるのが、精神衛生には良いようです。
#「フランスの公爵さま」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2020-08-10