ネアンデルタール人との関係 [読書]
三連休で、家内が孫の守に出かけたので、こころ静かに読書三昧です。以前に買っておいた S. ペーボ『ネアンデルタール人は私たちと交配した』(文藝春秋)を読んでいます。
1955年、スウェーデンに生まれた著者は13歳のときエジプトを訪れ、古代の歴史に夢中になる。ウプサラ大学でエジプト学の研究を始めるが、その歩みがあまりにも遅く、自分の好みにあわないことを悟る。生化学者の父親の影響もあって、医学部に入り、免疫学の教室に籍を置く。
そしてミイラの中に、DNA分子は残っているだろうか? という疑問にたどりつく。丁度、PCR という DNA 増幅技術が発達する時機でした。 アルプス氷河でみつかった 5300年前のアイスマンの DNA 分析、次いでネアンデルタール人の分析へと進んでいきます。
自分がたどってきた研究の失敗や成功を、個人の生活や研究者の生態をからませて書いており、巻を措くあたわざる科学読物です。 「約5万年前にアフリカを出た現生人類は、中東でネアンデルタール人の遺伝子を取り込んで、世界中に広がっていったことの証拠が明らかにされた」という壮大なものがたりです。
#「ホモ・サピエンスの嘆き」https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2017-08-07
都市に紛れこむ [徘徊/旅行]
パリでいろいろな問題が起こっています。いろんなことがおきるのが国際都市のゆえんなのでしょう。1976年に始めてパリに行ったとき、コンコルド広場に立って、ここがギロチンの場所かと、歴史を身近に感じました。
1988年に2回目に出かけたときは、パリ東駅からドイツ・マンハイム方面行きの列車に乗りました。第二次世界大戦では兵士たちが輸送された路線です。車内でモロッコ人の青年と隣り合わせました。
1999年にでかけたときは、モンマルトルから南へ向かって歩いていると、ダビデの星の目立つ通りにまぎれこみました。 歩き疲れて、ノートルダム寺院前の広場にすわっていると、いろいろな様子の変わった人たちが通り過ぎてゆきます。老若男女どことなく、それぞれに異様です。これが都市というものなんだと思いました。
世界はいつもどこかで不安定です。また出かけるときがくるのか・・・自分にも分かりません。街を歩きまわる不安定な気分がわいてくるか・・・。
インフルエンザに負けないで [雑感]
そろそろインフルエンザの話題が聞かれるようになりました。毎年、ことしはどんな流行りかたをするのだろうかと、いくぶん不安な気持ちになります。新型はいつ発生するのだろう? 大地震がいつ起こるのか・・・と似たような気分です。
現実には、インフルエンザには、それに対応した薬ができているので、案外、はやく治るようで、普通のカゼのほうが長引くようです。早めに手当すれば、速く治るような思い込みもあったりして、ひとそれぞれな対処法もあるようです。
こどもの頃にはよく、卵酒というのを飲まされました。氷枕をして、氷嚢を額にのせて・・・母親が看病してくれるのを、熱のある児はけだるく寝ている。
「クシャミ3回・・・」というテレビの宣伝は、半世紀以上まえからあったように思います。見たのは「日真名氏飛び出す」という番組だったか、久松保夫、高原駿雄という俳優の顔も憶えています。自宅にテレビがなかったので、親戚の家で観ていました。
来年の春まで、かぜやインフルエンザに負けないで、のんびりと暮らしていたいものです。
うつりかわり [雑感]
木下杢太郎 画『新編 百花譜百選』(岩波文庫)をながめていると、かはらなでしこ(河原撫子)の絵がありました。ピンクの花をつける野草です。こどもの頃には野原やあぜ道でよくみかけましたが、ながいこと野生のものは見た記憶がありません。十年ほどまえ、福井で道ばたに植えられているのをみました。白い花のものもありました。
かってはどこにでもあったものが、いつのまにか無くなってしまう現象に、いろいろと出会うのは、それだけ長く生きてきたということなのでしょう。
こどものころには、読み書きのできない大人がまわりに何人もいました。人形浄瑠璃のお師匠さんとか、子守りのおばあさんとか・・・キセルで煙草を喫っていたすがたを想い出します。となりのお婆さんは道端で立ったまま小用をしていました。
秋の稲刈りのあとの田圃は少年野球のグラウンドでした。低学年から高学年まで群れて遊んでいました。いまは高齢者がグラウンド・ゴルフをしています。社会は変化し続けています。いろんな現象を眺めて、楽しんでいられるのは年いった者の特権です。