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七赤金星はツムジ曲り [読書]

 今日から9月です。南方の海上を大きな台風が北上しています。ここ数日、朝は少し気温が下がってきましたが、これからは台風の季節になるのでしょう。


  野分して蟬の少なき朝(あした)かな (子規)


 正岡子規が生まれたのは慶応3年で、徳川慶喜が大政奉還し、坂本龍馬が暗殺されたような年です。どういう訳か才能というのは一時に、かたまって出現することがあるようで、夏目漱石、南方熊楠、幸田露伴、宮武外骨、尾崎紅葉、斎藤緑雨なども慶応3年生まれです。


 坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(マガジンハウス)は、そんな七人の関わりを時代とともに経年的に、絵巻のように書き表した愉快な本です。たとえば


 夏目漱石は、<何でも私と新渡戸氏とは隣り合つた席に居たもので、その頃から私は同氏を知つてゐた> と語っており、漱石は成立学舎という予備校で新渡戸稲造と一緒に英語を学んだそうです。千円札と五千円札が予備校で並んでいたとは愉快です。


 南方熊楠は和歌山から、<出京して共立学校に入った時、高橋是清先生が毎日、ナンポウと呼ばるるので生徒を笑わせ、ランボウ君と言わるるに閉口した。> と語っており、熊楠は予備校で高橋是清に英語を習っていたそうです。半年後には、同じ学校に松山から上京してきた正岡子規も入学しています。


 熊楠は正岡子規について、<当時正岡は煎餅党、僕はビール党だった。もっとも書生でビールを飲むなどの贅沢を知っておるものは少なかった。煎餅を齧っては、やれ詩を作るの句を捻るのと言っていた。自然煎餅党とビール党の二派に分かれて、正岡と僕とが各々一方の大将顔をしていた。今の海軍大佐の秋山真之などは、始めは正岡党だったが、後には僕党に降参して来たことなどもある。イヤ正岡は勉強家だった。そうして僕等とは違っておとなしい美少年だったよ。> と河東碧梧桐に語ったそうです。


慶応三年生まれ七人の旋毛曲り―漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨とその時代

慶応三年生まれ七人の旋毛曲り―漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨とその時代

  • 作者: 坪内 祐三
  • 出版社: マガジンハウス
  • 発売日: 2001/3/22
  • メディア: ハードカバー
 明治17年7月、漱石、子規、熊楠は同期で大学予備門に合格する。尾崎紅葉は一年前に合格していた。漱石は子規との出会いについて、<彼と僕と交際し始めたも一つの原因は、二人で寄席の話をした時、先生も大に寄席通を以て任じて居る。ところが僕も寄席の事を知つてゐたので、話すに足るとでも思つたのであらう。それから大に近よつて来た。> と語っています。


 子規は英語が苦手で、大学予備門に入学後も英語の授業についていけず、進文学舎という予備校へ通い、若き日の坪内逍遥の授業を受けています。子規は逍遥の講義について、<先生の講義は落語家の話のやうで面白いから聞く時は夢中で聞いて居る、その代わり余らのやうな初学な者には英語修業の助けにはならなんだ> と書いているそうです。坪内逍遥は当時、東京大学文学部の学生でしたが、卒業試験に落第し、進文学舎で教鞭をとっていたようです。


 漱石らが予備門に入学した明治17年、幸田露伴は電信修技学校を卒業し、中央電信局で実務練習を始め、斎藤緑雨は『今日新聞』に入社しています。翌18年春、宮武外骨が香川から再上京して来て、七人が東京に揃うことになります。彼ら全員が東京に揃ったのは、この年の春から夏にかけての数ヶ月だけのことだそうです。露伴は夏には研修を終えて北海道余市に赴任し、熊楠は翌年2月に予備門を中退し、12月にはアメリカに旅立ちます。彼が帰国したのは明治32年、再び上京したのは大正11年で、その時にはすでに、子規、紅葉、緑雨、漱石は他界していました。


 明治22年5月9日、正岡常規が喀血します。6月のある日、子規が漱石の家を訪れ、二人で散歩にでかけ、< ちょうど近くの水田に植えられたばかりの苗が風にそよいで心地よかった。このとき子規が驚いたのは、漱石が、その苗から、つまり稲から、米が出来るのを知らなかったことだ> そうです。子規は <もし都(みやこ)の人が一匹の人間にならうといふのはどうしても一度は鄙住居(ひなずまい)をせねばならぬ> と書いているそうです。


 明治24年の学年試験の途中、子規は <段々、頭脳が悪くなつて堪へられぬやうになつたから> と試験を放棄して、6月末に松山に帰省してしまう。


 漱石は7月18日付けの子規宛の手紙で <(前略)御帰省後御病気よろしからざるおもむき、まことに御気の毒に至存候。さやうの御容体にては強いて在学被遊(あそばされ)候とても詮なき事、御老母のみかは小生までも心配に御座候へば、・・・(中略)それも僕が女に生まれていれば一寸(ちょっと)青楼へ身を沈めて君の学資を助るといふやうな乙な事が出来るのだけれど(後略)・・・> と書いており、漱石の真情がうかがわれます。


 大正6年、漱石が亡くなった後、宮武外骨は漱石や外骨と同じ慶応3年生まれの七赤金星たちの名前をあげ <これらの人々が揃いも揃つて、いづれも旋毛曲りなのは、昔の性学者のいふ如く生れ年によるのであらう、(後略)> と書いているそうです。しかし、私の生まれた年も七赤金星だったような・・。


 ちなみに、著者の坪内祐三は幸田露伴や森鷗外の友人で歌人であり、柳田國男の兄でもある眼科医・井上通泰の曽孫なのだそうです。昭和33年生まれの著者は本年1月に他界されています。




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さっかん

この時代の事は、私には「坂の上の雲」でしか知りませんが、誰もがそれぞれの分野で頂点になれた時代というか、なろうとした時代でしょうか。封建時代に貯まったエネルギーが爆発したのかなあ。明治維新からほんの20年30年しか経っていないというのが驚きです。
by さっかん (2020-09-02 01:03) 

爛漫亭

 いろんな分野で、才能が噴出する時が
あるようですね。「花のニッパチ」とか。
今は「松坂世代」の引退の時期になって
いるようです。

by 爛漫亭 (2020-09-02 08:46) 

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